2016年07月16日

リハビリの正否はどう分かれるか(3/3)


《3》
 では具体的に、K氏のリハビリの様子を説明する。
 K氏は左半身が麻痺したそうで、「なった人でないとあの痺れはわからない。だからそれが辛くて、みんなあきらめてしまう。だが、絶対にあきらめるなということだ。この信念を持ちつづけること」とおっしゃる。

 ペットボトルに半分ほど砂を入れる。それを両手に持ってランニングをする。毎日30分は走る。このペットボトルに砂を入れて、「シャカシャカ」と音をさせることがポイントである。はじめは手を振ることができず、砂のシャカシャカという音がしない。しかし、シャカシャカという音がするようになると、「あ、手が振れるようになったな」とわかるので、治ってきたという励みになる。

 裸足になって、公園内の小川に点在する大きな石を跳ぶように歩く。これで足が血だらけになったため、病院の看護婦と大ゲンカになった。看護婦はそんなことはやめろ、といい、K氏はやめなかったから。
 公園内の小川は一歩間違えば川に落ちるというギリギリのふちを歩いた。はじめはきちんと歩けず、グラグラするのをふんばって歩いた。何度も川に落ちた。昼間だとちょっと恥ずかしいので、夜中に行って、これを毎日3時間続けた。

 左右の手を見ながら握ったり、開いたりする。これは通常の病院のリハビリでは、動かないほうの手だけやらせるが、動くほうの手といっしょにやることが大事である。なぜなら、動く右手を見て、それと同じように動かすということであって、「必ず右手と同じ動きができるんだ!」という信念を形成しつつ動かすことになるからである。これはヒマさえあればやっていた。

 ペットボトルに半分ほど水を入れる(重くする)。これを動かない左手で水平に持って、指を使ってくるくる回す。
 声については、腹から出すようにした。それで、きちんとしゃべることができるようになった。
 以上のことは、南郷先生の本を読んで。自分なりにこうやったらいいだろうと考えだしたものである。
 というものである。さすが見事なリハビリだ。

 K氏のリハビリに関して、一般的に言えば「人間の体を運動形態で捉えてリハビリをするとこうなる」となると思う。ただ、それではあまりに一般的すぎて、彼の実践が他の人の役にたたない。
 一般的な解答を、もう少し詳しくいえば、人間とは何かから解くという ことになる。人間の本質的構造は何かといえば、「人間は創り創られて人間になる」だ。子どもでいえば、人間の成長には必ずそれなりの過程が創り、創られてある、ということだ。

 これは当然リハビリにもあてはまることで、左手が麻痺していようとも、それはもう一度創りなおせばよいのである。
 「脳細胞の成長も、その脳細胞の体系的支配下にある全身の神経も、そして感覚器官をとおして脳細胞のなかに成長されていく認識も、これはあてはまる」と南郷先生は説いている。
 この説かれた内容を、K氏は実践した! そこに凄みを感じる。

 普通は、人間は創り、創られして人間になるのか、そうか、そうか、と「わかって」それでおしまいになる。これが「秀才」である。もう、たったこの文言だけでわかってしまう。そうではなく、やってみなければわからないのに。
 われわれは、著作や講義から、K氏のようには実践しない。読んでわかって、それっきりにしてしまう。彼は、「創り、創られて人間になる」というたった一言から、これだけの実践を考えだした。

 だから、われわれがK氏の実践から学ぶべきは、個々の具体的実践、ペットボトル運動や砂利道歩きそのものを真似るのではなく、一般論から、具体を引き出したその姿勢にある。もし知り合いに脳梗塞からのリハビリをやっている人がいて、こうやればいいとアドバイスするのなら、ペットボトル運動など個々のやりかたを教えるだけではなく、基本たる「人間は創り、創られて人間になる」という原則から説かねばならない。

 このように、実践からつかんだ論理で構築した一般論を創ることこそが、大事であり、その上達論一般がノウハウとして使えるのである。
 介護にあたる人はこれを参考にして、自分の介護の仕事に生かし、その実践を積み重ねることから、自分なりの「介護の本質論=一般論」を導きだす努力をしなさい、ということなのである。「こういうときには、こうすればいい」というアドバイスは、まだ単なるノウハウでしかない。いうなれば「どんなときでも、こうすればいい」となるのが、一般論の強みなのだ。

 K支部長のリハビリに戻れば、感覚器官を必死にしごいて、神経を呼び覚まさせ、あわせて「感覚器官をとおして脳細胞のなかに成長されていく認識」までも鍛えあげたのである。神経と認識の両方を鍛えぬいた。この認識面でのリハビリも見事というほかない。例えば川っぷちを歩いて、転落の恐怖をわざわざ設定しながら神経と認識の両方を鍛えあげた部分など、感嘆する。

 転落の恐怖を味わいながらということはそれだけ認識が必死に、シャキッとせざるを得ない。そのシャキッとする認識が神経をいっそう鋭くしていったのである。
 逆にいえば、半身不随になった人を車椅子に乗せることがどれほど、患者の頭(神経)を鈍らせ、リハビリを遅らせるかがわからねばならない。長嶋はあわれにも、恐怖を味わうことのないリハビリをやったから、失敗したのではないだろうか。

 K氏の脳卒中からのリハビリについて書いてきたが、彼がなぜ成功したかの訳をこういう視点もあるかと思い、紹介する。
 甲田光雄という断食を指導して難病を直している医師の以下の文言を読んだ。
「私は長年断食療法の研究を続けてまいりましたが、断食する人の精神状態によってその成績がひじょうに違ってくることを痛感しているのであります。強い不安感や恐怖感を抱きながら断食を行う場合、あるいは強制的に行う場合と、「この断食で自分の病気は必ず治る」と確信して喜び勇んで断食を行う場合とでは、その結果に歴然たる差が生じるのは当然であります。
 喜びや希望で、体内でのβエンドルフィン(ホルモン)分泌が増え、不安や恐怖ではアドレナリンの分泌が増えることからもその理由を説明できるはずです。」

と、こう説く。
 K氏のリハビリも、このように「この運動で自分の半身麻痺は必ず治る」と確信して、喜び勇んでリハビリをやった! というところに彼の成功の大きな要因があったと言えると思う。
 「本当に治るかな、さらに悪化するんじゃないか」と不安と恐怖で歩いたら、おそらく失敗したと思われる。
 これほどに心意気しだい、気の持ちようというのはすべてを左右するのである。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする