2016年11月11日

鎌倉薪能をより高みに(2/3)


《2》
 肝心の鎌倉宮での薪能に入っていきたい。本来的にはその前に能とは何かの全体像を説いておかなければならないところだが、それは稿を改めて説くことにして、鎌倉薪能の感想を述べていく。

 鎌倉薪能のパンフレットを読むと、何人かのご仁が「作文」を載せているが、本気で能がわかっている人はいないように思う。
 開演前に金春流の者が解説していたが、これをご覧になって日本の古来の文化に思いを馳せ、優れた文化を味わってほしい、みたいな当たり障りないことを語っていた。

 へえ、じゃあその味わうべき日本文化の中身は? と問えば、おそらく答えられまい。神秘的とか、幽玄でとか、聖徳太子の時代からあった芸能だとか、そんな低度のことしか言えまい。
 観客も、能は世阿弥の創出した藝術だと思い込んでいる。それ以上、勉強しようとしない。
 高尚な能を鑑賞するほどの教養があるざあます、と自慢したいために、どうせ途中で居眠りをするだけなのに、見栄をはるのみ。

 あるいはテレビのCMで狂言の野村萬斎を知っているから生で見てみたいとか…。
 ある人から愉快な話を聞いた。知人から能のチケットをあげるから観ていらっしゃいと誘われたという。でも能のことなんか知らないというと、では詳しいおじいさんがいるから隣りの席に座らせてあげる、彼から話を聞きながら観れば大丈夫と言われた。

 で、能の会場に行って、件の老人に解説をよろしくと言ったら、その老人はなんと「能のいいところは良く眠れるんです」と答えたそうだ。結局、事前の知識なしに聞いていたって何を言っているのか分からないし、やっぱり眠ってしまった。終わって目をさますと「ほらご覧なさい、良く眠れたでしょう」とにっこりしたとか。

 鎌倉薪能での能の演目は「葵の上」であった。
 これは御霊信仰にもとづく能である。御霊とは祟り神である。非業の死を遂げた武将や女が祟り神となって登場する。それがシテである。それを仏の法力で成仏させてさしあげ、現世への思いを断ち切って、二度と祟らぬように…とする神事なのである。

 祟り神として出て来るものには、武将なら修羅物と呼び、女なら狂女物と言う。「葵の上」は御霊であり、狂女物と分類されよう。狂女物としては「道成寺」とか「井筒」「砧」などがそうである。
 「葵の上」はご存じ『源氏物語』からとった題材だ。光源氏の正妻・葵の上が物の怪に憑かれて伏せている。葵の上に取り憑いているのは今や容色衰えて光源氏が通ってきてくれなくなった六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)が生き霊として祟っているからだと判明する。そこで比叡山の小聖(こひじり)を呼んで来て祈祷をさせ、最後はめでたく成仏させる物語になっている。

 『源氏物語』では六条御息所は生霊だが、能では死霊に替えられている。
 能を鑑賞したものは武将で、パトロンにもなっていた。武将たちは政敵を陰謀やら戦争やらで殺しまくり、財産を奪ってきたから、まあ寝覚めが悪いのである。殺した相手が祟るのが一番恐ろしい。それで古来伝統をひきついでいる賤民に神事をやらせて、鎮魂というか成仏してほしかったのだ。

 それが修羅能である。「葵の上」のような狂女物は、男どもにしてみればたいてい女に恨みをもたれている身であって、愛人や女房にどうも疾(やま)しいことがある。だから男を恨んで祟られては怖いから、これも神事として、生霊や死霊を追い払ってほしい。そういうものだった。

 しかし、能を鑑賞する人のほとんどはそんな由来は知らなかろう。古来の芸能とか藝術なんだと思って観ているのではないかと思う。だが、何を言っているのもストーリーもさっぱりだから、やっぱり眠くなるしかない。
 私に言わせてもらえば、能を「今の能」からしか理解しようとしないからである。広く捉えれば、日本に人の集団が登場したときから、狭く捉えても室町時代から続く神事が何がしかと相互浸透し、量質転化して今日の「藝術的能」になっているのである。

 その縦横の過程的構造を理解せずしては、わかるはずもない。「ああ、これが幽玄か」とか「なんか神秘的」というあやふやな像を描いている。
 今回の薪能では、開演前に能舞台に主催の鎌倉観光協会や市長がずかずか上がって、マイクで祝辞だか挨拶だかを行なったが、そもそもそれからして、能を行なう意味すらわかっていない「暴挙」である。

 金春流の連中も、それはやめてくれと言わなかったのか。プライドがないねえ。舞台は神聖な場所だから「俗」をもちこんではいけない。「翁」にしても、演者はそれなりに出演前は斎戒沐浴、別火物忌(べっかものいみ)をするものだ。今は簡略化されているらしいけれど。なにせ神を演じるのだから、歌舞伎や新劇なんかとはわけが違う。

 観客のほうも、ほとんどの人が狂言と能が終わったあとに拍手をしていたが、これも能をまず神事と認識していないことからくる無作法である。
 例えば地鎮祭でもいいし、子供の七五三参りでもいいが、神主が祝詞を言ってお祓いをした後で、庶民側が拍手するか、というんだ。それと同じことである。

 能を今日的に藝術として鑑賞することは、許されているし、大いに結構ではあるが、拍手はもとは西洋のシキタリであって、日本ではなかった。そんなことをしなくても、日本では客も主演者も、良いか悪いかは伝わったのだ。また、それを理解できる者が能を観る資格があるのである。拍手したければ大衆芸能の歌舞伎にでも行け。

 歌舞伎は、終わると緞帳が引かれ、拍子木が打たれ、派手にさあ大団円という演出だが、能はゆったりと役者や地謡などが退場して行き、静かに余韻を残しながら終わるものである。
 それに御霊や祖霊の場合は、やすらかに成仏していただいて、納得して黄泉の国へとお帰りいただくのだから、終わって拍手して騒ぐのはまったくぶち壊しである。

 主催する能の演者側も、わかっていないのか、大衆におもねているのか。事前に、能には拍手は似合いませんので、ご遠慮ください、と放送すればいいのに。そのほうが、はるかに余韻を味わいながら帰宅の道を辿れるだろうに。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(3) | エッセイ | 更新情報をチェックする