2016年06月25日

弁証法は“国語力”ではわからない


 三浦つとむ著『弁証法はどういう科学か』は、弁証法学習の基本書であると、南郷学派では説かれている。
 もし弁証法に興味を抱いて、この基本書を読みにかかったとしても、私たちはすぐさま蹉跌を味わうことになる。
 弁証法がどういう科学かは、三浦さんが知識的に説いてくれているけれど、それをどう学べばいいかが説かれていないからである。

 私たちは、否応なく人様の文章を学校で習ったとおりに“国語力”で理解しようとする。むろん読み書きの国語力がなければ理解の端緒にさえ立てないものの、それだけでは知識は得られても、こと、弁証法については、理解し使えるようにはならない。
 ここが弁証法修得の壁になる。
 
 『弁証法はどういう科学か』の文章は、像に転換しなければならないとされる。これが弁証法が分かることなのだが、学校教育ではなかなかに文章や言葉を像で捉える勉強を教えてもらえない。しかたなく国語力でがんばることになる。

 「弁証法って哲学でしょ」と断言したご仁がいたが、これが典型的な「言葉で分かったつもり」である。弁証法の像もなければ、哲学の像もないのに、こういうことが言えるのこそ、学校時代から秀才の誉れ高かったご仁の特質になる。

 弁証法の理解は、どういうものかが分かるだけでなく、どう学んでいけば使えるようになるかが大事なことである。その、どう学んでいくべきかを説いた方は、史上、南ク継正先生しかいない。古代ギリシャの哲人も、カントもヘーゲルも説けなかった。
 だから現今、弁証法を知識的に知るならともかく、使えるレベルで修得するには、南ク継正先生の著書にすがるしかない。

 これは何度も例として挙げているが、空手を知識でわかるのなら、本を読み、動画を見れば分かりはするが、空手で闘えるようにはならないのと同じで、弁証法も駆使するには、自分で実践して生き生きした像を創り、かつ使ってみせて何事かを解くことなのである。
 したがって、「弁証法は哲学でしょ」とは、な〜んにも分かっていないタワゴトである。「空手は格闘技でしょ」と言っているようなものだ。それが正解だとしても、空手の技で闘えるものではないからだ。

 以前、大陸移動説をウソだと断言しておいたが、大陸移動があると思えるのは、像を形成する実力が乏しいための起きる気の毒な誤解である。あの場合はよく図が示されて、地球上で一つだった大陸が、マグマの力(?)で移動していって現在の形になったと示される。
 そうした図は、紙に描かれるせいもあって見事に平面図であって、決して立体的な像ではない。

 だが地球は球体であることを忘れている。球体の像が描かれることなく、平面図で理解したつもりになる、この恐ろしさ。アホらしさ。巨大な球体の地球で、海にぷかぷか浮いているわけではない大陸が、いそいそと移動するなんて、狂気の沙汰である。大陸がもし移動したら、地球が壊れることぐらい像ができないのだろうか。

 これは図での話であるが、ことほど左様に、受験秀才ほど、像ではなく言葉や紙の上の図でわかってしまう。三陸を襲った10メートル高さほどの津波でさえ、どれほど陸地を破壊するか、その像でもあれば、地球の上を大陸が移動したとしたら、どれだけメチャクチャに壊れると思うの?

 移動した証拠が、例えば大西洋を挟んで、南米東側の海岸線とアフリカ西側の海岸線が、あたかもクッキーを割ったかのように、合わせてみればぴったり形状が合うと言う研究者がいる。バカ言ってんじゃないよ〜♪ それこそ移動なんかしなかった証拠でしかないじゃないか。移動してなお海岸の形状が変わらない? アホか!

 話を戻せば、大陸移動説をとっても、国語力でわかる人は像を描かずにわかるつもりだから、とんでもない話を「わかって」しまう。
 弁証法もまた同じ。

 物理には苦い思い出があって、高校2年のときに新任の物理の教諭が着任し、教えはじめた。今思っても、この教師はダメ人間で、生徒に物理の像を創らせる授業をしなかった。
 いつも仏頂面で、自分勝手にユーモアのひとかけらも無くしゃべって終わる。おそらく生徒の一人としてあの先生の授業はわかりやすいとか、人間が尊敬できると思った者はいなかったと思う。

 それで私もいっぺんに物理がわからなくなり、面白くなくなった。
 この物理の教師は、教科書もそうではあったが、全部計算、数式で授業をするのだった。数学の授業と変わりがなかった。 
 数学は割り切って数字を扱っていても、物理がこいつのせいですべて数字になったことが痛かった。

 例えばアインシュタインの相対性原理の数式があって、E = mc2
と表す。みなさん、相対性原理を像として教えられずに、この数式だけで解れ、暗記しろと言われて、教師についていけますか?
 わが遥かなる高校の物理の教師は、これだった。

 物理は地球上の、あるいは宇宙の実際にある現象を認識として捉えたものである。本来的に認識は数字にはならない。よく笑い話として、恋愛指数をはじき出そうとする研究者が現れては、好きの度合いを数字で測ろうと試みる向きがあったが、そんなことができるわけがない。

 弁証法は、数で計算するのではなく、像で計算するようなものだと説かれる。
 だから像で考えれば(弁証法の像で考えれば)、相対性原理が成り立たないことぐらい簡単に解るが、数式で出されるといかにも本当らしく思ってしまうのが、現今の私たちの悲しい性なのである。

 アインシュタインは、自分の「相対性理論」なる空想を、数式化したので、これでいける、となったのだろうが、数学がわかる頭脳は怖い。彼は物理の問題を計算でと解こうとしたから、頭が悪くなったはずである。
 宇宙の像、あるいは光の像でもいいが、像がさらに像でまとまって行くのが、構造の構築である。最低でも、地球上でしかもせいぜい100メートルほどを、不完全な装置で測ったのが光の速度だとわかっていたら(像ができていたら)、宇宙空間では光の速度は一定で、直線を進むなどということはウソだろうと気づかなければならない。

 光が直線で進む、速度も一定としないと、数式が成り立たないから、強引にそう解釈する。
 しかし、光が速度が変化せず、真っすぐ飛ぶなんてことは、物理的像を持てれば、あり得ない話だとただちに分かるのである。それが弁証法の像である。

 しかし、たいていの人は、数式のほうを信じる。は? なんで?
 数式の虚構の世界に入れば、計算して答えの数字が出るから、正しいと思い込む。
 ご愁傷さま。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする