2016年12月01日

答えは風に吹かれているか(3/3)


《3》
 さて、話は飛ぶが、新聞広告に詩人・辺見庸の詩文集『生首』があった。なんて嫌なタイトルをつけるのかとゾッとした。
 その辺見庸が早稲田大学で講演会を催したときに、寄席の出囃子みたいに昨日話題にしたCCRの「雨を見たかい?」をかけながら登壇したんだとか。ということは辺見氏は、「雨を見たかい?」を反戦歌と思っていて、自分も反戦のジャーナリストだという自負を誇示しようとしたのであろうか。

 私は辺見庸という作家の作品は読んだことがない。共同通信社の外信部に居た、というだけで信用ならないからだ。1991年に小説を書いて芥川賞をとり、文筆業で食っていける目処がたったからか、96年に共同通信を辞めて執筆活動に専念するようになった。
 共同通信社にいたくらいだから、かなりの左翼である。「9・11のテロ事件」は、イスラムの兵士が自爆テロをやったと今も思い込んでいる、というかユダヤ・マフィアどもの意図どおりの、マスゴミ見解に与している。

 あるサイトで見つけた辺見庸作『生首』の中の「秋宵」という詩。

秋立つ宵のこと
蒼穹を西の方によこざまに
一個の生首が飛んでいった
軍鶏のちぎれたあたまみたいな
筋ばった人の首であった
紺瑠璃の空を
東から西へ
首がわたりきるのに
三分と四十一秒を要した
その間赤いものは
なにも滴ることがなかった
雷はなかった
楽の音もなかった
首は喘いでいるようであった

あれは憤怒の顔ではなく
忍苦の形相でもなく
口を半開きにして
世の中をなめたみたいに
ヒャラヒャラと
笑っていたようである
真相はつまびらかでない
飛ぶ首にかんしては
それ以外の諸現象は事実ではないので
他に伝えるべきではない
一個の首が蒼天を西の方に
ビュービューと飛んでいった
ただそのことのみを想像せよ
首が天翔(あまがけ)た
秋立つ宵
私はじっとそれを見あげていたのだ
私の生首を 

     *      *
 
 わけのわからん詩である。
 ところが新聞にこの詩集の広告があった。版元は毎日新聞社だ。
 「2010年、日本文学を震撼させた異形の作品集!」とあって、推薦文みたいなのが添えられている。
 「高橋源一郎  行儀の悪さ、圧倒的な迫力、情熱、ジコチュー(?)、なんでもありのごった煮に、ギョッとする。詩という領域に確信犯的侵攻を企てた作品集」
 「平田俊子  ときに呪い、ときに嘆き、ときに静かに語る著者の声が充満している。堅固な壁にからだをぶつけ、噴き出す血で書かれたような詩集」

 そして毎日新聞自身の広告には、「見当識をあらかた失いながらさも狂いなき定位にあるかのようにふるまう人と世界への呪詛と敵意をうたいあげています。天翔る生首とはなにか。切断された身体と記憶、実存から剥がれ無化された言葉はどこに流れていくのか・・・まがまがしい予感にみちた一冊。」
 とくる。なにを馬鹿げたことを言っているのかねえ。
 みなさんは、こういう広告を見て、1785円も払って読みたいと思いますか? 私はなりません。
 あくまで高橋源一郎(作家)や 平田俊子(詩人)の捉え方とはいいながら、広告に使われるくらいなので、ほぼ作者の意図を汲んでいると見なされているのだろう。行儀が悪くて、自己中心で、読むとギョッとするんでしょ? カネを出してまでそんな体験はしたくない。

 辺見は、脳梗塞と癌をかかえて闘病生活をしているらしい。その病に倒れたことの原因というべき、自らの生活過程を反省することはないようである。行儀が悪くて、自己中心だから、そんな病に倒れたんではないのか。
 『しのびよる破局」というエッセイでは、闘病する己の内面みたいなものと、現代の日本人が直面している社会不安というか、存在意義みたいなものを捉えられないもどかしさを語っているそうな。

 おかしいと思いませんか、この所業を。脳梗塞や癌は自らの生活がダメだからなっただけのことである。どうもこの人も、脳梗塞や癌という病気があると勘違いしているように見える。
 「 堅固な壁にからだをぶつけ、噴き出す血で書かれたような詩集」というのは、つまりそういう闘病のことを言っているのだろう。「噴き出す血」で詩なんか書かなくていいから、体を治しなさいよ、と言いたくなる。

 心も精神も、かってに体に宿るのではない。体が鍛えられていないと、精神はないのだ。記者や作家どもの多くは、毎夜紅灯の巷で飲んだくれてオダをあげていて、ろくなものも食わず、きとんと運動もしない連中である。辺見もそうだったからこそ癌になったはずであって、だからそんな体には「精神」は宿らない。
 
 宿っていない精神で、よく作家でございの、書を上梓しましたのと言うものだ。

 それはさておき、私が不思議でならないのは、辺見庸もそうだが、高橋源一郎や 平田俊子もいったい文学とは何かというのがないことである。あれもこれも文学で、これといって定義はないんだから自由に書いて、それで何かを訴えられればいいんだ、とでもいうのか?

 今も多くの空手流派がそうであるし、他の武道もスポーツも同じであるが、どこにも論理性はなく、理論的に教えてくれるところはない。
 で、何がいいたいかと言えば、文学の世界もいっこうに「文学とは何か」を理論的に説いてみせる文学者はいない、ということである。
 「風に吹かれて」も「雨を見たかい?」も、そして辺見の詩にしても、こういう世界には「いささかも論理性がないということ」である。

 だから、先に例としてあげた高橋源一郎や 平田俊子の広告文のデタラメさがある。文学とはこういうものだと論理的に説き、だからこの辺見庸の詩こそが文学と言えるのだ、というような推薦文にはとうていならない。それは何故? である。
 つまり、文学の世界も、あるいは歌の世界でも、確固として理論的に説かれたものがないのである。
 だから辺見庸のごとく鬼面人を驚かす、「生首」なるタイトルをつけて人の気を引くだけのことだ。

 まさにほとんどの空手流派に理論がないのに、稽古をやり、有段者になり、大会で強ければ優勝し…というだけのことだ。
 これぞまさに Blowin' In The Windではないか。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする