2016年06月28日

遊郭とは何だったのか(2/3)


《2》
 遊郭の話のつづきになる。
 私も戦後生まれで遊郭は行ったことがない。だからどんな実態だったかは、小説や映画で知るばかりである。
 今は映画もあれば、AVもある。エロ雑誌もあふれかえっている。そこでこっそり学習するから、初夜を迎えて周章狼狽せずに済むようになっている(と思う)。仮にそういうものを一切禁じたら、また男も女も暗黒に放り込まれて、それこそ出生率はガタ減りし、離婚も増加するだろう。
 なにせ親も学校も教えてくれないのだから。

 学校で敵性日教組がやらかしているのは「性器教育」であって、ただ単にどうせ大人になって知るんだから、小学生に教えちゃえ、という低度の“悪さ”である。
 人形を使って「体位」まで教えるのは、戦後に流行した高橋鐵、謝国権、ドクトル・チエコ、奈良林祥などの古めかしい「医学的性解説」から一歩も出ていない。
 谷沢永一氏は以下に紹介する本の中で「体位、という全く無意味な駄弁を売っていた」と書いている。

 さて、遊郭であるが、以下に谷沢永一著『もう一度読みたい昭和の性愛文学』(KKロングセラーズ刊)から引用させていただく。既婚の男が遊郭に行くなんて穢らわしいと思わずに、まあ話を読んでいただきたい。

     *     *
 
 嘗て遊郭が存在した条件について、世の誤解が訂正されないまま、連綿として今日に至っている。
 昔の遊郭は高価であった。未婚の若い男がしばしば訪れることができるような、手軽な存在ではなかった。一般の若者にとって、遊郭に泊まるなど、経済的に不可能であった。最も安価(やす)いチョンの間を申し入れ、登楼するだけでも、所得に比べて懐がかなり傷んだ。

 それゆえ、平素より値下げをする通例の紋日(もんび)には訪れる若者が殺到したものである。
 女郎と一夜を過ごす泊まりには、主として中年の妻帯者で、それ相当に懐の温かい男たちが赴いた。
 妻がいるのに何故金を払ってまで宿泊するのか、サマセット・モーム流に言うなら、自家(うち)では無料で手に入るものを何故金を払ってまで求めに行くのか、男の家庭が殺風景だからである。

 女郎の部屋に入ってみるがいい。そこには年代ものながら、よく拭き清められた茶箪子があり、違い棚には可愛らしい人形その他が飾ってある、座布団は清潔でふんわりと柔らかく適度に厚い。
 火鉢には備長炭が活けてあり、灰はきれいにならされている。どちらを向いても温かい雰囲気が上品にかもしだされていた。
 すなわち、擬似的な居間の構えである。

 然り、其処は理想的な心の安まる家庭の舞台装置として演出されている。そこで台の物(つまり夜食)を取り寄せ、甲斐甲斐しく世話をされて満足の気分を味わう。
 男は、家の妻の無神経で無愛想な振る舞いに倦怠感を消去できず、一時(ひととき)の安らぎを求めて女郎の部屋に入り、そこで疑似家庭の安堵感を楽しむのである。

 あとの床入りはオマケであった。何も性に渇えて(かつえて)いるわけではないからである。察するに男の妻は、亭主にまめまめしく仕える生活に飽いて、万事ぞんざいになっているのであろう。
   添乳して たなにいわしが御座りやす(『柳多留』第十四篇)
 女房は、赤ん坊に添乳するため、つまりは布団のなかに寝そべっている。そこへ今日一日汗を流して働いた亭主が帰ってきた。

 女房は起き上がりもしない。顎で物言うように投げ言葉で、台所の棚に干鰯があるから、それを生のまま齧って飯を喰えというのである。飯だけは炊いてあるけれど、それは釜のなかですっかり冷えている。
 世に冷飯(ひやめし)食いという、その冷飯だけを女房が用意した。しかし汁までは手がまわらない。
 (中略)

 今日一日精一杯働いてきた夜食の待遇がこのようでは、男が生き甲斐を感じるわけにはいかないだろう。こういう類いの男たちが、遊郭でかりそめに家庭の味を感じようとしたのである。現代社会と違って、女房を離婚することなんて不可能であった。それは女ひとりを死地に追いやるような残酷な措置である。

 いったん結婚した以上、亭主は我慢を重ねなければならない。
 遊郭は、離婚された女が路頭に迷う悲劇を阻止するための、社会的安定装置の役割を果たしていたのである。

     *     *

 これが世間知に長けた人の見識であろう。幼稚なサヨクのように、ひたすら、後先考えずに、善か悪かのみ言い立てるのは愚かである。世の中には、どうしても、そうせざるを得ないことに満ちている。性の世界も、である。
 私は遊郭は娼婦と性交するところとしか認識していなかったから、蒙を啓かれた。なるほど、と。
 そんな遊郭の疑似家庭なんて、いい大人がままごとかよと軽蔑する向きもあろうし、そう言えないこともなかろうが、日本人はそんな売春の場でも、一方的な男の性欲のはけ口にしたわけではなかったことは考慮しなければなるまい。

 谷沢氏が挙げているような夫婦を、一体誰が修復し得るだろうか。できるわけがない。韓国人が反日を止められないのと同じだ。どちらにも言い分があって、歩み寄る手はない。なんとかなるとほざくのは、新聞の人生相談回答者か、新興宗教であろうか。
 遊郭は道徳的には忌むべきかもしれないが、偽善ではない一つの解決の仕組みだった。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする