2016年10月10日

空手と女性


 小池百合子都知事は、都政改革本部を立ちあげ、築地市場移転問題や五輪競技会場建設などの利権にメスをいれようとしているようだ。
 そのことについては、期待している。ぜひに都議会や都庁に巣食う利権集団をいぶりだしてほしい。

 目下のところ、ではあるが、小池知事は「戦おう」としている。
 稲田朋美防衛大臣はどうも看板倒れで、自衛隊を軍に変えようとの意欲もなく、靖国参拝も逃げまくった。「百人斬り訴訟」も、彼女は主任弁護士でありながら、おかしなことをやって、勝訴に持ち込めなかった。「戦おう」という気が乏しい。

 ま、言うも愚かだが、元民主党どもの蓮舫代表も、口先だけのバカ女で、「戦う」気なんかない。目立てばいいだけらしい。

 さて、女はそもそも戦う(闘う)精神が弱い。スポーツで闘っているではないかと言われそうだが、あれはルールがあってのことであり、命懸けとは言えない。柔道やレスリングはやや戦いに近いようだが、本気でカタワにされたり、殺されたりするわけではないから、まずは武道ではなく、スポーツである。

 空手で女性が入門してきて一番大変なのは、闘う精神をつくることがむずかしいことである。闘うと言っても、小池知事のような世の中の不正と闘うとかの意味ではない。ゲバルトのことだ。
 男のほうはまだしもなんとかなるとしても、女性はそもそも闘うつもりがない。幼少のころからゲバルトを経験していないから、おそらく闘いとはどういうことなのかの像がないのであろう。戦争とか、ボクシングとかを映画やテレビで見て知っていたとしても、これは知識像である。

 女だってケンカはするじゃないかと言うだろうが、あれは苛めの延長であろう。友達をシカトしたり、いやなことを押し付けたり、そんなものはゲバルトではない。
 だから、道場で、突くとか蹴るとかをやらせると、見た目の恰好はなんとかそれらしく見えても、全然中身のない突き蹴りになっていない。

 女性に闘う精神を植え付けるのは、並大抵の指導ではない。本来的には男は殴らなくても指導はできるが、女は殴らないと指導できないとも言われる。女を殴るといったって、最近はそんなことをしたら、セクハラだとか、暴力だとか言われて訴えられかねないから、これはよほどの被指導者が指導者を信頼していなければ、不可能である。

 戦前は、女性はまず大学に進学することができなかった。学業優秀な女性は、むろん親が「女に学問はいらない」の風潮があるから学費を出してくれないので、学費免除で学ばせてくれる看護学校に進むケースが多かった。戦前では、看護婦になるのは相当優秀な女性であった。最近は優秀な女性が看護大学に進学することが多くはなったが、たいていは「でも、しか」看護婦ばかりである。

 女性に闘う精神が不足ないし皆無なのと直接的同一性で、女性はおおむね身の回りのことしか興味・関心を持たない。以前にも説いたが旧制一高寮歌「嗚呼玉杯に花うけて」の歌詞のような高い思想性は、ほとんど理解してもらえない。
 「清き心の益荒男が 剣と筆をとり持ちて 一たび起てば何事か 人生の偉業成らざらん」
 「濁れる海に漂える 我が国民を救わんと 逆巻く浪をかきわけて」
 「行途(ゆくて)を拒むものあらば 斬りて捨つるに何かある」

 と、こう高らかに放歌高吟する認識が育っていない。むろん男もだが…。この歌詞を見て、思想性の高みを感じ取ってくれる女性は大変優秀である。しかしたいてい若い女性でも、関心は恋人、流行歌、服、旅行、スイーツといったくだらないことばかりで、「おばさん」予備軍でしかない。こんな連中に選挙権を与えること自体が間違いである。

 だから女性の認識をスケール大きく指導することは至難の業である。私が志を持つこといくら説いても、ほとんどの女性はすべてが知識に転化するばかりだ。スケール大きく親や教師が育てなかったから、成人しても本当に周りのことにしか興味・関心が行かなくなっていることを、悔しいとは思わないのか? と尋ねても、その意味はわかっても、決して志を持とうとはしない。

 歴史に尋ねても、世界的偉人となると男ばかりである。偉人伝全集なんかには入っている女性は、キュリー夫人くらいであるが、その彼女もラジウム発見の功だけだ。
 私は女性が劣っているとは思っていない。志や誇りを育ててこなかっただけである。21世紀は女性の時代となりつつある。ぜひに、世界史に残る業績をあげてほしいものだ。

 われわれの空手の話に戻るが、昔はなかなか女性に組手をやらせられなかった。寸止め派のような流派は、なにしろ当てないのだから組手もどきはできるけれど、フルコンタクト派や防具派となると、おいそれと組手はやらせられなかった。しかし、わが流派では女性も組手をやらせるようになった。大丈夫か? の心配をよそに女性は見事に組手をやるようになっていった。

 組手は結局のところ闘える魂を創ることなのである。かつては戦えない(組手ができない)と思われていた女性たちが、男子顔負けの技を出すようになった。闘うなかで、闘える魂が育成されてきた。もちろんあの人がやれるなら私も! というような組織一丸となっての女性の意識の盛り上がり、すなわち集団力ともあいまって、闘う魂が組織全体に育ったのだ。

 こういうことができたのは、なぜかというならば、端的には技があったからである。技は最初は形をとることから始まるが、それがやがてスピード、次に威力もつくように修練していって、組手ができるようになる。その過程を保障するのが技である。
 見事な技がない流派(があるとすれば)は、この闘魂養成の過程が持てない。技があるからこそ、闘う魂が養成できるのである。

 次の東京オリンピックでは、「空手」が正式種目に決まったそうで、ご同慶に到りだが、五輪で行なう空手は五体を駆使した生命賭けの勝負ではなく、スポーツである。
 女子空手チャンピョンがテレビにも出て来るが、いかにも手の動きにスピードはあるが、あれは素早さを競っているのであって、決して対手に対して闘っているわけではない。

 なにごともそうだが、技がなければ認識は育たないのである。
 ドイツ(に限らないが)の軍隊にはドイツ軍の兵士養成のノウハウ、つまり軍人兵士に育てる技があるのだ。その国固有の軍人兵士養成の技があるからこそ、闘う魂が育つのである。
 韓国にはそんなものがないから、朝鮮戦争のときには最前線から逃げまくって、連合国軍を危機に至らしめた。

 おそらく北朝鮮にもそういう闘魂を育てるノウハウはあるまい。だからミサイルの開発は技術を盗んで完成できても、地上戦、海上戦、空戦が果たしてできるかどうか。
 余談ながら、北朝鮮が9月初めに発射したミサイルの動画を見ると、道の真ん中から打ち上げていて、羽もついてないのに、制御できるのは見事な技術力と評価できるようだが、私が一番気になったのは、そこではない。

 発射台のすぐ側に立っていた2名の兵士の姿だった。よくすさまじい火力の直近に立てると驚くとともに、奴らの様子がズンダレていたことである。ボケッと立っていて、ロケットが発射されて高温の風が来て後ずさりしているのだが、軍人の緊張感がなかった。だから北の軍はたいしたことはない。

 話を戻して…、女性が闘う精神を持たせるのがむずかしいと冒頭に書いたが、その困難を乗り越えることが可能なのは、技があることであり、正しい技の修得を媒介にしてこそ可能だということになる。
 話が飛ぶようだが、自己変革をしたいと願いながら踏み出せない人や、Change of the placeが出来ない人は、自分でいくら考えていたって、できるようにはならないのだ。これは“技”にすがるしかない。

 その場合の“技”とは、例えば自分が信じる指導者のアタマになりきることであったり、弁証法や認識学であったりする。あるいは古今東西の名作文学であろう。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(5) | エッセイ | 更新情報をチェックする