2016年06月21日

たかが出汁、されど出汁(2/2)


《2》
 女優だった沢村貞子さんは、『沢村貞子の献立日記』『わたしの台所』などのエッセイストをたくさんものした。若い人はご存知ないかもしれないが、親も兄弟も甥も演劇一家である。津川雅彦は甥にあたる。
 「献立日記」は沢村さんが57歳から84歳までの26年間、毎日続けた献立日記であり、暮しかたと夫との過ごし方の記録でもあった。
 沢村さんはいっさい外食しなかった。女優だからあちこちロケ地を飛び回らなければならないけれど、彼女は泊まりがけの仕事は断った。家で料理をするためである。

 自分のためでもあろうが、夫に一汁三菜の食事を朝から律儀に食べさせるためであった。レシピも載っているが、毎日何十年続けることの偉大さ、であろうか。
 ちなみに沢村貞子は生涯350本以上の映画に出演した大女優であった。左翼演劇活動をして戦前、二度の逮捕歴があるが、転向しないでがんばった意志の強い人である。

 戦前に俳優の藤原釜足と結婚したことがある。戦後すぐ映画・演劇評論家の大橋恭彦と京都で出会い交際が始まる。大橋が上京して事実上の夫婦となったが、大橋に家庭があったため、離婚は認められず22年後の1968年に正式に結婚した。
 その夫を大事にして沢村は毎日食事をつくり、献立を記録した。

 頭がさがる。現代の女優やタレントは、行きつけのレストランの何がうまいなどとテレビで語ったり、ブログで自慢したりしている。グルメを競っているけれど、家族を思って食事をまめに作る様子はない。だからみんな若くして癌になる。

 当然、沢村さんは時代が時代だったが、インスタント出汁なんかは使わなかった。出来合いの総菜なんかでごまかさなかった。ゆえに、エッセイを書いても名文と称讃されたほど、頭脳が冴えた。
 今時の女性は、おっくうがって昆布や鰹節でまっとうな出汁を取らない。「だって忙しいんだもの。仕事を持ち、子供の面倒まで見て、本格的な出汁なんか取っていられない」と、口を尖らせる。

 しかしね。沢村貞子さんをみなさい、と私は言っている。彼女は子供こそいなかったが、仕事を持ち、エッセイを連載し、多忙でなかったわけではない。それが毎日三食、料理するだけでなく買い物をし、献立日記までしたためていたのだ。
 毎日、安くて栄養があっておいしいものを考えて作るだけでも、頭をしっかり働かせるから、ボケないうえに、健康な身体を作ることができたのである。

 インスタントの、「調味料(アミノ酸等)」入りの、お手軽な出汁で済ませれば、栄養はない、人工添加物で体も脳も腐っていかざるをえなくなる。出汁の良い香りも知らずに、五感器官の一つ、嗅覚も鈍いまま。その上、毎日のくり返しを面倒がり、楽にすませようとの怠惰に蝕まれていくのである。言い訳ばかり達者な人間になる。
 
 まだある。
 親がそうやって出汁をとることをおっくうがって、怠けを選択すれば、それを日にち毎日子供が見て学習していく。例えば、算数の計算を、紙のうえでやるのではなしに、はじめから電卓でやってしまうようなものである。あるいは、漢字が書けなかったら辞書を引くべきを、面倒だからひらがなのままでいいとか、PCのキーボードで打てば自動的に変換してくれるからいいや、と言うようなものだ。

 親が出汁をとるのを億劫だと言えば、子供も真似て、そうやってなんでも億劫、かんでも面倒と言って楽を選択するようになる。「だって、それって面倒なんだもの」「みんながそうやっているんだから」と言い訳が上手な子供になっていく。
 あげくに勉強が面倒になり、偏差値が低くて大学にすら入れないで専門学校に行くしか道がなくなる。専門学校が悪いというわけではないが。

 たかが出汁じゃないかと言うべきではない。人間は弁証法性なのである。あること続ければ、必ず量質転化を起こすのである。出汁をとるのは億劫だ、のココロを毎日続ければ、何事にも億劫な人間に、面倒なことは避けたがる人間になっていく。自分だけでなく、それは亭主にも子供にも相互浸透していくのである。

 親は日々の食事に、旬の新鮮な素材を吟味し、添加物のない調味料を揃え、伝統に沿った出汁をとる、そうしたまともな調理をするには、手間がかかることを子供に教えなければならない。日がな一日、「勉強しなさい」「塾の宿題はどうした」とわめき散らすだけではダメである。子供には強いても、自分は肝心要の食事で手抜き三昧で、子供に示しがつくのか。

 沢村貞子さんが弁証法を知っていたわけではあるまいが、見事に彼女は弁証法的に生きた。 
 再三説くように、認識は感情で創られる。インスタントで済ませていいやとの感情が、認識のすべてに浸透する。
 「適当でいいや」「そこまでしなくても」「良いのは分かっているけど、できないよ」「ま、なんとかなるんじゃないの」といった、その感情で認識が創られる。
 その感情が生涯に渡って、あなたの人生を「事をなさしめない」という形で妨害してくるのだ。

 なのに、「わたしは弁証法を使って仕事をしています」と堂々言い切る女史がいるかと思えば、それを信じてその女史を「弁証法の達人」と軽々しく褒めそやしてしまう人がいて、驚く。
 弁証法を駆使しています、という女史は、聞けば「出汁? そんなものインスタント出汁で済ませているわ」と答える。「昆布や鰹節がいいのは分かっているけど、料理に時間がかけられない」とも言う。なんだ、なんにも弁証法がわかっていないじゃないか。

 弁証法は論理であり、また感情であると書いてきたが、弁証法を学ぼうとか、自家薬籠中のものにしたとか言うなら、たかが出汁ひとつでも、おっくうがってインスタントで済ませられる感情にはなれないのである。化学調味料を摂取して相互浸透したらどうなるか、それを連日続けたらどんな量質転化を起こすか恐くなる感情に、ならなければならない。

 だから、まともな出汁も取らないいい加減な食事をしておきながら、しかもそういう日常を科学したこともない。南ク継正の著作を学ぶことは億劫だから、適当に一言隻句だけ聞きかじって「どうせこんなもの」と勝手に決めつけるくせに、言うことだけはいっちょまえ。
 俺は弁証法は間違っていると思うぜとか、「生命の歴史は間違いだろ」とか誹謗中傷する輩が、いかに愚か分かるのだ。

 平気で文末に「WWWW」などと付けて相手を揶揄した気になって、自分のほうが賢いと自惚れる、そのココロは、まさにインスタント出汁で怠け、香りも偽物、味も偽物の食事でいられる神経そのものなのである。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする