2016年07月19日

“皺”の作家・太宰治のいじましさ(2/2)


《2》
 明治以降の小説には私小説に見られるように、小説の作者と作中人物が混同される、もしくは重なって読まれる傾向がはなはだ強い。作者自身も同一視して書くことが多かった。
 だから太宰などの無頼派にみられるように、ハチャメチャな暮らしをし、女色に溺れ、波瀾万丈にしておいて、それを書く連中が多発した。

 想像力を駆使するのではなく、作家が作家自身のことを主人公にして書くことになった。当然ながらそうなると、文学の柱の一つとも言うべき思想あるいは思想性が欠落する。「ボクってみじめなんだよ」の甘えのどこに思想がある?
 日本の文学風土で独自の、小説作者と作中人物の混同、同一性が起きる事について、文芸評論家・谷沢永一が的を射た論評をしたためていた。それを紹介しよう。

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 大正期には、むしろそういう結果を生む成りゆきが、その作家の純粋を保証する現象であると見倣されていた。逆に作家と作品との間に距離があれば、未だ至らぬと排斥され貶められるのである。我が国に独自の私小説が主流となってゆくその端緒となる試みが大正文壇の特色であった。

 本格小説と私小説という対立の構図が生まれたののこの頃である。トルストイが本格小説の象徴であるかの如く尊崇されていた時代に、トルストイは通俗作家にすぎないと、久米正雄が放言したのは周知であろう。作家と作品とが臍の緒でつながっていないと見られたら、純粋ではないと負の評価が下された。

 作家は錬磨された自身の心情を、直接に吐露すべきであると信じられていた時代である。大正期の作家にとっては虚構なんて嘘の上塗りであると感じられた。社会の外にはみだした流連荒亡の生活をそのまま記した葛西善蔵こそ、作家精神の権化であると錯覚するのが時代の風潮であったと思われる。その行き着くところが私小説であった。この間の経緯を見事に解剖したのが伊藤整の『小説の方法』である。この人は私小説を消滅させる業師(わざし)としての冴えを見せたのである。
 (谷沢永一著『開高健の名言』KKベストセラーズ刊)

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 文中、葛西善蔵のことが出てくるが、まさに大正期を代表する私小説作家だった。
 極貧で生活も荒れ、喘息を患い、最後は肺病で41歳で死去した。
 葛西の小説は自らの体験にべったりの私小説である。妻を故郷青森に置いたまま東京で別の女性と同棲して、子もなしたことで世間の風当たりは強かった。破天荒、酒乱、生活破綻、不倫、病気…そういう生活を疾しさもなく、改善しようともしないで書くのだから、当時の文壇そのものが狂っているとしか言えまい。

 私小説とは、俺がこんなに真摯なのに、社会が歪んでいるから生きるのが苦しい、俺は真情に生きている、ありのまま自分らしく生きたいだけなのに社会が許してくれないとする愚痴である。
 葛西の小説を評価する向きは、私情を真率に吐露しているということで評価されたのである。谷沢の言うとおり、時代の風潮とは恐ろしいものだった。

 その背景にあったのは、全てではないだろうが、共産主義である。
 共産主義思想が日本にも入ってきて、作家志望者たちもかぶれた。だが、弾圧されたり仕事に見放されたりして、転向してゆく。共産主義は社会への不満を吸収したから、持てはやされたけれど、当時も今も多くの庶民は現実にしっかり根を下ろして生きている。

 昔の作家たちの多くは「左翼くずれ」であった。憧れの共産主義は日本では実現しない、一方で暮らしてもいけない、だからやけ酒を煽り、自分はいっぱしの知識人だとの自惚れがあるから、自分と社会の齟齬に苦しむことになった。

 左翼くずれの小説家や文学青年たちは、左翼運動の挫折、転向を経て癒されない傷を心に抱え込んだと“自負”(皮肉で言えば)したのだろう。社会とか思想とかいうものに向かっていったつもりが、その道をもろもろの理由で断たれたことを踏まえつつ、己れの人間としての弱さや醜悪さを真面目に、真情でしたたためることが流行したのだと思う。

 だから日本知識人は「弱者」が大好きなのである。権力には逆らえないし、階級は変えられないし、貧乏はどこまでも貧乏だし、自分はもともと社会不適合なんだと、要は甘えに頼った。その甘えでしかないものを「文学」と称して、あるいは人間の悲哀と称して、レーゾン‐デートル(raison d'être 存在価値)にしようとした。

 真情を吐露しなくていいから、ちゃんと正業に就いて、酒を断ち、病気を治し、家庭を大事にすればいいだけのことで、何も懊悩をわざわざ選んで堕ちる必要はなかった。社会が優しくないと愚痴ったところで、それは当たり前である。敵だらけなのだ。
 ところが。
 現在に至るもなお、日本の文壇ではこの傾向が「総括」されていない。さすがに葛西善蔵や太宰治のごとき破滅型は減ったが、思想性のカケラも感じられない小説や詩ばかり。

 谷沢永一は、先の本のなかでこうも説いている。
 「私小説が主流に祭り上げられながら、連綿と続いてきた我が国の謂わゆる純文学の構成は、開高健がミもフタもなく指摘する如く、常識人を無理に発育不全の欠落者に仕立てる計算であり、その伝統をほとんど究極までに完成した記念碑が『人間失格』なのである。」

 谷沢はさらにこう説いた。
 「明治以降、我が国の小説が思想の代理を務め、批評家もまた、文芸に思想性を求める連携プレイが、開高健にとっては不純な風土としか見えないのである。」
 そのとおり、日本の文学界は不純だった。開高が文壇デビューしたときに、抱負を語っていたなかに、日本の文学にはその文体を支えるものが思想ではなかった、自分はそんな文学は目指さないという主旨を述べていた。その意気や善しだった。

 思想とは平易には考え方ではあるが、「思想」と大上段に振りかぶって言えるのは、ある思想家とか作家とかが時代を動かすほどのレベルに達している場合である。定義はさまざまだろうが、明治以降に、思想と呼べるほどの優れた認識を出して時代を変えたといえるほどのものは、あまり出ていないだろう。

 大学に職を得ているご仁らは外国思想の輸入ばかりだった。新聞記者は他人のフンドシで相撲をとるばかり。あとは文芸の世界しかなかったのである。小説家、詩人、編集者、評論家、それらがかろうじて「思想」の発信者であった。
 しかるにその連中が、これまで見てきたように、左翼くずれだったり、いじけた人格破綻者だったり、個人的体験の真情を吐露すれば良いと考えていた連中だったから、思想というほどのものは生まれようがなかったのだ。

 私が強いて挙げるとすれば、思想と言えそうなのは、敗戦直後の坂口安吾の『堕落論』、吉本隆明の詩人たちの戦争責任論、伊藤整の私小説批判、広津和郎の松川事件裁判への提言あたりであろうか。しかしそれらも大きく文芸世界に身を置いての発言だった。
 そんな中、我が国史上初の快挙が南ク継正先生による武道哲学の完成である。これは学問であって、思想ではないけれど…。

 なぜ敢えて「思想」と言ったかといえば、その武道や哲学を研鑽するバックボーンは、思想性の高みそのものだったからである。
 南ク先生によって文学者以外からの金字塔が打ち立てられた。端的に言えば、これからの日本のみならず世界の学問であれ藝術であれ、文芸であれ、南ク継正先生の学を踏まえないものはクズとなる時代に入ったのである。

 再度言っておけば、無頼派だの私小説だのの潮流には、思想性の高みが欠落していたのである。だから「思想」と呼べるほどのものは生まれようがなかった。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(3) | エッセイ | 更新情報をチェックする