2016年07月28日

「巨星」になりそこねた滝村隆一氏(4/4)


《4》
 滝村氏はしばらく政治学の丸山真男の解明に没頭した。しばらくというより、相当長いあいだだった。国家論では大学に就職できないから、政治学も解けることを丸山真男を俎上にあげることで大学側に証明しようとしたかに思えるが、そこで滝村氏は大きな失敗をしたのだ。芹沢俊介との対談『世紀末時代を読む』にしてもそうだが、国家論を降ろして政治学を云々するようになった。

 それはそれで、本にはなるし有意義なことは語られただろうが、学としての世界に挑む志を失う。世界史、人類史、生命の歴史…という学の頂きに挑むべきを、政治を扱うことで降りてしまったのだ。
 これは難しい話だと思う。
 空手で言うなら、それを日本文化の高み、あるいは武道として思想性高く捉えるのと、喧嘩として、あるいはスポーツとして捉えるようなことである。

 例えばイギリスがEUから離脱するBrexitを、政治や経済で見る向きがほとんどだが、本来は国家論からみなければならない。
 滝村氏なら、EU問題を国家論から捉えられる学究だったろうに、丸山真男などの政治論に降りたがために、弁証法なんか要らなくなり、国家を全的に捉える道を逸脱した。

 多くの政治学者や経済学者は、頭脳優秀ではあろうが、ヘーゲルがチャレンジしたように世界を、国家を解こうとする志を降ろして、自分のわかりやすいレベルに取り憑いたのである。そうでなければ、大学に奉職できないし、本も出版できない。政治解説ならテレビにも出られるだろうが、国家論ではテレビでしゃべっても視聴者は誰も理解できない。

 空手は喧嘩だ、喧嘩でいいじゃないかと見ることもできよう。現にそういう大流派がある。スポーツだとして受けている流派もある。それでは空手を喧嘩とかスポーツとかで見るようになり、決して武道とは見ないし、見ることもついにはできなくなって、形ばかりを図々しく「武道の一つです」などと言うようになる。

 これが何度も言うように、料理研究家・丸元淑生氏が言った「鰹節に見えれば鰹節としてしまう思想」である。「出汁」と書いてあれば顆粒だしでも味の素でも出汁にしてなんの疑問も持たない大衆のレベルがこれである。
 武道らしい道衣を着て、道場らしき場所で運動していたら武道でございますというようなもの。

 わが流派の創始者は、空手を自分の低いレベルに降ろすのではなく、高みによじ登るようにしてやってこられた。わが流派から離れれば、その肝心要を忘れていく。

 そして政治や経済のレベルなのに、国家を語っているつもりになる思想、である。政治や経済から国家を見るようになってしまっているのが、現今の世界ではないか。それを覆すべく志を持っていたはずの滝村さんは、本当に残念なことになった。

 それは一つには、たかが風呂に入って本を読むかどうかのことですら、志高くを止め、あるいは「統括」の問題として捉えることを放棄したからだと思う。風呂につかることをバカにした報いではなかろうか。
 風呂に入ることすら、発展させるという考えはないのか。ただ時間が無駄だから…か? 風呂に入るのだって国家論がなければどうしようもないじゃないか。
 
 出汁の話にかこつけて言ってみようか。羅臼の天然ものの昆布しか本物の出汁が出ない、と仮定しよう。その羅臼昆布を育て、より見事な生育をさせ、出汁の本質を探っていくのは、これは至難の業であり、気の遠くなるような努力が必要である。羅臼の山や川などの自然を育て、海をきれいにし…といった総合的な努力の末に、本物のだしが得られる。

 これがヘーゲルの高み、あるいは南ク継正先生の高みによじ登ることである。
 しかし、顆粒だしはあたかも天然昆布出汁をいわばアウフヘーベンした優れものに思えるだろう。天然ものより便利で安くて味に遜色ないじゃないか、と。アウフヘーベンの概念だけを対象に当てはめればこういうことにもなる。
 こういう考えに凝り固まったご仁と、いったいどうやって会話ができようか? 
 政治や経済を掘りさげれば国家が解けるというに等しい。

 現代では、羅臼天然昆布を育て、それで出汁を取ることはダサイと思えわれるだろう。時間も手間もかかるしカネもかかる。そのとおりだ、ダサイことをやらなければ本物に行き着かない。顆粒だしは格好良く見えるだろう。鍋にスプーン1杯放り込めば出汁ができる、なんてカッコいいんだろうとなる。
 政治や経済を語ればテレビに出られてカッコいいだろう。国家論を説こうとしたって、ダサイ、で片付けられる。





posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする