2016年10月28日

「テネシーワルツ」考(2/2)


《2》
 さて、話を原詩と日本語訳に戻そう。
 原詩は、友達に自分の恋人をこうやって奪われたと意味明瞭である。それが日本の訳にすると、その意味がぼやかされ、どうとでもとれるキレイごとの歌になる。
 もっとも英語の歌詞は、男が歌えば男の立場で女性の恋人が男友達に盗まれたになり、女が歌えば女友達に彼氏を盗まれた、になる。
 歌詞の「I introduced her」を、himと一ヶ所だけ言葉を変えれば、失った恋人が女性になったり男性になったりする。アホな歌詞でもある。ポピュラーソングだから、こんなレベルなのだろう。

 それはさておき、「テネシーワルツ」だけではなかろうが、英語の歌と、日本語訳の隔絶した中身の違いには考えさせられる。
 林秀彦さんの『911・考えない・日本人』(成甲書房)には、こういう考察がある。
 「私たち日本人は意味のない世界に生息している不思議な生物である。」として、その意味するところを説いておられる。

 英語、フランス語、ドイツ語などは意味語であるが、日本語は「味語」「味表現」でしかない、と。秀逸な表現だ。
 よく言われることだが、日本語は主語がない表現が圧倒的である。広島の原爆死没者慰霊碑のあまりにも有名かつ愚劣な「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませんから」がそうだ。
 日本語は日本人の認識がそうであるからだが、主体(主観)と客体(客観)の区別がつかない。

 林さんは「自問自答になる」と説いている。広島原爆碑の「過ちは繰り返しません」がまさにそうである。主体のない決意って何? である。弁証法的にいえば「即自」でしかなく、「即自対自」になれないのが日本人なのだ。
 ついでながら「過ちは繰り返しません」の動詞だけでなく、名詞になっても同様である。「原爆死没者慰霊碑」と書いたが、正式には「広島平和都市記念碑」である。「死没者」もあいまいだが、原爆を意味する碑が「平和都市記念」とはまるで意味をなさない。

 即自で慈善行為も考えてしまうから、自分の行為が正しいと思えればそれでいいじゃないか、何の文句がある! になる。他人が奸計を巡らせてあなたの財布からカネを巻き上げようとしているとは思いたくない。

(「即自とは、自分が自分であることがわかっていない状態、自分と他人との区別がつかないレベルをいい、対自とは相手と自分の区別がつくようになったレベルをいう。端的には、幼児レベルを即自といい、三歳くらいから対自的に目覚めていくことになる。」(南郷継正著『武道講義 第4巻 武道と弁証法の理論』)
 さらに、「即自対自」とは、「それを踏まえて自分はこうしなければならない」というときのことを言うと、同じく南郷先生は説かれる。)

 慈善行為を「私が(主体)」、「あなたに(客体)」、「施しをする(目的)」というように、論理的に考えて慈善行為をしていない。あいまいなまま寄付をする。

 江利チエミの「テネシーワルツ」の和訳をもう一度見てほしい。
 「さりにし夢 あのテネシーワルツ なつかし愛のうた 面影しのんで今宵も歌う うるわしテネシーワルツ」
 何も「意味」がないでしょ。「さりにし夢」ってどんな夢なの、誰の、それが何なの。「愛の歌」って、誰がそう思ったのさ、誰が誰に愛なの? 「面影」って誰の、なぜ今夜も歌うの? テネシーワルツが「うるわしい」とはどういうこと? 麗しい(愛しい)とは、親しみがあるとか、いとしいとかの意味だろうが、なんでいきなりテネシーワルツがそう褒められるの?

 と、意味を探ろうとすると、全部手から水がこぼれるように、何もすくえない。林さんが説くごとく、日本語はかくも「味語」なのである。なんとなく「味」らしきものをそれぞれの聴き手が感じるに任せている。なんだか明るい歌だわね、恋っぽい感じがいいわ、なんて訳がわからん…。
 欧米人はそんな歌にはしないのであろう。
 もし私のようにこんなポピュラーソングでも、なぜ? どういうこと? 誰が?などと「意味」を追及したら、みんなに嫌われる。なんでそんなに理屈っぽいことばかり言う、と白い目で見られるのは確実だ。いいじゃないの、歌が良ければ、って、なんのことだか分からぬ結末になる。

 だから慈善行為について、なぜ? どうなるのか? そもそもどんな経緯で始まったか?などと追及するのをみんな嫌う。 

 林秀彦さんは、欧米人と会話すると、「相手の言っている意味が百パーセントわかり、自分の話の内容は相手に百パーセント伝わっている」と言う。しかし、林さんがオーストラリアから日本に戻って3年、日本人と会話をしたが、「意味はまるで流れ合っていなかった。意味の交換はなかった。言葉から意味が失われていた。音だけが飛び交っていた。なぜなら交換し合っていたのは、ミーニングではなく、味、テイストだったからだ。」

 日本語はだから実に不安定な言葉で、それが古典はいうに及ばず、昭和初期の文章ですらもう読めなくなってしまう。日本人は「いつ消えてなくなるかわからない味言葉を使って、意味の交換をしている」となる。
 これは重大な指摘である。さすがである。
 これを読んで私は、低レベルではあるが、「テネシーワルツ」の原詩(英語)が意味が通っているのに、日本語の訳詩(?)になると意味不明になる謎が解けたのだ。

 そこから展開して林さんは、911の陰謀の「意味」を日本人が理解することはできず、アメリカの言うことを鵜呑みにするしかないと説いていくのだ。
 ちなみにYouTubeで、藤田幸久議員が国会で911の疑惑を取り上げている場面を見ていただきたいが、当時の高村外相や石波防衛相らの答弁がこれまた全然「意味」をなしていない言語なのだ。アホ面をさらしている。国会のやりとりはなべてそうではあるが…。
http://jp.youtube.com/watch?v=VtvulJId4sI&feature=related

 「テネシーワルツ」は、えげつない中身である。しかし意味は明白だ。ところが日本人なら、こんな意味明瞭なえげつない詩にしない。美空ひばりの「酒は涙かためいきか」になってしまう。彼氏にふられても、「これも定めなのね」「私が至らないばっかりに」「心の憂さはどこに捨てましょう…」「せつないわ」「歌を忘れたカナリアはお船に乗せればいいのかしら」と、こうなる。意味がない。理屈もない。ムードだけ。歌謡曲は今も昔もこんなものばかり。

 だから反省にならない。反省がないから過去や歴史に学ばない。悲しい気分にひたるだけ。
 だから支那、韓国、アメリカなどにもっと謝れと言われると、そうだもっと謝ろう、となる。事実を確かめることはしない。悲しい、申し訳ない気分にひたるだけ。
 それで林秀彦さんの言うように、意味語ではなく、味語に終始する。ムード=気分に酔う。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする