2016年12月27日

幼児語と幼稚語の構造の違い


 昨日は言葉を話すのが遅い赤ちゃんの話題にしたが、今日は関連で、幼児語と幼稚語を取り上げたい。赤ちゃん言葉には2種類あって、どこがどう違うのかに関してである。
 親は赤ちゃんに1日でも早くしゃべらせたい、または歩かせたい、と願って、我が子の成長にやきもきする。その「這えば立て、立てば歩めの親心」はよく分かる。
 だが、「早く、早く」を焦って、無理に「歩行器」なんかを使わせてはいけない。ハイハイをするのも重要な赤ん坊の運動である。

 同じように、言葉であるがこれも急がせるあまりに「幼稚語」を親も赤ん坊も使うことは、慎まなければいけない。
 「幼稚語」とは、「おやすみ」と言うところを「おやちゅみ」と言ったり、「さよなら」を「ちゃいなら」、「いただきます」を「いただきまちゅ」と言う、あれである。

 しばらく前にダイワハウスのCMで役所広司が「ダイワハウチュ」と発音するものがあった。あれをCMのなかでは「噛んでいる」などと言っていたが、あれは噛んでいるのではなくて、大人が言うのはみっともない幼稚語である。不快なCMであった。
https://www.youtube.com/watch?v=mHekpwtmYMc

 赤ん坊が幼稚語をしゃべるのは、やむを得ない。まだ舌や唇の動きが正しい発音にならないからだ。いわば訛っている。
 これに対して「幼児語」とは、犬を「ワンワン」、自動車を「ブーブー」というがごときである。

 この件について、瀬江千史先生は『育児の生理学』(現代社刊)で、幼児語は積極的に使ってよろしいが、幼稚語は使わない方がよろしいと説いておられる。画期的な論考であった。
 幼稚語はできるだけ正しい発音になるように親が努めるべきで、かといって強制的に押し付けてはならないと述べている。

 一方で「ニャーニャ」のような幼児語は、表象レベルで対象を覚えやすくするためであるから、子供が言葉を覚えていく過程で必要な言葉なのだ、と。
 なぜなら、幼児語は対象の特徴を表現しているからで、その言葉から鮮やかにイメージを描くことができるからだ。
 イヌというより、ワンワンと言ったほうが、赤ちゃんは生き生きと犬の像を思い描くことができやすい。

 幼稚語は、子供がやがて正確に発音できるようになる過程で、まだ正しく発音できないだけのことで、それを親が一緒になって認めてよいわけがない。幼稚な言い方が定着しないように、親が正していく必要がある。
 赤ちゃんが「おやちゅみ」と言っても、親が「おやすみ」と正しく発音していれば、赤ちゃんはその発音を本物と理解して、努力して親と同じ言い方を意識して繰りかえすことになる。

 正しい発音を親が赤ちゃんに聞かせることが大事である。
 「幼稚語が完全に身に付いてしまいますと、劣等感の原因ともなり、今度はそれを直すのに大変な苦労をしなければなりません」と瀬江先生は説かれている。

 ちなみに私は我が子には「パパ、ママ」と言わせなかった。「おとうさん、おかあさん」であった。私自身もそう話した。それで話すのが遅れたわけではない。良い年になってもずっと「パパ、ママ」は幼稚語である。赤ん坊は初めは「おとうさん」ときちんと発音できずに「とうたん」「ちゃーちゃん」などと言うしかできないが、無理強いはしないが親はちゃんと言わせようとした。「パパ、ママ」と教えればいかにも若干早く言えるだろうが、それは幼稚語だからである。

 幼児語と幼稚語は世間では混同され、幼稚語は幼児語の中のひとつの形であるかに分類されているようだが、それは論理がわかっていないからだ。
 親は早くしゃべらせたい、「かわいいから」といった感じで特に育児上の問題として意識されない。新聞紙上の育児相談なんかでも、いずれちゃんとするから気にしなくていい、と無責任に語るセンセイもいるようだ。Wikipedia でも「幼児語」はあっても「幼稚語」の説明はない。
 もしかすると、幼児語と幼稚語をきちんと論理的に、かつ「人間とは何か」を踏まえて区別して説いたのは瀬江先生をもって嚆矢とするのではないか。

 「人間とは何かから説く」とはを瀬江先生はこう説かれている。
 「赤ん坊を含めて一般的に人間の行動は、『…しよう』という意志が出発点になっています。そしてこの意志は『したい』という欲望から生まれてきます」と。
 赤ん坊が言葉で話そうとする場合も、意志が出発点になっている。

 これが「人間とは」の一般論から対象の構造を解くということである。
 だからその意志を上手に母親が教育してやる必要があるのであって、大きくなれば誰でもしゃべるようになる、ふうな育児観では失格である。

 これは南ク継正先生が、『“夢”講義』の最後のほうで、しきりに「立つ」「歩く」がまともにできていないスポーツ選手は、ダメになるのが早いと説かれていたけれど、発音にしてもこの赤ん坊のときの指導のいい加減さがのちのちになって決定的な欠陥となるのである。

 例えば、大相撲ではなぜ近年日本人の力士はダメで、横綱になれないか、モンゴル力士が強いのかの謎の大本にこの「立つ」「歩く」のまっとうな訓練のあり方があるのだろう。
 発音のほうで言うと、安倍晋三首相の滑舌の悪過ぎるしゃべり方、日本のこころの党の中山恭子の「蚊の鳴くような声」も赤ん坊のときの親の教育がおそらくはまずかったのだ。

 作家の百田尚樹とか、チャンネル桜の水島聡のあの聴きにくいしゃべり方も、根源は赤ん坊のときの親の教育の失敗にあるであろう。

 以上で幼児語と幼稚語の違いの論考は終わりにして、以下は別件であるが、「『人間とは』の一般論から対象の構造を解く」に関わって一言言っておきたい。
 本ブログ2015年11月13・14日に掲載した「スジを通した音楽批評とは」について、いまだにしつこくコメントしてくるご仁がいる。同じ人間がHNを替えて投稿しているようだが、うんざりしている。

 ある音楽ブログを書いている知人に向けて、個人的に諭しつつ、かつ不特定の本ブログ読者に理解していただきたく、音楽批評をする場合のスジの通し方を説いたものであった。
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/428594001.html
 ところがこの音楽ブログを書いている人物は、自分がまともなスジを通した批評が書けないのに、人の文章を盗作だ、盗作だとしか言わないから、いささかたしなめたことであった。

 私に反論してくるコメントも、盗作はどうした! いいのか! とそればかり。私が主題としているのは、批評を書くにはスジを通そうとしなければダメだと言うのみ。それには「人間とは何か」あるいは「人間にとって音楽とは何か」の一般論を構築し、そこから個別の作品論、作曲歌論を展開しなければならないのである。

 そこを素直に学びもしないで、己れが優位と勘違いしている「盗作非難」にしがみつくのはみっともないことどもである。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(1) | エッセイ | 更新情報をチェックする