2016年10月11日

運動で壁を超えるには(1/2)


《1》
 昨日言ったことと重なるのだが、女性がなかなか空手で上達しにくく、続けられないのは、自分で限界を作ってしまうことである。
 むろん男でも言えることだけれど。
 たとえばオリンピックでメダルを取るようなアスリートは、自分でそれなりにというより、かなり見事に限界を超えることができた人間であろう。

 われわれの空手流派では、指導とはただ情熱と経験だけでは限界は突破できないと教えられる。
 指導者が被指導者に対して情熱をかきたてるのが上手だとか、経験豊富であるのは、大事なことであるが、それだけでは弟子の限界は突破できない。

 どう限界を超えさせるかを語る前に話はややズレるが、昔のソ連、今のロシア、支那、東ドイツなどのスポーツ選手は、国家ぐるみで育成した。メダリストになれば、余生を豪華に暮らせるよう国家が補償する。ダメだったらみじめな余生しかないと選手は脅されて、励むことになる。

 国家は全国から素質のありそうな子供を連れて来て、ある競技の練習に没頭させる。メダルさえ取れればいいから、勉強なんかさせない。社会常識も教えない。卓球なら卓球しかできない人間にされる。メダリストになれればいい人生は送れるが、そんなのはほんの一握りでしかない。あとは死屍累々。大人になっても教育を受け損ねているから、読み書きもできないで、失格の烙印を押されて放り出される。

 その恐怖で、若者達は必死に練習して将来の良い暮らしを目指して奴隷のようにされながら、シゴキに耐え、限界を突破していく。
 だから五輪で見ていると、支那人選手はほとんど勝っても笑顔がない。日本選手は勝てば底抜けに明るい笑顔をふりまき、楽しそうだが、支那人は暗くどう喜んでいいものかすらわからないふうである。

 昔から南ク継正先生の著作に親しんできた方なら、「コマネチ論」で説かれたことを覚えておられるだろう。人間としての成長、成熟をさせずに、ただ金メダルを取らせてカタワな人間に仕立てる過程が科学的に説かれていた。
 日本でいうならこれは「角兵衛獅子」である。

 だが、日本人選手はそんな国家の圧力もなく、将来の暗黒が待っているわけでもない。負ければ悔しいだろうが、あくまで自分次第の結果で済む。だから暗くならない。負けたからと言って、国民から袋だたきにあうことは皆無だ。
 これが正常であって、ロシアや支那は異常なやり口である。
 さて、ロシアや支那の非道なやり口を取らない日本は、ではどうしたら限界を突破できるか。指導者の力量次第、選手の自覚次第になる。

 空手で言うと皆さんなじみが薄いと思うので、ボクシングの例で話してみよう。実際の闘いではこちらを攻撃してくる対手に、自分の間合いに入ってパンチを出さなければ勝てない。しかし自分が対手にパンチが当てられる間合いは、向こうも自分にパンチを当てられる間合いに入ることだから、当然攻撃されるリスクは高い。
 カウンターを喰らう。

 ボクシングの場合は、足を使って動きながら、隙を狙って踏み込んでパンチを出すのだが、この踏み込みが難しい。まして自分より俊敏で、腕のリーチが長いとわかっている対手には、パンチをかいくぐって踏み込んでいかないと絶対に勝てない。だが、踏み込めば(間合いを詰めれば)攻撃される恐怖が襲って来る。

 指導者は踏み込めと指導するが、ほとんどの選手は弱い相手ならできても、上に行くには自分より強い対手を倒さないとチャンピオンへの道は開けない。それができずに挫折してゆく。
 運動神経の良い若者なら、なんとか努力することで道は開けると分かった経験はあるけれど、もとから鈍い者はこの恐怖が克服できないのである。

 さて、お立ち会い。 
 指導者は選手に踏み込んでパンチを出せと言う。でも練習ではできても本番の試合ではできないことになる。
 この場合の指導者と選手の認識やいかに。ここはどうしても認識論の学習なしには解けない。
 なにせ、人間の行動は認識が決定するのだから、出来ない、怖いという限界をどう突破するかは、認識次第である。

 ロシアや支那では、これを将来がどうなるかの恐怖=認識で超えさせようとする。だからおそらく、そういう国ではまともな指導論は出来てこないだろう。
 指導者は試合の場で、あれだけ練習したんだから「踏み込むだろう」「突っ込むだろう」との像を描く。だが選手は踏み込まない。このときに指導者には「ん?」という像のズレがまず起こる。ズレが認識される。

 選手のほうにはどんな認識が形成されるか。この選手には、日ごろから練習においても「踏み込まない」「手を自分から出していかない」という像を持っているのだ。それは、「踏み込んで対手のパンチを浴びて倒れる、顔が腫れる」そうした像があるから「今は踏み込みたくない」「怖い」の像になる。認識が行動をとらせるから、指導者が怒鳴っているのが聴こえていても出来ないのである。





posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする