2016年08月20日

ボーッ


 昨日に続いて夏休みということで、2007年8月のブログの再録をします。


 題名の「ボーッ」とは汽笛の音ではなくて、人がまあ呆然としているというか、言葉を出さずにボケッとしている状態のことである。だから「ボケーッとしている」と言ったほうがいい。近頃のテレビドラマを見ていると、出演者が劇中でこのボーッとしている場面がやたらに目につく。

 例えば、若い恋人同士が話をしている場面。男が女に何かきつい言葉を浴びせる。すると女がしばらく呆然とする。男は何もいわずに立ち去る。それを女が「○○くん!」と呼びかけるが、追うでもなくただボーッと立ち尽くす。
 あるいは。男が女に「ほら君が欲しいと言っていたこれ」などと言って、プレゼントを渡す。女はまたしてもボーッ…なのだ。すぐにありがとうとか、いらないわとか、言葉を発するだろうが! と見ていてイライラさせられる。

 これは1時間弱の連続ドラマを制作するにあたって、脚本家と演出家が手抜きをしようという魂胆なのだろう。言葉を発しないで、人と人が見つめあうことは実際の生活のなかでないわけじゃないが、あんなにドラマのように始終ボーッとしていることはない。要するに、ボーッとする時間を長くとることによって、セリフを少なくし、場面を減らすことができるからであろう。つまりわれわれの普通の日常会話のテンポで1時間ドラマを創ってしまうと、おそらく脚本家の書いた台本では30分くらいで終わってしまうのだ。

 だから引き延ばすために、この「見つめあうボーッ」や「困惑したボーッ」「うれしいボーッ」「呆然たるボーッ」をしきりに入れる。
 これはNHKでも民放でも同じことだ。NHK大河ドラマでも、例えば家臣が「殿、いかがなさいます?」と問いかけると、またもや殿はボーッ、なのだ。間があく。とにかく沈黙する俳優を大写しにして、しばらく時間を稼ぐ手法の見苦しさといったらない。

 そんな沈黙のシーンを創ったところで、演技に深みが出るわけがなく、かえって水増ししたような印象ばかり残るのだ。だいいち黙っているだけで、何事かを語れるほどの実力のある俳優がどれほどいるというのか。
 最近私は邦画を見る機会がないが、これは映画だと(昔は)もっとちゃんとした会話のテンポというかやりとりに妙な長い間(ま)を置くことはなかった。ためしに黒沢明の映画でもご覧になって、昨今のテレビドラマと比較されると、私の言っている事が理解していただけると思う。

 テレビドラマの制作者は何を考えているのだろう? 話のストーリーはともかく、ある場面、ある場面で見ていくと、次に役者がこんな動作をするだろうとか、こんなセリフを言うぞとか、ここできっとキレて何かに八つ当たりするだろうとか、ここはきっと困惑して目を泳がせるなとか、とわかってしまう。演出が見事にワンパターンなのである。そうとう頭の悪い連中が脚本を書き、演出をしているのだろう。

 俳優も演技力がない。バカバカしいったらない。テレビ局としては、人気のタレントを出しさえすればスポンサーがつくので、芝居の中身はどうでもいいらしい。それにテレビで、ただでドラマを見ている大衆は、笑いと涙があればいいのだろうから、名演技なんか望んでいない。
 が、それにしても私は、俳優たちの「ボーッ」は気になってしかたがない。

 これがただへたなドラマの演出で済んでいるならまあいいが、一般大衆にまで浸透している気配なのがやりきれない。みなさんはそう感じたことはありませんか? こちらから何か言っても、向こうの特に若い人が、ボーッとすることがしばしばある。先日も、われわれが空手の練習をしているところへ、他のスポーツをやっていた若者がちょっと非常識なことをやったので、注意したのだが、そのときも「すみません」といわずに、ボーッとしている。

 これがテレビドラマの影響かどうかわからないが、影響される可能性はある。ひところ、ハンバーガーのマクドナルドが、アルバイト店員を使うのに、きっちりマニュアル化した対応をさせると話題になったことがあった。アルバイト店員にマニュアルにないことを聞くと答えられずに、ボーッとしてしまう。
 マクドナルドでハンバーガーを注文し、ついでに店員に「今何時ですか?」と尋ねると、もう答えられないで呆然とする、という笑い話さえあった。臨機応変、融通無碍ができないのだ。自分の頭で考えられない。
 
 話は飛ぶが、ハリウッド映画でもそうだし、日本の映画やテレビドラマでもそうなのだが、殴り合いのケンカ、決闘がインチキ極まる。悪玉と主人公が殴り合いを延々とやる。例えばシュワルツェナッガーとか、シルベスター・スタローンなどの映画がそうだ。グローブをつけたボクシングじゃないのだから、素手で何十発も殴られてなお立っていられるわけがないのだ。だいたい靴を履いた足で頭を思い切り蹴れば、一発で人は死ぬ。それを互いに殴り殴られ、何百発も応酬しあうことは不可能である。まして鉄の棒で頭を殴れば、血が出る程度では済まない。  

 ところが、こういう何発殴っても人は死なないというウソの場面をみんな見るから、町のチンピラがホームレスを殴って殺してしまい、「まさか死ぬとは思っていなかった」と驚く事例が多い。これなどは、まさに映画やテレビドラマの悪影響がもろに出ている。
 テレビの影響は恐ろしいのだ。

 だからテレビドラマの「ボーッ」も、それが相手に失礼だとはみんな思わなくなり、マネをするようになりかねまい。現にそういう傾向は生じている。こういうバカげたテレビドラマを垂れ流しているのは、やはりテレビも映画もみんなユダヤ闇権力が仕切っていると考えていいと思う。

 間髪を入れずに答えるとは、わが流派では厳しく指導されることだ。例えば指導者から何か質問されて、しばし呆然あるいはボーッとして返事をしないと、怒鳴られる。なんでもいい、「質問をもう一度お願いします」でもいいし「わかりません」でもいいから、まずは間髪を入れずに返事をしろと言われる。何秒以内でという決まりすらある。そうしないと頭は良くならない。だいいち、指導者にブスッとして返事もしないのは、無礼であって教わる資格がない。

 昔は学校でも、先生に質問されたらただちに答えるよう言われたもので、返事をしなかったら、戦前なら殴られ、戦後でも廊下に立たされたほどだった。それが今や、ブスッとして返事を返さない子どもが多いようである。先生が「わかったのか?」と怒鳴ると、「うるせえな、わかったからやってんだろ」などと逆ギレする。こういう子は殴ってわからせるしかない。
 まずは返事、これは鉄則だった。

 これを日々実践しなければアタマは良くならない、まして弁証法をものにすることなど不可能である。尋ねられても返事をしないなんていうのは、すなわち弁証法をどう学習すべきかがまったくわかっていないのだ。

 以前(2004年)、フジテレビのドラマ「僕と彼女と彼女の生きる道」で主演の草薙剛が父親役をやり、その子どもの凛(りん)役で美山加恋が好演したことがあった。ドラマ自体は下らなかったが、加恋の演じる凛の返事の仕方がすばらしかった。常に「はい!」とはっきりと、ただちに返事をするのだ。この「はい!」と常に敬語で親と接する様で美山加恋は大ブレイクしたのだった。

 おそらく多くの日本人が昨今の敬語も乱れ、返事も乱れている若者のありように憮然としていたからであろう。まあ制作者の意図としては、子役に敬語を使わせることで、両親の離婚に苦しむ子どもの気持ちを表現したかった程度だったのだろうが、私としてはストーリーはどうでもよくて、ただ美山加恋の「はい」を聞きたくて、何度かドラマを見るはめになった。

 だから、人から何か言われたら、美山加恋が演じた凛ちゃんのように、ただちに返事をしろよと、昨今の「ボーッ」とした演技しかしない役者どもに言いたくなる。脚本家も演出家も恥を知れ! 本当に、昨今のドラマの「ボーッ」は、思考停止だ。あれで日常生活も恋愛も成り立っているとは信じ難い。日本人よ、ボーッとしないで返事をしよう、それだけでも敵性ユダヤの日本人をバカ人間にする陰謀を阻止できるのだから。

 なぜかならばを簡単にいえば、ボーッとしないで、ただちに何か言う、返事をするのは、端的には「運動」だからである。弁証法は運動である。だからボーッとしているようでも私は考えています、というのはダメだ。決断してしゃべることが運動だからであって、それを実践するのが弁証法の技化だからである。

 例えばレストランや喫茶店に入ったら、ただちに決断して注文しなければならず、あれにしようか、それともこっちがうまそうだ…などと迷ってはならないのである。決断することを技化しなければならない。だからテレビドラマだとはいえ、役者がものを言わずにボーッとしているのは、決断ができないことを技化しているのである。それがすなわちバカになることだ。
 日本人みんなが弁証法の実力を持つことができれば、ユダヤの陰謀は見抜くことが可能になる。なにせユダヤどもは日本人をボーッとしているバカな民族にしたいのだから。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする