2016年10月04日

アホ、バカ分布の一考察



 本稿は、2013年3月26日にアップした「バカ・アホの分布」をより詳しく説いたものである。
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/352118284.html
 
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 よく関東では「バカ」関西では「アホ」がつかわれると言われるが、そう単純なものではないらしい。どういう分布になっているかは、昔から誰もが結構関心があったようである。私の経験でも例えば関西の子が関東に転校してくると、言葉の違いに驚き、どうして? と疑問が湧いたものだった。その一つが「アホ、バカ」である。

 『全国アホ・バカ分布図』という本があって、この本は関西圏では有名な『探偵! ナイトスクープ』という番組が発端となって調査され、まとめられたものである。結局「アホ」と「バカ」の境界線は、岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原・西今須にあるそうである。とはいえ、名古屋では「タワケ」というとか、九州では「バカ」がつかわれるとか、一筋縄ではいかない 。

 『全国アホ・バカ分布図』によると、罵倒語では「バカ」が一番全国に流布している。分布は「県」や「藩」よりも古代以来の「国」によって分かれているらしい。ほかにも、鎌倉時代までは「アホ」も「バカ」も使われていなかった。「アホと賢い」、「バカと利口」はセットになっていた。かつて「バカ」は「人がしでかすでたらめ」を意味し、単独では相手を罵倒できなかった。関西では「バカ」は使わないが、「バカモン」「バカタレ」を使う。などなどが解明(?)されたそうだ。

 さて。人を罵るこの「アホ(阿呆)、バカ(馬鹿)」だが、八切止夫は、こう説明する。馬鹿は馬も鹿もケモノゆえ、これらを扱う源氏系(白、四つ、騎馬民族系、北方系)の民族に対する蔑称である。阿呆は「あ」が付くのでこれは平家系(赤、八つ、海人族、拝火教徒、南方系)への蔑称になる。

 「あ」がつくとは、平家系は苗字に関しても当てはめられ、例えば安藤、阿川、足立、安倍などの頭に「あ」がつく苗字の人の先祖は、平家系であった。その“法則”が、罵倒語にも用いられて「あほう」となったのだろう。
 この苗字の法則については過去に、「苗字の仕掛けに見る日本の素顔」(1〜4)で説いてあるので、ご参照を。
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/308192020.html

 もう一つ、タワケは岐阜から広まったようだが、これは「他外」の意味になるそうである。問題外の人間みたいなニュアンスか。

 八切止夫の日本史によれば、白村江の戦いで敗れた日本原住民(すなわち平家系と源氏系)は、進駐してきた支那軍(藤原政権)とそれにへつらって支配階級に帰順した百済系(南朝鮮系。のちに貴族化する)によって支配されることになった。支那人(藤原氏)と百済系朝鮮人は、貴族階級を形成し、荘園制度の下、平家系の庶民を仏教に帰順させるとともに農耕漁業などの一次産業に従事させる。

 それ以外の源氏系と平家系で帰順しない(仏教徒にならない抵抗勢力)は、囲い地(今日言うところの被差別部落)に押し込め、出てこられなくした。
 藤原政権は被差別のものを、「五色の賎」と称して「綾戸、雑戸、家人、公奴婢、私奴婢」の5つに分けていた。
 それが平安時代である。

 平安末期に平清盛が代表する平家一族(和歌山あたりに漂着したマレーシア方面からの民族)が一時隆盛を誇るのだが、これを旧来の(伊豆に分布していた)平家=北条家が、馬をつかった機動力に優れた源氏(源頼朝や義経)を利用して壇ノ浦で撃破し、再び南方へ追いやるのである。壇ノ浦で敗れた平家は決していわゆる「平家の落人」にはならず、船でほとんどは南方へ逃げ帰ったのであった。

 北条平家は首尾よく源氏をつかって天下を取ると、ただちに源氏一族(義経、頼朝、梶原などの武将)を滅ぼしてしまう。頼朝一族は使い捨てだった。そうやって北条氏は平家系の民族をいったんは平安時代の抑圧から解放するが、一方で源氏系を再び弾圧し、これを囲い地に押し込める。これら源氏がいわゆる「平家の落人伝説」となると八切は解説する。

 時は流れて鎌倉幕府(北条平家政権)の末期、元寇によって平家は権力が弱まるとともに、後醍醐帝という権力亡者の少しおかしな天皇によってガタガタにされ、鎌倉幕府は滅びてしまい、南北朝時代となる。後醍醐帝は天皇家だから武力を持たないので、兵力として囲い地に追いやられた源氏系の連中を使うのである。結局、このときは北朝が勝って、南朝は逼塞させられるのだが、この後醍醐に仕え南朝を支えたのが囲い地(被差別部落)にいた源氏系または山中に隠れていた原住民だった。楠木正成はこの一党である。

 北朝が勝って足利時代になると南朝方になった地方の者はみんな反体制とされて被差別の人間にされた。これらを再び「除地」と称する囲い地に押し込めた。同時に北条政権側だった者も再び平安時代のごとくに差別扱い、農奴に戻されたのだ。

 さて、ここで歴史を区切って、この平安朝から南北朝あたりにかけて、日本の人口の約6〜7割は王朝時代(藤原時代)と足利時代に農奴にされた農奴であり、山中に逃げ込んで反仏教で抵抗した源氏系などを入れると約85%が被差別人というか非支配階級とされたのである。人間扱いされなかった。

 この連中=庶民のうち、美しい娘や働き者は妾や娼婦に取り立てられ、また男で丈夫で働くものは囲い地から出されて下人にされた。百姓や漁師にさせられたのである。この連中を称して支配階級は「阿呆」と蔑称した。
 同じ阿呆でも、源氏系は馬や牛、つまり運搬業に関わるため「馬鹿」と蔑称されることになっていく。

 こうして見てくると、アホは西日本で多くつかわれ、バカは東日本で多くつかわれる理由が、大雑把には西日本には平家系が多く、東日本は源氏系が多いから、という推測がなりたつのかと思われる。
 この差別、被差別体制が壊れるのは、織田信長や秀吉、家康といった戦乱の中から登場し、被差別人から成り上がった武将による。信長、秀吉、家康は、いずれもいわゆる被差別部落から脱出して武将になった者で、美濃、尾張、三河といった地域から登場している。

 この地域がまたかなり特殊な地域で、昔から平家系(南方系)の一大集落があったところであって、中央権力から大きな囲い地とされていた処なのである。先にも言ったとおり、「他外(たわけ)」の地区である。信長、秀吉、家康は大きく言えば、部落解放に立ち上がった英雄であった。つまり「他外」による叛乱である。

 徳川政権が、では熱心に部落解放をしたかというと、そうでもないのだが、とくに5代将軍綱吉あたりから、徳川家は家康の正当な家系(赤、平家系)が消えてしまい、済州島から来た朝鮮人によって徳川家が乗っ取られてしまう。以後、徳川将軍が朝鮮人系統になるのだ。よって、いっそう徳川体制と仏教寺院によって日本の人口の八割の被差別部落あるいは農奴が支配される時代になっていく。

 それが江戸期を通じて徐々になし崩し的に壊れていき、明治維新で(イルミナティの策謀はあったにせよ)庶民の解放が一気になされる。その江戸期のなし崩し的解放が、8代将軍吉宗時代から始まった、当時の大都会、江戸、名古屋、京都、大阪への人口集中現象であった。吉宗は「五街道目付」に命じて、主要街道の庶民の出入りなどの監視を(経費節約を名目に)庶民自身に担当させることにしたのである。

 庶民の中の、旅芸人や旅商人として許可した者(囲い地から特別に出ることを許された者)に、公認の朱鞘の刀(武士は黒鞘)と捕縛を持たせたのである。庶民に「お上御用」に担わせて、人件費をかけない監視体制を取ろうとした。ま、アイデアは良かったが、これはまったくのアイデア倒れであって、徳川政権からすれば大失敗、庶民からすれば天佑となった。

 庶民から監視役を抜擢したために、これはチャンスとこの(仲間の)朱鞘の者=監視人に渡りをつけて、被差別部落ないし農奴とされた仲間たちが次から次に囲い地や農地から脱出して、博多、京阪、名古屋、江戸へと大移動を始めてしまった。銭で「町人別」を購入して、都会で商人や職人になっていった。

 勝手に自由になった彼らが町人文化を花開かせる。勝手に囲い地から脱出したのだから、いわゆる政治的に国なり体制なりが身分保障しているわけでもなく、戸籍で証明されているわけでもない、いわばみんな脱獄囚のようなものだったのである。明治維新になって日本の人口を調査したら、予想の倍も実際は人がいて、明治政府は驚愕したのだ(とても全国民を喰わせられないと踏んで政府は海外移民や「からゆき」という棄民政策を実施する)。

 徳川政権は彼ら庶民のための警察機構は作ろうとはしなかった。お上に反抗するものは取り締まったが、庶民同士の争い事には知らん顔である。大岡裁きなどありえようはずがなかった。庶民同士の争うに国家が介入するようになったのは、西郷隆盛が実質的首相のときに実現した。

 部落は、必ずしも南朝方、あるいは騎馬民族系=源氏系の者ではないが、一応彼ら「白山信仰」の者、源氏の「白」と世間では決め付けていたので、その者らを「しろうと」=「素人」と呼び、仏教系の体制側についた者を「黒うと」=「玄人」と称するようになった。玄人とは「黒」すなわち仏教徒坊主の衣(墨染めの衣)の意味である、しょせん、素人(白う人=白=源氏=反仏教)は、体制である仏教徒=玄人にかなわないということ意味だ、とされているのだが、これは本来的には間違いだと八切止夫は言う。

 玄人とは、「玄の人」つまり原人=日本土着原住民(最初から日本人)のこと、最初からの日本人のことだと彼はいう。それが仏教を持ち込んだ支那系の仏教徒の意味に変えられたのは、明らかに作為だと八切止夫はいう。

 何が作為かというと、これによって、被差別部落(囲い地=除地)は帰化人のたまり場なのだという間違った知識を植え付けることになったからである。今でももしかすると、同和の先祖は帰化人なのだと思われている人がいるかもしれないが、それは仏教坊主が意図的に悪意で広めたウソだと八切止夫は言うのである。
アホ、バカの由来から、ずいぶんと複雑な(教科書とはまったく違う)日本史の裏面がわかっていただけただろうか。


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posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(3) | エッセイ | 更新情報をチェックする