2016年06月27日

遊郭とは何だったのか(1/3)


《1》
 『源氏物語』には枕絵がついていた、とはよく言われる説である。絵巻物ではなく、だ。
 現在残っているのは、性行為の描写を除いたいわば“純文学”的な物語だけだが、本来はいわばポルノの要素があった。
 上級貴族や大名の娘などが嫁ぐときには、親は『源氏物語』全巻を嫁入り道具として持たせたこともあった。一つの資産でもあったろうが、性行為の仕方を親が、詳細かつあからさまに教えるわけにもいかないだろうから、これを読んで(枕絵を見て)、理解しなさいと。

 『源氏物語』は古典中の古典、世界最古の小説、とされているから、大学の国文科でも研究対象にする人は多い。現代語訳あるいは翻案に挑んだ小説家も、与謝野晶子、谷崎潤一郎、田辺聖子、瀬戸内寂聴らがいる。
 研究者たちは『源氏』がポルノだということになると、それを研究してます、とは言いにくいから、素知らぬ顔で無知な女子大生なんかに教えている。

 英国のビクトリア王朝時代の『我が秘密の生涯』(田村隆一訳)も壮絶かつ驚嘆すべき性記録文学であるが、『源氏』にもそのような要素があったのではないかと推察される。
 『我が秘密の生涯』は、以下に解説がある。
http://jounin.web.fc2.com/1MySecretLife/MySecretLife.html

 新書判の本だが、細かい字でニ段組みになっている。それこそ毎ページに1回は性交があるほどの、圧倒される性交描写の連続であるが、このビクトリア時代の英国には無国籍者になったマルクスがいた。『我が秘密の生涯』は、官能小説でありつつ、当時の無慈悲な階級社会を見事に描いている。マルクスはこの小説にある社会を見ながら『資本論』を書いたのだと思うと、共産主義が生まれる一つの生々しい現実背景が見える気がする。というより、マルクスは下層の民を見ないで、せっせと大英博物館に通って本を読み漁っていた。

 だからマルクスの『資本論』を読んでも、えげつない階級社会の具体的像はいささかも読者に反映してこない。それこそ実感の得られない「一般論のマルクス」で終始した。19世紀イギリスのえげつない格差社会は、わが国にはほとんどないに等しかった。本邦と英国の性のありようの違いを通して『我が秘密の生涯』ではいわば実感的に理解できる。

 ポルノグラフィが発禁になり、性行為も隠れていたすものになっているのは、功罪半ばすると私は認識している。功のほうは、男女の性愛を押さえることでいわばココロの至純を得てきたことであろう。動物的欲望に走らず、異性への思いを胸に抱いて熟成させることで、感情が豊かになる。
 罪は性交が暗黒のヴェールに覆われ、誰もが“正しく”教えられないまま、異性と関わらざるを得ないこととなっていることではないか。また、禁酒法と同様に、ダメと言われるとヤクザが裏で商売をするだろう。

 性交についての言い伝えも、ほとんどは男女を脅すためのものばかり。処女伝説、名器伝説、オルガスムス、失神などが陰微に流布されて、その誤解で傷ついた女性も多いだろうし、男も劣等感に悩まされるなどの悲劇を生んでいる。初夜に失敗したり、相手の反応が冷たい場合、自分は不具ではないかと、男も女もむやみに怯えることにもなる。

 傑作だったウソは、生物ではモグラと人間の女性にだけ処女膜がある、というやつだった。こんなことでも、まことしやかに先輩から後輩へと伝承される。そういう伝説がウソかマコトかは、自分でひそかに雑誌や本で確認するしか手はない。
 性交の知識は、昔から友人からとか、本で読んでとか、芝居や映画で観て得るものである。“正解”が得られればいいけれど、先輩や友人は、無知な男にはわざとウソを教えて、脅すことがある。

 例えば、先輩が童貞の後輩に処女なら破瓜の際に出血するものだと教えるとする。そんなことはウソだが無知な男は信じる。で、実際の場面で出血がなかったら、その女は処女じゃなかった、俺にウソをついた、とんでもないアバズレだと思い込んで「百年の恋」も冷めて別れる。女のほうは好きな男に処女を捧げたのに、とんだ誤解で一方的に罵倒され、捨てられる。
 女はもう二度と男は嫌だと、修道院に逃げ込むとか…。

 男のほうにも多々ある。早漏、遅漏、短小…。そういう誤解でひどい劣等感にさいなまれる者も多かろう。徴兵検査でのM検も誤解を生んだ。M検査のMはサンスクリット語の「魔羅」からきたもので、徴兵検査で性病と痔疾の有無などを確認するためであったが、このとき軍医が診察して童貞でないと判明すると面罵される、とはウソであったが、巷間ひそかに伝わっていた。医者が見たって、童貞かどうかは分かるわけがないし、新兵が童貞でなければ失格だなどと言う規則があるわけもない。

 しかし情報がなければ、そんな勘違いが生ずるのも無理はない。
 ほかにも、女性にどうアプローチしていいかわからないとか、キスの仕方もわからないとか、変なことを先輩から吹き込まれたために恋人を娼婦のように扱っちゃったとか。変態になるとか。

 こうした類いの悲劇、喜劇は世界中にごまんとあるだろう。イスラムの女たちが真っ黒の衣装で目以外の肉体を隠すのは、イスラム以外の人には異様に見えるが、夫以外の男性には欲情の感情を湧きおこさせない仕組みだから、それなりに合理性はある。
 イスラム世界に対して、女が抑圧されているとか、遅れているとか言うべきではない。

 女に余計な知識を与えないで、夫にすべてを任せる。女は夫が全てだから、何かと比較することなく、これが夫を愛することだと信じて一生を終えることができる。
 だからキリスト教圏には修道院があるが、イスラムには修道院がない。如何に女が性のことで傷ついていないか、でもある。

 日本の場合、とりわけ戦前は性交については暗黒時代で、誰もが手探り。ポルノだって発禁なんだから、遊郭に出向いて商売女から教わる以外になかった。鉄砲の撃ち方も知らずに戦場に放りだされるようなものだったろう。それが戦後、性の開放が進んで暗闇からやっと明るみに出てきたのである。

 現代の人間から見れば、遊郭は非人道的で、女を性奴隷にして悪辣な商売にしか思えないだろうし、いかにも女性の身売りとか悲劇があった。しかしプラスの面もあったのである。それが暗闇で困惑する男に性交の手引きをしてあげる機会だったのである。
 軍隊での慰安婦が、女性の人格を否定する犯罪であるかのように言い立てるサヨクがいるが、あれを単に男のみっともない欲望のはけ口とだけ捉えるのはまちがいである。軍隊に入って、慰安所に連れていかれて、生まれて初めて性交のいたし方を学んだ少年も多かったはずだ。

 そのお陰で、彼らは結婚して初夜を迎えるにあたって、純潔を保ってきたはいいけれど、何をどうするか分からなくて新郎新婦で途方に暮れずに済んだのである。慰安所や遊郭で、童貞を捨ててもらっているからこそ、男は自信をもって初夜を迎えられた。新婦のほうも恐がることなく安心して身を委ねることができただろう。
 こう説くと、アホなサヨクから、それは国家が兵隊を増やすために「産めよ増やせよ」の政策の一環だったのだと、得意の誹謗中傷に持ち込もうとするだろうが、はなはだしい迷蒙というべきであろう。

 私が申しているのは、人間は本能を喪失しているのだから、男は教育されて男になるのである。女も教育されて女になる。教育されなければ性交も出来ない、子供も生めないままである。また男が男になる過程で教育され方や自己の学習の仕方を過てば、同性愛者になることからもこれは分かることだ。
 戦前はとりわけ、性交の知恵がすべて暗黒のなかでの手探りだったから、遊郭でそれを得るしかなかったのが一般的だった、それだけのことである。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする