2016年09月07日

「自己の相対化」の大事性(2/2)


《2》
 私はかつて知り合いだったX氏に心底驚いたことがあった。それは映画のDVDを貸した際のことであった。私が見て良いと思ったというよりは、この映画はある先生が評価している映画だからとお見せすることにしたのだ。なんどもそういうことがあった。

 ところが彼から返ってきた感想が実に激しいもので、いつも「こう考えるのが正しい、お前は間違っている」という露骨なものの言い方なのである。異論を許さない「絶対主義」である。
 初めから頭ごなしに、訓戒を垂れ、私の未熟を叱り、俺に倣えと強要してくる。若いころからずいぶんいろいろな友人と、映画や小説などで感想を述べ合ってきたが、こういう人を相手にしたのは初めてだった。

 映画に対する私の感想や批評が完璧なはずがなく、間違いもあるだろう。制作者たちの創作意図とは違う感想を持ってしまうことだってある。
 呉善花氏が言うように私は「未決定な姿勢」を把持したいと心がけてはいる。けれどX氏の場合は、初めから相手を押さえつけるような言い方だった。なんとかならないものかと嘆いたものだった。あんな口の利き方をしていたら、いくら正論でも友人が去っていくだろうと思ったものであった。余計なお節介だが…。

 X氏のことを俎上に上げてはいるが、私の気持ちとしては「自己相対化」の一般性についての大事さを説きたいのであって、X氏の悪口を言いたいのではない。
 話を戻すと、私がそんな思いを抱いていること自体がX氏には著しく不快らしかった。聞いたとたん即座に怒りを飲むのがわかるほどだ。
 私は彼の見解に反発しているのではなく、むしろ彼が「自己の他人化」をしない姿勢に驚き、それでいいのだろうかと思ったまでなのだが…、彼はあいつは俺の見解に勝てないことを妬んで、論争を逃げたという受け取り方をするようである。

 やはり「勝ち負け」か「上か下か」が大問題なのだろうか。
 人それぞれ映画の感想はあるのだろうとか、いろんな見方があってもいいよね、とか君は君で興味を抱いたところがボクと違うね、というのが、普通の人間関係だと信じてきたが、X氏の押し付けの強さに辟易した。
 感想を言うなというのではない。感想を述べ合うのも映画を鑑賞する楽しみや学習なのだが、彼はそんな「味わい」を拒絶していた。

 呉善花氏が評する韓国人のように、自己相対化をしない人なのだなと悟ったのである。まさにお前と俺とどっちが上か下かを迫られるのである。彼は私が論争から逃げたとか、俺の正論に勝てないから妬んでいるとでも思うのだろう。そういう判断しかできないことこそX氏が自己の他人化があまり出来ない証だと思える。私としては、こんな自己を相対化できない人と感想を言いあうのは無駄だと決断しているだけなのだ。

 x氏は、私が紹介した友人ともすぐさま論争、というよりケンカになってしまって、往生したことが何度かある。
 例えば飛行機の操縦についても、現役の機長に対して「こう考えるのが正しい、お前は間違っている」とやらかして、相手の機長が「あんたは一度でも旅客機を操縦したことがあるのか?」と驚く始末だった。一般論だけで押しまくる。
 
 自己の相対化をまったくなしで、相手に詰め寄っていく。
 また、他人を誹謗中傷することが大好きな輩とも、延々と論争を繰り広げるのがお好きなようだ。
 論争相手が、自己の相対化や自己の他人化が身に付いていないものだから、そういう人と延々とやらかせば、いよいよ相互浸透していく恐ろしさを、彼は認めない。残念なことである。

 はじめに産經新聞の記事を紹介したが、韓国のスポーツ放送では、アナウンサーと解説者が一緒になってやたら絶叫し、「こうしなければいけない」…を連発し、選手にしきりに注文をつけ、叱ったり、諭したりして威張っている感じ…、それがX氏と瓜二つだと思えたものだった。

 韓国人や支那人は自己の相対化ができないゆえに、これから退潮していかざるを得まい。カネで他人の顔をひっぱたけば能事足れりとするやり方を永遠に繰り返し、抜け出せなくなる。なにも日本がその連中の犠牲になることはないのだと、みんないい加減に気づくべきではないか?

 「自信を持てばずっこける」とは、わが流派における金言であるが、韓国人の絶対主義的“自信”も、X氏の決然たる自信も、やはり「ずっこけ」を生んだ。こういうものは、「自信」と「反省」の対立物の統一でなければならないし、そうでないといずれ相手にされなくなる。それがまっとうな人間関係である。だからそれを理解しないと韓国のように、ずっこけることになる。

 「対自」とはいうなれば「自信」と「反省」の対立物の統一であろうが、それを実践できないでいて、どうして弁証法でも世界観でも俺は一番だなどと言えるのか? 脚下照顧を忘れず、自己の相対化を維持するべきなのではなかろうか。

 以前、「米粒写経」の居島一平さんが、司馬遼太郎は嫌だ、彼はいつも上から目線でものを語る、と批判していることを本ブログで紹介したことがあった。歴史上の人物が、後世の人からみて「失敗」と思われても、その人物も一生懸命にやって、運がなくて成功しなかったこともあるだろう、そういう人物にまずは寄り添うべきではないかと居島一平さんは言っていた。優れた着眼だと思う。
 
 これが自己の相対化である。司馬遼太郎は自分のサヨク史観に自信を持ち過ぎたのである。

 日本人は自己の相対化ができる人が多い、と呉善花氏は言ってくれるけれども、例えば一流大学を卒業したような受験秀才にはそれが出来にくい。受験の成績が絶対に思い込んでしまうからだ。算数の得意な人もいれば、社会科の得意な人もいる。運動が得意な人もいれば、人を笑わすのが得意な人もいる、裏方をやらせたら抜群の仕事ぶりという人もいる。

 ところが受験秀才の成れの果ては、それが知識ではわかっていても、身に染み込んでいないから、人間それぞれの価値が認められず、相対化して見られなくなる。秀才だけが偉いと断定する。
 かつて帝国海軍では江田島兵学校のハンモックナンバーの高いものほど出世はするが、実戦ではからっきし作戦が下手であった例をよく聞く。実戦は教科書どおりにはいかない。

 それに「俺は江田島で超優秀だった」との自信が災いして、戦争ではずっこけるのである。
 日本が日清、日露の戦争で勝てたのは、まだ自信を持っていなかったから必死に戦ったが、大東亜戦争では将軍どもは自信を持ち過ぎたからずっこけたとも言えると思う。

 戦後、アメリカは日本人に絶対主義を押し付けた。洗脳し、教育を徹底させた。日本は侵略国だ、日本人は野蛮だ、間違っていた、と摺り込んだ。民主主義だけが絶対的に良いのだと。それにみんな騙された。吉永小百合みたいなサヨクは、絶対主義に凝り固まって、9条さえ守れば日本は世界に認められるとしている。

 日本人は非道なる白人支配を身を犠牲にして戦って、解放したのだという側面を、まさに相対的に見て取ることができない。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする