2016年12月20日

孔子も孟子も、デッチあげ(2/2)


《2》
 秦の始皇帝が漢人でないことを冒頭に書いたが、彼もどうやらユダヤ人であった。秦とはそもそもバクトリア王国のことだと言われる。バクトリアがどれだけの地域を支配したか私にはまだよくわからないが、中央アジア一帯から現在の支那あたりに広がっていたのだろうか。この秦の歴史を書いた『秦本紀』という“歴史書(?)”は、アヤメネス・ペルシア史の漢訳だそうである。

 現在、始皇帝の墓とされる西安の兵馬俑は、調査したいから写真を取りたいと申し出ても禁止になっている。理由は明らかではないが、中共政府が自分たちの歴史の真実が暴露されることを恐れたのであろう。実際、06年に兵馬俑の眠る始皇帝陵の陪葬墓から出土した人骨は、ペルシャ系のDNAが見つかっている。このことから、秦の時代の軍隊は諸民族の混成隊だったと思われているようだが、そうではないだろう。兵馬俑の兵士像の顔を見ただけでも明らかなように、あれはギリシャ人だったと素直に考えるべきではなかろうか。

 以下に「秦始皇帝兵馬俑博物館」の展示が見られる。
http://www.joyphoto.com/japanese/abroad/2003xian/heibayo01.html

 鹿島氏はペルシャの史書には、古代中国大陸はトルコ人が占拠しており、アレクサンダー大王がバクトリアから洛陽に侵入して市民たちを殲滅した、と書いてあると記している。むろん支那史にはどこにもそんな記述はない。それは一つには隠したからであり、全部を借史にしたからであろう。かつてはトルコ民族は一つだったものが、大きく分かれ、一つは現在のトルコへ、一つは現在のウイグル(東トルキスタン)になった、と同様であろう。

 秦陵墓や兵馬俑とは、実は漢民族の先祖の遺跡ではなく、バクトリアから侵入したギリシャ侵略軍(アレキサンダー軍)の遺跡だったのである。これが世界にバレれば、当然支那の歴史は全部がデタラメになる。となれば中共政府が主張する領土の根拠がまったく失われる。例えば支那は、尖閣諸島は支那の領土だとか、南沙諸島は昔から支那領土だとベトナムやフィリピンを脅す根拠、満州も漢民族のものだという根拠も、み〜んな消えてなくなる。そればかりか、奴らがいう「南京大虐殺」もやはり捏造と世界中で見なされる。(ザマミロ!)

 しかしながら日本も(朝鮮も)同様であって、関西などにある天皇の巨大古墳は天皇家が絶対に調査させない。調査すれば天皇家が万世一系だとか神統が一系などというウソが全部バレてしまう。
 昨日紹介した鹿島氏のインディアンの譬えでわかるとおり、支那人(多くの混血の結果としての支那人)が、自民族の歴史を必要としたところから生じたこのウソつき手法が、やがてあらゆる王朝でも採用され、ニセの史書としてゴロゴロと今も残る。

 現今の支那共産党もそれを踏襲している。国家のトップがこれなら、民族全体が嘘つきになるのも当然である。だから現在の支那の食品やら工業製品やらで偽造ばかりやる国民性を抜本的に直すには、自民族の恥ずべき歴史を全部ウソだったと告白するしかない。そうしないかぎり、小手先で偽造犯人を捕まえて厳罰に処したとしても、効果はない。

 われわれ日本人も天皇制の万世一系などというウソは、全部ご破算にしなければならない。そういうウソをウソと認めたくないと言い張るかぎり、日本の再生はあり得ない。

 林秀彦氏は『この国の終わり』(成甲書房)で、「荘子とプラトンはほぼ同時代である」とさらりと書かれている。しかし鹿島昇氏の見解はこうなる。
 荘子は、道教の始祖の一人とされているが、実はアリストテレスのことを漢字で書いたものだ、と。アリストテレスの先生にあたるプラトンは、列子と漢字で書いた。さらにプラトンの師ソクラテスは壷丘子林(コクリ)である。

 支那のこれら“学者”は、道教の説くところでは、「列子は列御寇といい、前五世紀に生まれ、壷丘子林(コクリ)を師として虚の哲学を学んだ。また荘子は荘周といい、前四世紀に生まれた」としている。要するに、列子、荘子などは、みんなギリシャの“哲学者”の焼きなおしである。だから林秀彦さんが荘子とプラトンは同時代と書いたのは間違いで、そもそも荘子はいなかったのだ。

 伝えられているところでは、ソクラテスは紀元前469年頃生まれで前399年没。プラトンは前427年〜前347年。アリストテレスは前384年〜前322年。
 一方、列子は紀元前400年前後の70年間に生きたと伝わる。だからほぼプラトンと重なる。荘子は不明ながらも前369年〜286年とされる。これもアリストテレスとほぼ重なる。重なるというより、重ねたのであろう。

 列子が創ったとされる故事成語で有名なのは、「杞憂」「朝三暮四」「愚公山を移す」「疑心暗鬼」などがある。プラトンが似たようなことを言っているのかどうか…。また、荘子で有名なのは、どなたも漢文でならっただろうが「胡蝶の夢」である。荘子は老子とともに彼らの思想が道教に発展したといわれる。

 では老子はといえば、二人の人物の合成だと鹿島氏は説く。
 孔子は老子に会って教えを乞おうとして追い払われているが、その老子は予言者サムエルがモデルである。『道徳教』を残したとされる老子は、イスラエルの北朝サマリア人の神官だそうで、この人物はアッシリアの捕虜となって支那に来たという。

 老子は儒教を嫌う。儒教は老子を嫌う。それはこの来歴を知ればおのずと理由が明らかになる。つまりもとの民族が違うのであろう。
 他に有名どころでは孟子がいるが、これはやはりレプカ人の予言者アモスという人物と、古代ギリシアの“哲学者”イソクラテス(プラトンに影響を与えた人物)を合成した人間である。アモスは北朝イスラエルの滅亡を予言したとして有名だそうだ。孟子は孔子と並ぶ儒教の祖であり、性善説を唱え、政治は王道でなければと説いたとされるが、そんなことはとうの昔にオリエントやパレスチナで頭の良い人間が説いていたのだ。
 
 こうしてざっと見ただけで、ギリシャ哲学といわゆる東洋思想とが、かなりその登場人物において重なることが見てとれる。ちなみに秦王朝=バクトリア王国は紀元前221年から206年までである。とはいえ、この年代ですら怪しい。全部支那人は歴史を捏造してわからなくしてしまうからだ。

 古代の支那に亡命なり遠征でやってきたオリエントの民族やユダヤ人は、漢土で、故国の歴史をなぞって、あたかも独自の歴史や思想ができたかのように繕ったのである。だから儒教や道教は、そういうギリシャ思想から頂戴した捏造の思想であった。その意味で、東洋思想などはウソっぱちである。

 私は先ほどからあえて“東洋哲学”とは書いていない。儒教や道教は哲学ではないからだ。せいぜいが思想である。その思想も最初は見てきたようにウソっぱちではあったが、長い年月を経るにしたがい、それらに騙されつつも「良く解釈しよう」との善意(?)のおかげで、それなりにギリシャ哲学とは相対的に独立して発展を遂げたのだと思われる。

 今回紹介した支那史が全部借史だった説は、にわかには信じられないかもしれない。私が紹介したのは、鹿島氏の本のごく一部である。詳しくは『孔子と失われた十支族』を読んでほしい、国家あるいは民族の興亡史からそれが豪快に説かれている。





posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする