2016年10月12日

運動で壁を超えるには(2/2)


《2》
 もともと運動神経抜群の者なら、子供の頃から運動が得意で勝つこと、褒められることに慣れているけれど、運動神経の鈍い子=グズはずっと運動がダメだとバカにされて育ってきている。そういう人間にとっては空手もそうだが、ボクシングはすさまじい運動形態であろう。だから「対手にパンチを当てることなんかダメ」という像になりがちである。

 余談ながら、小学校のころは、早生まれの子と遅生まれの子では体力も認識も差が大きい。4月、5月生まれの子と2月3月生まれの子では1年近くも成長に差があって、これは努力だけでは埋められない。
 早生まれの子は、運動も認識も劣っているから、生涯劣等感を抱きかねない。これはやむを得ない教育制度とは言うものの、残酷である。

 私も早生まれだったから苦労した。かけっこなんか、4月生まれの子にかなうわけがない。そこを教育者は、素知らぬ顔である。
 早生まれの子は、早々に何をやってもダメという認識が育てられる。なんとかできないものかと思うが…。

 話を戻して、だからこのグズの選手の像は、「踏み込んでぶざまな姿になる」なのである。
 指導者としては自分が教える選手に踏み込んでパンチをださせたいから「殴られてもいいから、無様になってもいいから踏み込め、パンチを出せ」との像ができて、怒鳴ることになるが、選手のほうは「無様!」という像しか描いていないから、萎縮してしまう。いくら怒鳴っても選手はできない。

 萎縮している選手に、指導者が怒鳴って「負けてもいいから突っ込め」と言うと、選手は負けている自分の像を描き、「やっぱりそうか。殴られる、ぶざまだ」という像が頭を占める。追い打ちをかけられので、いっそう踏み込んでいけない。

 だから指導者が選手に、「殴られてもいいから突っ込め」と怒鳴ることは、むしろ選手自身に壁=限界を創らせている指導になってしまう。
 試合に負けて帰ってきた選手を、指導者が「なんで俺の言う通りにしないんだ、バカ!」と怒鳴ったのでは選手はますますダメになる。指導者と弟子(選手)の闘い方の像が一致しないまま。

 これも余談だが、劣等感を抱いた者が首尾よく壁を突破できると、これは強くなり、ときにはもともとの運動神経の良い子、頭の良い子に勝てるチャンスが生まれる。
 がんばって壁を超えたという自信と、ノウハウが身に付くので、後進のできない人間に上手に指導ができるようになる。

 皆さん、オリンピックで柔道とかレスリングとかで、コートの外からコーチが声を枯らして選手を怒鳴っているのに、選手はいっこうに技を仕掛けられず、「ほら、あと30秒しかないぞ。負けているんだから大逆転を狙って思いきり仕掛けろ」と言われているのに、ついに何もできずにズルズル負けるシーンを良くみたでしょう。

 あれは、選手が悪いというより、指導者が選手と認識を共有することを仕損なったからなのである。指導者がどういう働きかけをしなければならないか、その“理論”が欠落しているせいである。
 とくに天災肌の現役選手で、苦労しないで優秀な選手だった者は、できないで苦しむ後進の者の気持ちがわからないから、なかなか指導が上達しない。

 指導者は思い切って踏み込んで勝ちに行けない選手の認識(像)を描かなければならない。そうでないと指導はできない。怒鳴ればいいとか、褒めればいいというだけではない。
 グズを上達させてこそ、指導者の実力もつく。
 ゆえに先に言ったように、ロシアや支那のように運動秀才ばかり集めて、優秀な、教えればすぐ出来てしまう者ばかり指導していると、指導論もできず、指導力も上がってこない。

 わが流派では、それを科学的に学ばされるのである。科学的指導法をまずはわが身を通してやらないと、指導者にはなれない。
 それを簡単には、いきなり(その選手にとって)高度なことを要求しないことである。
 はじめはゆっくりやらせるとか、少しずつ階段をのぼらせるよう指導する。このことは明日の原稿の後半で説く。

 指導者は焦ることなく、一歩一歩、1センチ単位でうまくしていく指導でなければ、なのである。
 そのためには、実体だけでなく認識にも指導者は働きかけることのできる勉強をしなければならない。
 
 指導者とは、被指導者をして自分自身の力で(徐々に力をつけて)上達させるものである。
 運動神経の鈍い子=グズは、実体だけでなく認識も鈍く育っている。本人は主観的には一生懸命やっていると「自負」しているものなのだ。それが壁になり限界になっている。

 被指導者のそうした認識の壁を、ショックを与えて感情を解放するやり方も必要である。

 南ク継正先生の『武道の科学 武道と認識・実体論』(三一書房)(全集では第1巻)で、「恐怖心克服と煙突登りの関係」を説かれておられる。

 学生時代に近所にある壊れかけた煙突に登ったお話である。自分の恐怖心を克服するために、わざと怖い煙突に登ったのだが、最初はやはり怖くなって途中で引き返してしまった。それをどうやって克服したかが説かれている。

 簡単に言えば、我々の空手は相手と闘うわけで、これは怖いのが当たり前である。しかし怖いと言っていたのでは、始めから負けで闘えない。そこで煙突登りの例でいえば、地上1mではそんなに怖くない、そこから1段登るとちょっと怖いがまあ耐えられないほどではない。その怖いけれど耐えられるレベルで慣れたら、さらに1段登って、前よりは怖いけれど怖いところで慣れた分、怖さに耐えられるレベルがあがっているから、もうちょっと頑張れる。

 というように、少しずつレベルをあげていけば、やがて恐怖が克服できる。
 「これは恐怖に耐えることが目的なのではなく、恐怖に耐えつつなにかを行なうことが目的だからである」とある。その「なにか」とは、「まともな技の習得と駆使である」と書かれていた。



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posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(3) | エッセイ | 更新情報をチェックする