2016年12月16日

成功できない子、成功する子を分けるもの(1/2)


《1》
 毎年、秋になるとプロ野球のシーズンが終わり、戦力外通告を受けて去って行く者、引退するものがいて、新しくドラフトにかかって各球団に入団していく選手もいる。
 サッカーでも相撲でもみんな同じ、成功するもの、ダメだったものが出る。

 人間、体格的にはそれほど変わっていないように見え、同じ厳しい練習に耐えながら、華やかなスターになれるものがいる一方で、ほとんどのものは落伍していく。
 昔からこれを、才能がなかったんだとか、練習が足りなかったからだとかで誰でも片付ける。

 今回はいくらか違う視点で、この成功しなかったものたちの原因を考えてみたい。
 プロスポーツの世界が特殊なのではなく、私たちが誰でも経験する学校や職場でもこれは共通する問題であろうか。

 まず、海水浴の話からしてみる。幼児の海水浴デビューのことだ。
 何年か前、泳ぐより砂浴をしに海岸に行ったときのこと、何組か1〜2歳の赤ん坊を連れてきた家族が、その子を海につからせようとするのを目撃した。
 どの親もほとんど例外なく、その幼児を抱いていきなり海につけることであった。どの子もわーっと泣き出す。親が幼児の足を海につけようとすると、足を縮めて、足が海面に付かないように必死に抵抗する。

 たぶん幼児は生まれて初めて海を見て、海に体を触れたのだろう。あるいはせいぜい海に入るのが2度目か3度目かだとしてもいいが、それでいきなり親に見た事もない海にいきなり連れてこられて、抱かれてというよりまるでとっ捕まえられて海に連れて入っていかれる。親はむろん、幼児の足がつくぐらいのところで立っているのだが、それでも幼児にとっては恐怖なのだ。それがどの親にもわからないらしい。
 恐怖が大げさなら、認識のわずかなズレが起きる。

 「恐くないよ」としきりに親は言うが、もう幼児は言うことなど聞きゃしない。あまりに幼児が泣くので、どの親も諦めて海から戻ってくる。二度と子どもは海に入ると言わないで、べそをかきながら母親にずっと抱かれている。
 そりゃそうだわな、と私は呆れた。彼らはたぶん地元の人間ではあるまい。都会から週末にやってきて、さあはりきって子どもに海デビューさせようとしたのだろうが、みんな泣かれて失敗する。

 その話を知り合いの女性に話したら、その女性も1歳くらいの幼児を夏に海水浴デビューさせようと、海に連れていったそうだだが、やはりいきなり抱いて海に入っていって子どもに泣かれ、失敗した、と語っていた。
 これはまさに弁証法がないやり方である。

 地元の子なら、それこそ「生まれて潮で湯浴みして♪ 波を子守りの歌と聴き♪」なんだから、まずことさらな海デビューはいらない。いつの間にか子どもは海に入ることを覚えている。といって、地元の子だって、それなりの順序を経て海に入れるようになっているのだが。
 都会から来た親は焦り過ぎである。せっかく連れてきたのだから、海の楽しさを味わわせてやりたい親心はわかるが、いきなり海に連れて入って大はしゃぎする子は少ないだろう。

 幼児は、まず自宅の風呂場や簡易プールで水遊びに慣れさせ、海に連れてきたら最初は波の来ないあたりで砂遊びをさせ、そのうち慣れたら、波打ち際で足がわずかに波にさらわれる程度のところで、波というものを実感させることである。足の裏を波によって砂が移動することを、恐いと思わせないように、楽しい、愉快だ、もっとやってみたいという認識に(親が働きかけて)もっていかなければならない。
 それが、赤ん坊の認識を親と一致させることだ。

 それに十分慣れたら、親がもう少し深いところまで入ってみせ、危なくないことを十分みせるのだ。それで子どもが自分から多少の深いところに自発的に進んでいくようにする。それも膝くらいのところで遊ばせ、波が恐いものでなく面白いものだと分からせることなのだ。
 子どもの様子しだいだろうが、親が抱いていき、子どもがとても足がつかない深さのところで浮き輪に入れて遊ばせるようなことは、1〜2歳の子どもには無理である。親は速く浮き輪で遊ばせたという親心はわかるけれど、最初は無理しないほうがいい。

 しっかりと子どものココロが海に対して量質転化するべく順序を踏んでいき、辛抱強く待たなければならないのである。
 こうやって、砂場で慣れる=量質転化をさせ、次にごく浅い波打ち際で量質転化をさせ、つぎに膝くらいの場所で楽しいという実感を量質転化させるのである。

 この幼児の海デビューは優れて「ココロ」の問題である。ココロをいかに育てていくかの一例なのだ。あるいはこれが、リハビリをしなければならないのに、それを嫌がる脳梗塞などの老人を介護していく過程の問題でもある。

 昨日も紹介した南ク継正先生による「ココロ」と「アタマ」の問題をもう一度引用しておく。
 「読者のみなさんの中学・高校での授業内容を思いだしてみてください。『ココロ』の授業より『アタマ』の授業だったでしょう。つまり、みなさんの『ココロ』に、社会的にではなく自分勝手に社会性をもたないままの『ココロ』を創ってしまっているはずです。だから勝手な個性を創出してしまっており、当然にそれに浸透された『アタマ』に育っているということなのです。」

 この『夢講義』で説かれているように、われわれはとかく学校での勉強を、例えば数式を解くとか英語を暗記するとか、ほとんどが「アマタ」を創るために学んできていて、例えば恋愛にしても友情にしても、はたまた自分が親になってからの子育てにしても、みんな自然成長的に育ってしまっている。学校で友だちとの付き合いが大事だとか、部活で先輩後輩の間柄を学ぶとか言っても、それはまったくの自然成長性に任されている。

 友情とか恋愛とか志とかはこうあるべきだなどということさえ、教師は教える実力がない。せいぜい周辺教科と蔑まれている(?)体育や音楽、図工あたりでわずかながら…の状態だが、それさえも技術的な教育ばかりで、音楽や体育を通しての「ココロ」の教育を直接に行なうことは少ない。あるいは良くて良質の文学から学ぶだけである。その良質の文学さえも、好き勝手に任されてしまう。

 だからやや飛躍はあるが、この自分の子どもの海水浴デビューにみんな失敗する。「ああ、一事が万事なのだろうな」と嘆息するのである。海水浴といえども人間は社会的に学んでいくのだから。
 しかしながら、いちいち学校で、将来の自分の子どもの海水浴デビューの仕方なんてことを授業でやるわけにはいかない。

 では初めて映画を見せるときは?とか、花火を初めてやるときは?などと言ったら、きりがない。だからこそ「ココロ」の問題は一般性として学校で教えつつ、一方で弁証法を教育すべきなのである。例えば量質転化を知っていれば(使える実力が養成されていれば)、この場合のような、生まれて初めて海に入る子どもをいかに導くべきなのかの答えは自分なりにだせるのである。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(1) | エッセイ | 更新情報をチェックする