2016年12月10日

思想性の高みを今一度問う


 これはだいぶ以前のわが空手道場で講義したことである。

 われわれ流派の人間ならば、アタマは訓練でよくなる、が共通認識になっていなければならない。アタマの良さが先天的だと巷間信じられている向きはあるが、間違いである。
 諸君らのなかには、年配になって入門してきた者もいるが、よく体は固いし、型の順番も覚えられない。いくら練習しても前蹴りがうまくならないので、やはり私には才能がないのでしょうか? と相談にくる者がいる。

 そういう諸君は、南ク継正先生の『武道の理論』シリーズも、教科書として指定されている『空手道綱要』も読んでいないのだろうか?
 きちんと勉強してから、そういう質問はするべきである。南ク先生の本を読んだが、まだよく理解できない、というのならいいが、初めから読まずに才能がないのでしょうかもあるものか。

 頭の良さも、初めから(生まれつき)決まっているのではないことぐらい、南ク継正先生のご著書を読んでいれば、理解していなければならない。私はうまれつき音痴だ、などという人もいるが、それも間違いである。すべて訓練しだいである。

 南ク先生の著作は、定年退職後に時間ができたら読みます、それまで愉しみにしてますと言う者がいたのには仰天したことがある。120歳まで位来るつもりか? それでは暇つぶしにはなっても、人生手遅れである。

 感情像も訓練で育ち、それで脳細胞が創られるのだ。逆に疑いながらやれば、その感情を通して脳が覚える。そうすると訓練するほどに頭が悪くなる。「嫌だ」が増幅されていくのである。
 空手部にせっかく入っても辞めていった人は、「こんな練習やって強くなるのか」とか「なんでこんなことをやるのか」とか「くたびれた、もうやめたい」とかの感情を抱きながら稽古をやったから、もうやめた!となったのだろう。

 難しいことを修得するのだからその訓練は辛いに決まっている。しかしその辛さが「快」になる感情でやらないとものにならない。この辛さを克服すれば夢がかなう、といったことがあるから皆がんばっているのだろう。
 指導者たるものは、辛さを「快」の感情を抱かせながらやらせる、というのが大事である。

 先日、メールで私に質問してきた者がいた。
「“10年後の豊かな自分”、それを明確にイメージすることが辛さを“快”とする原動力になるということでしょうか?」との質問であった。
 それはそうだ。だが、それだけではない。
 思想性の高み、誇り、大志、情熱、論理性のような精神もありようが、辛さを克服する原動力となるのだ。

 あるいはわが流派ではよく言われるのは、「恥を知らないやつはがんばらない」「がんばる原動力は恥を知ることだ」「劣等感がなければ人間はがんばらない」といったことである。
 先週の稽古で、Aに皆の前で足腰の鍛練をやらせたのは、彼自身あまりの足腰の弱さを恥じるようにするためであった。恥ずかしいと思ってくれただろうか…。

 つまりわれわれの掲げる「玄和精神七か条」のような自分になっていないことを恥じればよい。玄和精神七か状は、市販されている『空手道綱要』にも掲載されているが、「大志を忘るなかりしか」「情熱消ゆるなかりしか」などの項を言う。恥じなければ何もしない。
 思想の高みは、思想の高みとして実在はしない。例えばBが乗っているジャガーはジャガーそのものが思想の高みである。諸君なら当然に前蹴が思想の高みになるはずである。

 例えば時計でも、セイコーのものなら諸君は買うだろうが、支那人が作ったセイコーの偽ものを、諸君は買うか? これは諸君が思想の高みゆえに買っているのだ。こう言うと、日本製は性能が良いから買うのでは? と言う人がいるだろうが、それは当然のことだ。われわれが例えば時計一つ買うにしても、性能だけ見てとか、美人が広告に出ているからという理由だけで買えないことはないけれど、それだけではいけない、と言っているのである。

 それだけではいけない、とあえて言うのは、別に一般大衆は安いとか性能がよいだけで購入していい。しかし何がしか、己が人生をワンランクあげたいと希求するならば、思想性の高みの堅持は必須である。

 思想性の高みのことを、私がブログで書いたら、「おれは人から生き方をとやかく言われたくない。思想の高みなんかなくていい」と文句を言ってきた人がいた。別に私はそんな人に語りかけるつもりはないのだ。お好きにどうぞ、である。

 支那には思想の高みはない。だからサッカーの観戦のあり方一つにも思想性はでる。ペットボトルを投げ込む観客は、マナーだけの問題ではなくて、その国の思想性の高みの有無によるのだ。
 しかしセイコー社のように、思想の高みを堅持するのは辛い。努力が必要だ。支那人はそんなものがないから楽ではあるだろう。ドローボーさえしてたらいい、というのが支那人だからだ。恥を知らない連中だ。しかしセイコー社の人たちは、ただ辛いだけなのか?

 われわれの流派の空手をやる、ということは、こうした思想の高みを堅持するということである。だから前蹴ひとつが思想の高みになる。
 冒頭の話に戻せば、何かがやれないことを、たいていの人は才能のせいにして弁解するのだ。そう思ったほうが楽であるからだ。才能のせいにしたのでは、唯物論の堅持という思想性の高みは把持できない。できないことを才能のせいにするのは、それは逃げであって、要は努力すればいいだけのことである。

 加えて我が流派では「大志は少年期に創っておかないと、大人になってからではビビる。十代までは『それ行け!』になるから、憧れが強い。脳細胞の像が大きい。ヤクザだって、十代からなるだろう。ヤクザになるには20代からではむずかしい。それはもう世間がわかる年齢になるからだ」と教えられる。

 かく言う私も、十代で大志を創っておかなかったから、苦労した。これはまさに反省を含めての話になる。
 私の道場でも冒頭に取り上げた弱気の男は、しょっちゅう自分は空手を続けて黒帯になれるでしょうか、と自信なげに言ってくる。ちょっとした演武会に出場するようにと言っても、自分はまだ型もよくできないから出場は見合わせたいのですが…などと、いつも後ろ向きの話をしてくる。この人物は一流国立大学を出て、一流の会社に勤めている者なのだが、「なんでいつもお前はそう後ろ向きになるんだ」と叱責することになる。

 まさに十代なら『それ行け!』『やったれ!』になるものを、別に誰かに取って食われるわけでもないのに、失敗したことばかり予想してビビっている。受験秀才ではあったが、大志を抱きそこねたせいである。負けてもいいから組手で闘ってこいと言われると、きっとビビるだろう。負けても勉強になると思えばいいのに。度胸がない。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(1) | エッセイ | 更新情報をチェックする