2016年07月14日

リハビリの正否はどう分かれるか(1/3)


《1》
 リハビリのことについては、何度か本ブログで取り上げてきたが、「変わりたくない自分の感情」(6月3日付)に、錦見有恒様からコメントをいただいた。この方は「機能訓練を中心としたリハビリ・デイサービスで仕事をしている」と書かれていた。
 「ほとんどの方が動けないレベルでやってきて、何とかしてくれと頼ってきますが、その前にご自身で何か努力しましたか?と言いたくなります。口を開けば愚痴や不満だらけです。」と。

 それを受けて、またリハビリについて書いてみようかと思う。
 私自身はそうしたリハビリを受けたことがなく、病院でちょっと見学したのと、テレビで様子を知るのみだから、実際は違うかもしれないことはご容赦いただきたい。
 
 理学療法士・作業療法士や介護職の実践におそらく欠けているのは、人間は認識と実体との相互浸透的統一体という理論ではないか。さらに言えば、人間は認識と実体との相互規定的存在である。
 むずかしい言葉をのっけから使うなと言われそうだが、これは弁証法を学んでいなければ分からない。普通の人は認識と実体を別々と捉えている。

 簡単に言えば、カラダを動かすことと、心の持ちようは互いに影響しあうのである。カラダが思うように動かせなければ心は落ち込む。心が前向きでなければカラダを動かしてリハビリに勤しむ気になれない、などである。
 それを学問的に捉えて「人間は認識と実体との相互浸透的統一体」とするのであり、結果として心がどのようなことをしたからがんばってカラダも動くようになったか、カラダがどうやって動くようになったから心も明るくなったか、というありようを見てとって「相互規定的」だというのである。
 
 例えば、リハビリを行なうトレーニング施設の部屋の中。
 これは果たして、患者がリハビリをするのにふさわしい心とカラダのためにベストの状態なのであろうか。どうも療法士の仕事に都合の良い視点でしか創られていない気がする。リハビリをするための器具があり、空調も整い、スタッフが揃っていて申し分ないようではあるが、患者が「今日も行きたい」と胸躍らせる部屋になっているのか? そんな必要はない、リハビリに必要充分な施設だと言うだろうけれど。

 例えば動物園を想起していただきたい。トラでもゾウでも、生きていくには動物園は必要充分な施設であろう。だが、あの狭い空間が動物にとって幸せな環境と言えるのか? 
 餌はもらえる、糞尿は始末してくれる、外敵はいない。自然界にいるより長寿かもしれない。でも…、生きていると言える?

 別の例で言うと、私は都会にあるジムには行きたくない。狭い空間にウエイトトレーニングの器具が置いてあって、親切に付き添って指導してくれるインストラクターもいる。筋肉を動かすに必要充分なものが揃っているにはいる。でも、あの人工的な施設の中にカネをはらってまで行きたくない。

 昔、シルベスタ・スタローンの主演映画『ロッキー4 炎の友情』(1985年)があった。ソ連のボクサーと米国のボクサー(ロッキー)が闘う。ソ連の選手はジムでいわゆる科学的と称されるトレーニングで最強のカラダを手に入れている。一方のロッキーは雪のなかで走ったり、木を斧で切り倒したりして鍛え、ジムでの器具を使ったトレーニングは行なわない。
 この映画はそのトレーニング法を対比させ、どちらが正しいかを解いた点で名作である。

 以下に予告編が見られ、ストーリーの概略がわかる。
https://www.youtube.com/watch?v=3S4ypty5ZGw
 その上で、以下の両者のトレーニングの詳細が見ると良いだろう。
https://www.youtube.com/watch?v=q57qB6Kwroo
 リハビリや介護関係の方はご覧になると良いと思う。

 そう申せば、だいたいのところは分かっていただけようか。
 例えば、リハビリで歩くのは、花と緑あふれる公園だとか、川のせせらぎや野鳥の鳴き声が聴こえるとか、広大な海原が目の前に広がっているとか。リハビリのときの支えになる棒は自然の枝であるとか、そういう心休まる場所なら、どんなに前向きになれるだろう。

 と思うのは、おそらく禁止であろう。
 冗談じゃない、そんな施設にしたら、スタッフの苦労は増加する、カネがかかる、リスクもあるなどと言われて、そんな夢物語は現実を全く知らないアホが言うことだと一蹴されるにちがいない。けれど、それを無視できるということが、「人間は認識と実体との相互浸透的統一体」だということが理解できていない証左である。

 こう言えば不謹慎の誹りを受けようが、男の老人のリハビリならば、若い女性スタッフがビキニを着て介助したら、どれほど老人がリハビリに意欲的になり、頑張るか、誰でもわかるだろう。まさかそれはセクハラだとなじられようが、私が言っているのは、人のココロとの関わりである。現今のリハビリは、筋肉さえ動かせば能事足れりとしているのではないかということだ。

 以前、本ブログで紹介したことがあるが、完全に痴呆と見られていて植物状態にあった老婆を、その義理の息子さんが、リハビリを行なって、見事奇跡に回復を成し遂げたことを。
 具体的には、いかに神経に働きかけるかであった。

 「まずは、締め切った部屋の窓を開けて新鮮な外気を取り入れ、布団を敷き替え、体を洗ってやりました。次は家族に話しかけるようにさせ、私は萎えた両足を丁寧にさすり(血行を良くすると共に神経が通うようにと)これはその日2時間以上おこないました。この日は変化なし。

 次の日起きると同時に窓を開け、体を拭いて、それから又話しかけながら足をさする。
 午前中、田舎の親戚回りをするというので、お婆さんを背負って一緒に外に連れだすことにしました。何軒かの親戚を回ったときには、物言わぬお婆さんに親戚の人たちが『連れてきてもらってよかったね』とか『まー、おぶってもらって』とかいろいろと話しかけてくれたのです。」


 その結果、老婆の意識が突如戻り、家族と話ができるようになったのだ。これは夏休みを利用して奥さんの実家に滞在したほんの数日の出来事なのである。
 彼は「人間の認識は五感器官をとおして(神経を働かして)外界の反映である」という原則(一般論)をもとに働きかけようしたのであった。

 誰もが見逃しがちだろうが、「窓を開けて外の空気を入れた」ことも回復への大きな要因であった。たいてい、老人は自分からもそうだが、家族は危ないからといって家に閉じ込める。よって、外界を五感器官を通して神経を働かして反映させることが乏しくなって、痴呆にいたるのである。

 本来はアタマがヤワになりはじめてから、いざリハビリとなるのではなく、若いころから、五感器官を通して神経を働かせる習慣や意欲を創っておくことである。
 リハビリに関しては問題は多々あるが、今回は一部に絞って言及してみた。いうまでもあるまいが、努々これで全てだとは思わないでいただきたい。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする