2016年11月16日

幽玄とは何か(1/2)

《1》
 能に関連したテーマを続ける。
 ちょっと余談を言うと、「お能」なんて言い方はゾッとする。あの高慢ちきな白洲正子が言い出したことで、ただの気取りでしかない。
 「能」で良いのだ。それ以外は日本語ではない。
 先日アホな看護婦が「お血圧を計らせていただいてよろしいでしょうか」と言った。そんな日本語はない。ただバカ丁寧に言えばいいと思っている。
 ならば「おカレーライス」「おキス」「おウンコ」…というのか。

 白洲正子が「お能」と言ったのは、わたしどもハイソな人種はお上品でござあますのよ、と鼻を高くしたいのである。なんと下劣な!
 これをあざとい、というのだ。じゃあ「お狂言」「お地謡」と言うのか?
 ちゃんと正しい日本語をつかうことこそが教養、品格である。品とはなにかを知らない者が、「お」を付ければ上品だと思い込む。

 さて今日のテーマは能に関わって「幽玄」である。
 能といえば幽玄、幽玄といえば能と相場が決まっている。教科書にもそんな記述があるだろう。能は幽玄の世界を表現している、などと。
 さて、では幽玄とは何か。答えられる人はどれほどいるだろうか。辞書的な答え、受験的な答えを聞いているのではない。

 これは芭蕉の言った「わび」「さび」「軽み」も似ている。わかったようでわからない。でも皆が使っている。
 子供にはわからないとか、外国人には難しいだろうとか日本人は偉そうに言うけれど、さてその構造や如何に?

 幽玄を語る前に、芭蕉や千利休が提唱したとされる「わび・さび」について。どちらも日本独自の像=認識で、しいていえば美意識の一種と言えようか。
 「わび(侘び)」とは、は動詞「わぶ(侘ぶ)」の連用形で劣った状態や不足すること、思い通りにならないことからの寂しさを表す言葉であった。その概念を俳諧や茶道で用いられるようになって、否定語から肯定的になった。

 芭蕉や利休が主となって、中世以降は簡素で寂しいような趣を意味するようになり、そうした認識を得る(像を描く)ことが喜ばれるように変化した。
 利休の茶室の演出がそうした華美でない、慎ましやかで、落ち着いた雰囲気がそうだと認められるようになった。

 「さび(寂び)」は、これも動詞「さぶ(寂ぶ)」の連用形で、時の経過によって劣化した様子、であった。そこから、古びて味わいのあること、枯れた渋い趣、寂しげな趣を表すようになった。
 芭蕉が創造した俳諧では、物静かで落ち着いた奥ゆかしい風情が、あざとくではなく、洗練されて自然に滲み出るという感覚が好まれた。
 さびは古く枯れて渋みのある静かな趣だから、「渋み」とも言えようか。

 また芭蕉は「軽み」という概念も用いた。
 『猿蓑』のなかに路通(ろつう)という弟子が「鳥共も寝入ているか余呉の海」と詠んだところ、芭蕉はこれを「軽みあり」と言って褒めた。路通は乞食だったが、芭蕉が拾った人だ。
 江戸時代の人だから、いうなれば国語力がこの程度だったのかもしれないが、まだ芭蕉自身も日本社会も言語については未熟だったのだ。

 だからこうとしか言えなかったのだろう。でも当時としては、最優秀の頭脳、最先端の言語力だったと見なければいけない。
 ただ、現代人からあえて言わせてもらえば、芭蕉は説明が足りなかった。本ブログでも再三述べていることだが、例えば「なんとかの音楽は素晴らしい」と言う人がいるが、「どう素晴らしいのか」「なぜ素晴らしいのか」をまったく説かない。
 でも自分は「論考」を述べたつもり…。

 芭蕉も「鳥共も寝入ているか余呉の海」のどこがどう「軽み」なのか、ないし「わび」とはどう違うのかを認識論を踏まえて説かなければいけなかった。むろん彼にはまだその実力はなかったのは仕方がない。
 問題は、後世のわれわれがその言葉をまったく深めないことにある。芭蕉の認識はこうだと論理で言わないで、ただ神棚に上げて押し頂くようなザマである。

 武道でいえば、剣道も柔道もそうであって、先人の金言なんかを「はは〜っ」と平伏して、わかっていないのにわかったつもりで使う。
 これは南ク継正先生が『武道の理論』を世に問うて以来の、武道界の課題であるはずなのに、誰もまともに考えようとしてこなかった。『武道の理論』の衝撃を、まともに受けた人間は今も少ない。

 例えば、嘉納治五郎の言葉を鵜呑みにするのではなく、さらに上達論、勝負論、指導論、極意論のごとくに探求していくことはなかったようである。解釈はしているかもしれない、またノウハウは進歩したかもしれないが、論理構造を深めた話は聴いたことがない。
 西郷四郎、三船久蔵、木村政彦のように、嘉納治五郎より強い達人は出たけれど…。

 「わび、さび」のような芭蕉の一言隻句を、そのまま適当に解釈するのではいけないのではないか。われわれが辞書を引くのは、手がかりを得るだけ。
 なかなか本題の「幽玄」に行かないのは申し訳ないが、これは準備運動なのだ。

 「鳥共も寝入ているか余呉の海」を創った路通は、何を反映し何を像として描いたかを、俳人なら、あるいは国文科の研究者なら説かねばならない。
 同じ『猿蓑』のなかに路通の作として「いねいねと人にいはれつ年の暮」がある。「いねいね」とは「去れ去れ」であって、路通は乞食だったから、自分が京都の街で人様に門前払いされた過去の経験がある。その辛さがフッと浮かんだのだろう。

 それを踏まえると、「余呉の海」の句も、湖面で寝入っている野鳥の様子に、かつての自分の辛さ、淋しさを重ねての反映だと知れる。芭蕉は、路通の境遇を知っている。だから「いねいねと…」の句は辛かった過去がいわば生で表現されているけれども、「余呉の海」の句は、そうした生々しい体験を心の奥にしまって、水鳥が寝入っている湖面を描写しながら路通の内面を語っているところを芭蕉は評価したのであろう。

 あえて言うこともないが、これは弁証法でいえば「否定の否定」の手法が生かされている。個人の経験をじかに表現するのではなく、遠回りして例えば風景を描くことで、人間の心的状態の一般性を獲得しかつ鑑賞者に「かくあるべし」と説いている。

 だから乞食の暮らしの辛さは「重い」が、水鳥の様子に変えて心を表現したのは「軽い」のである。それを芭蕉は「軽みあり」と褒めた。芭蕉はそれが文藝の価値なんだと認識していたと思う。和歌の伝統もそこにあった。だから芭蕉は、本物の和歌を追及した『風雅和歌集』を読んでいたのではないかと想像される。

 一例を挙げれば、「忍ぶれど 色に出にけりわが恋は ものや想ふと人の問ふまで」(平兼盛)は和歌の最高傑作と言われる。これも、露骨に(今の歌謡曲みたいに)「好きだ」「愛してる」と言うのではなく、奥ゆかしくというのか…婉曲にというか…、それゆえかえって鑑賞者の想像をかきたて、弁証法的にいえば「否定の否定」を経ることで、より見事な感興、心的状態の一般性を掘り起こす出来映えとなっている。

 「幽玄」とは何かも、こうした捉え方がなされなければならないと考える。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(1) | エッセイ | 更新情報をチェックする