2016年11月09日

自然の友だち地衣類


 あるとき、友人と鎌倉の切り通しを散歩しているときに、サクラの木やウメの木の幹に薄緑色した地衣類がこびりついているのを見つけた。そばには堀になった小さな小川も流れていて、その壁面にもいっぱい地衣類があった。
 たぶんなんだか知らないだろうと思って、「あれはなんだか知ってますか?」と尋ねた。

 「コケ?」と言うから、そら来た!(笑)とばかりに、ミ二講義をしてさしあげた。
 「あれは、外見はコケに似ているけれど、地衣類という植物です」と。「へ? 地衣類? 聞いたことない…」
 
 学校でも教わることはほとんどないだろうし、食べられたり害になったりするものでもないから、誰でも見ているのに、知らない気の毒な植物である。動物にもこびりつく植物にも害はない。
 サクラ、ウメ、ブナなどの樹皮や湿った家の外壁、ドブの壁などにいくらでも貼り付いている。
 たいていの人は「コケの一種だろう」と思い込んでいる。

 生長が極めて遅い一方で、長寿だから、みなさんもウメやサクラの古木が絵に描かれているのを見たことがあるだろうが、その幹に描かれている。若木にはほとんど付いてないのはそういうわけである。

 あるいは、深い山奥なんかの樹木の枝に、緑色の薄布状のものがたくさん垂れ下がっているのを見たことがあるのではないか。ちょうど樹木に寄生しているかのようだし、クモの巣の壊れたもののようでもあって、気味が悪いと思われるかもしれない。不気味な恐怖映画に出て来るみたいである。だが、あれはサルオガセの仲間の地衣類である。
 ほかの地衣類と同じく、水分と光合成だけで生育し、栄養を他からとることはない。

 地衣類とは、菌類のうちで、藻類やバクテリアを共生させることで自活できるようになった植物であり、一見ではコケ類などにも似て見え、名前に「なんとかゴケ」と付いていることが多い。
 しかしコケとは、形態的にも、構造も全く違うものである。

 地衣類が好む環境は、コケや単細胞緑藻類(例えばクロレラ)、シダ類と重なるので、それらとよく混在している。
 初めて聴くという方は、ネットで検索して写真をご覧いただければ、すぐに「ああ、あれか」と分かるだろう。

 なにせ、超地味な植物だから、人にもあまり気づかれない。
シベリアの荒野では冬の間にトナカイも食べるものがなくなり、地面の雪を除いて地衣類を食べていると聞いた人もいるだろうが…。
 有用になるものは少ないが、身近なところではイワタケは食用になる。乾燥させたものを水で戻して、炒めたり酢の物にしたり。サルオガセは漢方薬になるものもある。

 リトマス紙の原料になるのは「リトマスゴケ」だ。染料に使われるものは結構ある。
 でも、ここで私が言いたいことはそう大仰なことではないし、単に知識を披瀝するためでもない。

 あんな目立たない、益になるケースは少なく、それこそ存在をコケにできるほどのものに、私たちの先祖はちゃんと名前を付けたことである。ウメノキゴケ、サルオガセ、ヤマヒコノリ、マツゲゴケなどなど。コケ類と混同したのはしょうがない。
 地位類やコケだけではない、すべての植物に名前がつけられている。サクラや松ならともかく、こんな小さな地衣類にまで目が届いてかわいらしい名前が付けられている。

 これはすごいことだと思いませんか?
 散歩中に私から地衣類の講釈を聴いた人は、「今まで完全に知らなかったけど、知って眺めてみると、愛着というかかわいらしいとも思えますね」と言っていた。
 そのとおりなのだ。名前を知ると、にわかに親しみが湧くと思う。
 ささいなことながら、この感性に私は自分自身でも感動する。

 遠い、どこの誰とも知れぬ先祖が、みんなで決めて名前を付けたり、有用にしてみたりしたのだ。
 わが国には独特の、自然神信仰がある。これを「信仰」と、西洋風に呼ぶのはおかしいとは思うが、まあ仮にそう呼ぶしかない。
 山川草木すべてに神が宿るとか、人は死ぬと神あがりなさるとかが、神道の基礎である。
 
 端的にはその考えと「直接に」、まったく取るに足らないような地衣類にも、親しみを込め、あるいは神性のようなものを感じながら命名したのだろうと想像する。
 それを日本人の「優しさ」と考えてもいいのかもしれない。

 もちろん、元は自然への恐怖、すなわち食べると死ぬとか、災害をもたらすとかを知ろうと努めた人類が、それに名前をつけることで仲間や子孫に危険性を教えるため(あるいは有益なものを伝えるため)だったかもしれない。

 しかし、そのいわばプラグマティックな意図だけに日本人は終わらせなかった。
 細やかな、自然と対立しない共生的な、考え方が、千年二千年の時の流れを辿って、現代の私たちに脈脈とつながっている。

 私もそうだが、友人が「知ってみると地位類に愛着が湧く」とする、その感覚、感性は実に千年二千年の歴史性を背負っているのである。
 でも、往々にして最近は、受験秀才ほどその大事な感性が枯渇しきっている「新人類」が登場していることが悲しい。
 「これはウメノキゴケと言って…」と説明しても、なんの興味も示さない人もいる。

 それどころか、「モミジが色づいて秋になりましたね」とか言っても、まったく無関心。それがどうしたという態度をとる人もいるのには心底驚かされる。たいてい、こういう人は「他人の気持ち」がわからない場合が多い。
 日本人は、世界でも稀な民度の高さを誇るが、人の気持ちがわかる感性も秀でていると思う。それは昔昔の人が、優れた感性を磨いて(互いの人が磨き合う社会だったので)、例えば土着信仰の形で、例えば和歌を残すことで…、のように子孫の私たちにつないでくれたからである。

 その意味で、私たち個人が今、神道や仏教に背をむけていたとしても、深いところで認識に反映している(沈潜している)はずなのだ。
 私たちは、地衣類なんか興味ないよと忘れてしまうだろうが、そんな地衣類にも、たとえば健気に存在しているんだなと温かい眼差しを向けて、良い品のいい名前をつけたり、やたらにいじめたりしない、その見事な自然との共生の意識は、嫌でも私たちの感性となっているということを考えてほしいと思う。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(8) | エッセイ | 更新情報をチェックする