2016年12月14日

話すときも書くように


 文章を書くときは、ちゃんとしたものを書こうとすれば手書きで行なう。ブログ原稿はついついPCのワープロで、になる。
 音声入力で原稿をPCに書かせるともっと効率的になるとは承知しているが、どうもなじめそうになく、やっていない。

 アメリカの小説家トルーマン・カポーティは、『冷血』を書くときに、実際にあった殺人事件をネタにしたので、各地に取材に出かけた。そのとき美人の秘書を伴って行った。で、原稿は口述筆記で秘書にタイプさせた。むろんまだPCもなく、音声識別機能もない時代だった。
 うらやましい所業である。いつかそんなことをやってみたいと願いつつ、もう年をとってしまった。嗚呼。

 国際エコノミストの長谷川慶太郎氏は、実に二百数十冊の本を書いたが、手書きの原稿は一つもなく全部テープに吹き込んだものを文字に起こさせたものだそうだ。
 こう書いている。

 「手書きで原稿用紙の升目を埋めると1時間で二千字が限度だ。ワープロを使えば四千字、テープに吹き込むと1万三千から四千字である。この生産性の差は大きい。」


 いかにもそうだろうけれど…。長谷川氏の場合は、文章の魅力や深みで勝負していない。情報一点張りというべきか。本を出して印税で儲けるか、会員に情報を提供することで食っているし、それを政府の人や財界人が読んではアドバイスを依頼してくる。海外その他に取材に回る時間も十分とれる。
 ま、よく計算されている。

 つまり、文章の味わい、深み、もとを問えば像=認識の厚みなどは犠牲にして、ビジネスに徹しているわけである。
 実際、長谷川慶太郎の本は、文章自体は薄っぺらである。名文として残らない。それでいいのである。彼は出が新聞記者だったから、そういう文章になじんできたし、それが文章だと自負しているのだろう。

 さらに彼はこう述べる。
     *     *

 今から三十年以上前、私はこう考えた。コンピュータが発達して、そのうちに音声識別装置が実現する。そうなったらコンピュータに向かってしゃべると、そのまま文章になって出てくる。「ならば」と、しゃべる訓練を始めた。何をやったかというと、テープに吹き込んで聞き直すのである。最初は使い物にならないレベルだったが、改善できた。

 大事なことはまず声だ。言葉尻がはっきりしていて、一つひとつの単語が明確に聞き取れる言葉をしゃべる。また、ニ度、三度、同じ言葉を使ってはいけない。それから、論理的な組み立てが必要である。いずれも訓練で、できるようになる。
 (『2017年世界の真実』WAC刊)

     *     *

 これはなかなか含蓄のあることを言っている。
 わが空手流派でも、しゃべるときは「ゆっくりと、力強く、正確に」と話し方三原則を叩きこまれる。また学者になろうとする人間は、書くようにしゃべる訓練をしろ、とも。

 長谷川氏が説いているのも同じようなことだ。
 なにしろ長谷川氏は、日本の言論界でただ1人、ソ連邦の崩壊を予測し、オイルショックのときも日本はまったく心配いらないと言い切った人間である。しっかりした情報を得ているとともに、アタマが良いからである。

 そのアタマの良さを創って来た要素の一つが、書くようにしゃべるこの訓練であったことは間違いない。
 ただ、テープに吹き込んで、スタッフに文字起こしをさせる、ないし今ではコンピュータに音声識別させるのは、早いし生産性はあがるが、像が熟成されない。
 
 たとえば「幽玄」という言葉を原稿用紙に書き付けるときに、文字を書きながら私たちは、像を膨らませるのである。その何秒間かに、あれこれ想い描いているのだ。そこに厚みができるようになる。
 ところが音声を吹き込んでそれが原稿になると、いわば余計な像の「遊び」のようなことが行なわれないから、文章が浅いものになる。

 昔、編集者だった友人が、作家・開高健の所にインタビューに出向いて、見解を聞こうとした。すると開高はしゃべったことがほとんどぴったり原稿用紙何枚という予定の分量どおり、なおかつ文字に起こせばそのまま文章になったと言っていた。

 しゃべり言葉では話さず、過不足するところがなかった。
 開高も、書くようにしゃべる訓練をしたのだろう。

 わが畏友・天寿堂の稲村氏は、治療中に質問してもなかなか答えてくれないという悪癖(?)がある。治療に集中しているからだとは承知してはいるけれど、内心、それはもったいないんじゃないかと常に思っていた。
 質問されたら間髪を入れずに、書くようにしゃべる、それも長谷川慶太郎氏が言うように、であれば、もっとすごい実力を身につけたであろうに…。

 私は自分の空手道場では、よく講義をする。まあせいぜい10分間程度であるが…。年配の弟子が多いから休みを多く入れるためでもある。そのときに、一応、書くようにしゃべることは意識していた。

 他事ながら、虎ノ門ニュースに出て来る作家・百田尚樹は、実に聞き取りにくい話しぶりである。今や流行作家らしいが、とても彼の小説を読む気にならない。しゃべり方がドブスすぎる。アタマの中を整理しながらしゃべっていない。早口で、アタマに浮かぶよしなしごとをそのまんまポンポンと口に出す。
 あれでは大衆小説は書けても、後世に残る純文学は書けまい。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする