2016年09月30日

志士どもと嘘(1/2)


《1》
 明治以降、歴史教科書は“官許歴史”であることは、本ブログでつとに指摘してきた。官許、つまり政府と役人が許している(流布している)歴史の捉え方である。
 権力側に都合が悪いことは省かれ、都合のいいように記述される。
 先に今上天皇の不当な「お気持ち」談話について批判したように、一例として南北朝時代の歴史は歪められたままである。

 今も後醍醐院が英雄扱いである。異を唱えることは歴史学会でもマスゴミでも許されない。北朝が正統であるとする意見は、徹底して排除されている。
 まして幕末から明治に至る激動の時代は、公平に見られておらず、官許歴史のオンパレードで、明治政府側に都合のいい歴史に創られている。教科書がその通りを記述しているから、国民はみんな官許歴史を信じこまされ、歴史学会でもそれしか通らない。

 例えば…として、青山繁晴氏はよく幕末の志士たちこそ、名誉も要らない、カネも地位も要らないという純粋な無私の心で時代を変えようとしたと説き、現代のわれわれも志士に倣って、後世の日本人のために身を捧げてより良い社会を創ろうではないかと訴えている。参院選の街頭演説でも語っていた。

 彼の幕末・維新の時代認識は、官許歴史そのままである。吉田松陰を筆頭に志士たちを崇めている。京都の霊山寺にある坂本龍馬や高杉晋作などの墓に詣でるといつも一陣の爽やかな風が吹くのだなどとオカルト的なことまで口走るのには、鼻白む。
 ちなみに「志士」という言葉は、後世に作られた美名であって、本人たちが自称したものではない。

 青山繁晴氏のブログ「道すがらエッセイ」(8月8日付)にも書かれている。
 
     *     * 

 幕末から明治維新にかけても、まったく一筋縄では進んでいません。
 志士たちの無私の苦闘が、大政奉還から王政復古の大号令というクライマックスに達してもなお、どれほどの行きつ戻りつがあったか。
 慶應3年10月14日 (西暦1867年11月9日) に徳川慶喜が政権の奉還を明治天皇に上奏する大政奉還となってから、同じ年の12月9日 (1868年1月3日) に王政復古の大号令へと進み、江戸幕府が廃止される、そのわずか2か月足らずのあいだに、歴史は、坂本龍馬さんが盟友の中岡慎太郎先生と一緒に京都の近江屋で暗殺されるという犠牲を求めました。 (11月15日)

 そして捻 (ねじ) れ、結び、解 (ほど) けながら明治新国家の誕生に至り、その誇りある明治国家も数多くの深い矛盾を孕 (はら) んでいました。
 現代史がスカッと分かりやすく、胸がすくように進んだりしません。
 おのおのがた、ゆめ、動転なさらぬようにという、龍馬さんをはじめ歴史の先達のかたがたの声が、天から地からたった今、聞こえます。

     *     *

 青山氏は、原田伊織著『明治維新という過ち』を書名は挙げていないが「虎ノ門ニュース」で批判的に語っていたことがある。あんなのは嘘だ、松蔭先生はじめ志士たちは立派な青年たちだったと主張する。
 原田氏は明治維新が薩長の下級武士による、主にイギリスからの支援を受けてのテロとクーデターだったと説いており、私もその見解に与する。

 松蔭や西郷らを英雄に仕立てたのは、まさに明治政府であった。
 実像は全然違う。坂本龍馬は、イギリスの武器商人、悪辣なグラバー商会の手下になっていたゲス野郎であって、死後も長いこと相手にされていなかった。たしか日露戦争のときに、突然名前が出て、やにわに英雄に仕立てられ、サヨク司馬遼太郎が『竜馬がゆく』を書いて一躍知られるようになった。

 吉田松陰については以下の「松蔭のような秀才はいかに創られるか」をご覧下さい
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/414106657.html

 青山氏は、幕末から明治維新にかけても、まったく一筋縄では進んでいないとしたためてはいるが、さらりと「慶應3年10月14日に徳川慶喜が政権の奉還を明治天皇に上奏する大政奉還となってから、同じ年の12月9日に王政復古の大号令へと進み、江戸幕府が廃止される、そのわずか2か月足らずのあいだ」と書いているが、これこそが間違った官許歴史である。

 歴史教科書にも、はたまたマスゴミの解説でも、こう書くケースが多かろうが、史実を改竄した不当な「歴史」である。
 
 では少々長くなるが、幕末の政局の流れを箇条書きしてみよう。これは島津久光が江戸に来て帰りに生麦事件を起こしたあとからである。当時は京都では尊攘過激派のテロが燃え盛っていた時期である。

文久3(1863)年
 3月 将軍家茂上洛
 4月 家茂、攘夷の実行を5月10日と奏上
 5月 長州藩、関門海峡通過の外国船を砲撃
 7月 薩英戦争
 8月 8月18日の政変(三条実美ら七卿落ち)
文久4年、元治元年
 1月 家茂、再び上洛
 6月 池田屋事変
    長州藩、伏見・天王山に布陣
 7月 禁門の変
    長州藩追討の勅命下る
 8月 四国連合艦隊、下関砲撃
 12月 征長総督徳川慶勝、広島から撤兵
元治2年、慶應元年(1865年)
 9月 長州再征勅許下る
 10月 通商条約勅許となる
慶應2年
 1月 薩長盟約成立
 6月 長州戦争開戦、幕府軍各地で敗戦
 7月 将軍家茂、大阪城で病死
 8月 小倉城落城
    徳川慶喜、長州藩征討の勅書を受ける
    慶喜、征長軍解兵を奏上
    休戦命令沙汰書下る
 12月 慶喜、十五代将軍に就任
    孝明天皇暗殺さる(長州藩による)
慶應3年
 1月 明治天皇践祚(せんそ)
 5月 兵庫開港、長州藩処分勅許
 6月 薩土盟約成立
 9月 薩摩・長州、上方出兵協定合意
 10月 徳川慶喜、大政奉還の上表(じょうひょう)提出
    薩摩・長州に討幕の密勅下る(偽物)
    大政奉還勅許
 12月 薩長による王政復古の大号令(失敗)
    小御所会議で幕府側敗れる
慶應4年
 1月 鳥羽伏見の戦い
 3月 江戸開城

     *     *

 これは原田伊織氏の『大西郷という虚像』(悟空出版)の年表から拝借し、一部を変えた。
 同書はこう書く。
 「この時期の政局とは、あくまで雄藩と呼ばれる有力諸藩の主導権争いであって、討幕を前提としたものではない。後世の薩長史観といわれる後付け史観が語るような、何らかの国家理念を掲げて、それに向かって邁進していったというような動きでは断じてないことを、改めて認識しておく必要がある。」

 「徳川将軍政権の絶対優位を認識しながら、単独では対抗し得ない有志諸藩が雄藩連合を意識し、或は現徳川政権を巻き込んだ雄藩連合を企図して、その主導権を握ろうとした政治抗争なのだ。」


 このつづきは明日。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(1) | エッセイ | 更新情報をチェックする