2016年08月04日

血液のきれいと汚いの誤解(2/2)


《2》
 前回述べたように、構造的に汚れた血液が、また全身を巡る。だからスポーツをすれば下手になり、ものごとを考えればバカになっていく。老化が進むし、頭脳はボケる。
 以前、谷沢永一の『僕のうつ人生』(海竜社刊)を読んだことがあるが、彼も親友だった作家・開高健と同じ鬱で苦しんだと述懐していた。
 周期的になんともうっとうしい気分、晴れない暗うつな気分が続くのだそうだ。

 これは谷沢も開高も本の虫、子供のときからすさまじい読書家だったから、想像するに、徹底して足を運動させなかったかと思われる。だから汚れた血液が全身を巡るようになって、頭脳活動を壊していったのではないかと思う。鬱の原因はそれだけではないかもしれないが、一つの大きな原因ではなかったろうか。

 だから開高健は書斎にたれこめていると鬱になり、釣りをしに外国にでかけると、足を使うようになるから、鬱が消えるのであった。開高は足を動かさない生活をしながら、グルメをやった。うまいものは料理のし過ぎなのだから、血液を汚す。旨い肉を食えば、血の汚い動物の肉を食うことになる。だから若くして癌で死んだ。

 運動しないまま、ものを考える仕事をする人、大学教員とか作家とか、医者とかは、座ったままである。脳細胞にばかり血液の循環を盛んにして、ほか全身は運動形態に置かない。だから鬱にもなろうというわけだ。

 南ク継正先生の最新刊『武道哲学講義 第三巻 「精神現象学序論」(学の体系講義)』(現代社)にはこういう記述がある。

     *     *
 
 私の頭脳の発達に関しての端的な理由としては、次の幾つかを挙げるべきである。

 一つは『武道修行の道』執筆後に頭脳の働きにいささかの停滞を覚えることになったため、ここから第二の人生を賭けての壮烈な武道修行が実践されていったからである。そこで、修学的執筆は中止し、ここから十年近くも毎日のように(1日四時間以上かけて)全力を挙げて、達人修行者の若き弟子とともに艱難辛苦の武道修行となっていったことである。

 二つは、以上の修練で私自身の頭脳に驚くべき変化が起きてくることになったのである。五十歳代の私にしてみれば劇的変化というより、驚愕レベルの頭脳が誕生してきたことである。
 三つは、以上の二つの実践的実態を把持した流れのままに、『武道講義 武道と認識の理論』を月刊誌に修行の真っ只中のままに連載を休むことなく続けていくことになったからである。

 四つは、以上の三つがいわば合体レベルで相互浸透していきながら頭脳の強烈な発展を促したのである。

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 南ク継正先生の壮烈な武道修行の実際を知らない人は、どうせ読んで確認することもせずに、またせせら笑うのだろうが、様子をいくらかを知る身としては首肯できる話である。事実を知りたければ、南ク継正先生の著作を素直な心で読むことである。
 今回のテーマに則していうならば、であるが、これは武道修行で見事に全身にまともな血液の流れを常時創り出したということになろう。その運動形態に置かれた血液があったればこそ、頭脳活動もまさに「驚愕レベル」での発展が可能になった。

 したがって、谷沢も開高も、もし武道空手をやっていたなら、鬱で心屈して人生の大半を無駄に過ごす必要はなかったのである。カラダと関係なく頭脳活動があり得ると錯覚したからの誤謬であった。

 青森のねぶた祭りでは、「跳ね人(はねと)」が手足を活発に動かしてまさに跳ねるように踊っている。ネットで探せばいくらでもあるが、例えばこれを見ていただきたい。
 https://www.youtube.com/watch?v=rC0qaAYNIbs
 「らっせら、らっせら」と声を出しながら、手も足も激しく動かして跳ねている。実に楽しそうだ。これでイメージしていただければという一例である。大きな声をだしているのも、運動形態としては大変よろしい。鬱の治療には最適だろう。

 安倍首相も「一億総活躍社会を目指す」というなら、全国民に例えばネブタ祭りの跳ね人のごとき運動を強制すべきである。そうすれば病人が減り、頭脳も冴えてくる。

 青森の人たちは、年に一度のねぶた祭りのために、年間通して跳ね続ける体力づくりに励んでいるそうだから、日ごろの運動としてはまず申し分ない。あの踊りは形のシビアさがなく、大雑把なところは欠点だが、一般庶民ならいいだろう。
 谷沢も開高も、もし青森の住人で、ネブタ祭りに出るのが大好きだったら、鬱にはならすに済んだはずである。

 もう一つ例を挙げよう。これは血液ではないけれども。
 日本に正規の軍隊がないことだ。国家で解けば、軍隊がないのはいわば下半身を運動形態に置かないデスクワークをやっているのと、論理は類似している。
 国家は内部の統括であり、他共同体との対峙であるから、自ら戦争しません、その権利も放棄しますなどと言っているのは、統括の不全を意味している。

 経済とか政治とかを動かしているのはいわば手を動かしているけれども、軍隊がなく交戦権もないのは足を運動形態に置かないのと論理は同じことになる。国民の精神も運動も肉体も歪んでいくのだ。国家として万全でない運動形態をとり続けるから、見事に日本人が歪んできているではないか。

 くり返しになるが、人間のカラダでは手と足をバランス良く動かすことで、まっとうな血液循環がなされ、いわば「きれいな血液」が巡るのに、足を全く動かさないでないもののようにして、血液を汚せば、やがて体全体が病むようになり、頭脳もバカになっていくのだ。
 国家も同じ論理である。経済、政治、教育、軍事などなど、十全に機能させないと、“国家の血液”が滞り、病んでいく。

 こういう論理が「9条死守派」のオバカどもには分かるまい。
 まるで、歩くのは億劫だ、足指なんか面倒で動かしたくない、それでも生きていけるじゃないか、手で仕事ができればいいんだ、と言っているのと同じことである。それが護憲派だ。

 ランニングは、血液を足先から心臓まで巡らせるために行なうのである。むろんほかにも肺活量がどうとか、筋肉を鍛えるとかの面があるが、主要なこの血液の論理を忘れてはならないのだ。
 人間は一つの統括体である。国家も同じくに。
 その統括を主に担っているのが、神経であり、ホルモンであり、血液であり、リンパ液である。ほかに東洋医学で言われる経絡があるし、天寿堂の稲村氏は「スジ」も全身の統括に関わると主張しておられる。

 人間が病気になる、国家がダメになる、これは統括を歪めた結果なのである。人間は本能をなくして認識が代替するようになり、恐ろしいまでに認識が力を持つようになった。認識が生活を統括するようになり、また国家を認識が統括するようになって、歪まざるを得なくなったのである。
 どうしたらその統括がまともになるかを、私たちは常に考えなければなるまい。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする