2017年01月31日

徴兵制を復活せよ(4/6)


《4》
 ここまでの「徴兵制を復活せよ」に関して、いくつか反論をいただいた。それにお答えしていきたい。

 「改憲して徴兵制なんて導入したら、ロックフェラーの金儲け戦争に日本の若者が強制連行される」や、「徴兵制を復活させれば、権力者にとって都合の良い駒が増えるだけ」という批判。それは私もブログで言及してある。おっしゃるとおりの危険性はあるが、それと徴兵制は別問題である。

 だいいち、若者が戦争に引っ張られなくとも、日本人全部、ないし世界中の人がロックフェラー、ロスチャイルド、イルミナティの、あるいは権力者の都合で貧しくされ、病気にされ、働かされているではないか。それはいいのか? その文句を控えておいて、軍隊だけがいけないと?

 国際金融マフィアの金儲け戦争に日本人が利用されると言うが、現在日本にちゃんとした軍隊がないのも、国際金融マフィアの策謀によって、ではないか。あればあったで、なければないで、利用はされる。端的には、軍隊がないから日本人は精神の牙が抜かれた。国際金融マフィアに抵抗しようという気概もなし。癒されることばかり求める。だからいいようにあしらわれる。そういうことを「徴兵制を復活せよ」で縷々述べてきたのだ。

 私が徴兵制や軍隊が国家に必要だと説いたのは、それが国家にとって必然だからで、他共同体との対峙こそが国家の原基形態だからである。国家論を多少なりとも学べば、国家にとって軍事力は必須であることが理解されるのに、再軍備反対、徴兵制復活反対の人は、国家論をまじめに勉強していないようだ。

 家だって戸締まりをして外出するでしょう。現金は金庫にしまうでしょう。警察は必要でしょう。海上保安庁も必要でしょう。税関も必要でしょう。暴漢に襲われたらかなわぬまでも防御しようとするでしょう。
 と、こうした例でわかるように、個人でさえ、あるいは小社会でさえ、他人を100%信用して無防備でいるわけがない。国家もそうである。

 安全保障抜きに国家は成立しない。だから徴兵制であれ志願制であれ、どの国にも軍隊がある。建前上、軍隊がない国は日本だけだ。これを異常といわずして何というのか。ロックフェラーの手駒にされるとか、権力者の都合で戦わされるという以前の問題だと、再三説いてきた。
 
 このことは、われわれが空手をやっているというと、きっと尋ねられることがあって、「暴力はいけないのではないですか」とか「なにも暴漢相手に闘わなくても、逃げればいいし、喧嘩しなければいいんじゃないですか」「危ないことをしなければ、危険な目にはあいませんよ」とか、私に言わせればずいぶんノンキなことを言う人がいる。あきれてモノも言えない。

 新聞の三面記事を毎日賑わす陰惨な事件は、自分には絶対に起きないと思い込んでいる。冗談じゃない。昨日殺された人も、一昨日殺された家族も、自分にだけはそんな目には合わないと信じていたはずだ。もし霊媒者にでも尋ねられるものなら、死者に聞いてみろって。自分はまさか殺されると思っていませんでした、と死者は答えるだろう。

 「徴兵制の資金源はどこから出ると考えているのか?」とか「兵士一人維持するのにも国民の税金が使われます。同じ税金を使うなら教育に使いたい」という指摘もあった。戦後、「日本人は安全と水はタダだと思っている」と名言をつぶやいた人がいた。たしか山本七平氏だったかと記憶している。安全にカネはかかるのだ。それと無駄遣いはやめろ、という話とは別である。それでは反対するあなたは、戸締まりのためのカギ代をケチるのですか? カネがかかるからドアもつけませんか?

 軍隊維持にはたしかにカネはかかるが、言ってみれば必要経費である。敵が(周辺国が)次々に重武装してこちらを攻めようと狙ってくるのだから、対抗上こちらも重武装するしかあるまい。こちらが裸になっていたら、向こう様は気の毒だからとか平和を愛する国民だからと、攻めてこないとでもいうのか? 近年は支那人や韓国人の強盗が入国してくる。北朝鮮は総連をつかって日本をダメにしようと謀り、拉致もしている。

 軍隊があってこそ、それが周辺国にとって脅威にもなるからこそ、平和が保たれているし、外交交渉が成り立つ。私は日本も核武装すべきだと思っている。それが世界の現実である。嫌も応もない。

 堂々、こういう人もいる。
 「私は戦争絶対反対論者です。よい戦争、仕方がない戦争などありません。戦争はどちらの国も国民が苦しむだけなのです。軍隊は持つべきではありません。しかし、攻めてこられたらどうするのか?私は個人武装を提案します。国民全部が武装しておく事です。全員が闘います。全員がゲリラになります。勝ちはありませんが絶対に負けません。究極の軍隊は国民全部が闘う事です」

 この人は、かつてのインカ帝国がどうやってスペインに滅亡されたか知らないのだろうか。インカだけではない、南北アメリカ、アジア、オーストラリア、アフリカなど各地で白人キリスト教徒によって、原住民の共同体や王朝は滅ぼされてきた。みんなまともな軍隊をもっていなかったからではないか。

 時代が違うということはない。今もアメリカやロシア、ヨーロッパの国、それに中国によって世界は好き勝手に痛めつけられているではないか。パレスチナもイラクも、アフガンもチェチェンもスーダンもウイグルも…。
 インカ帝国を例にとれば、彼らは平和俚に穏便にスペインの侵略軍や宣教師を迎えようとしたが、騙され、問答無用で殺戮され、女たちは白人の子を生まされた。戦争絶対反対、の結果はこうなる。チベットは支那に蹂躙されている。

 あるいはオーストラリアの原住民、アボリジニはどうした? 軍事力を持たなかったがために皆殺しにあっている。それでいいのか。日本にもし自衛隊ですらなかったら、アボリジニと同じことになっている。
 だから、現在紛争の耐えないシリアでもスーダンでもチェチェンでもいいから行って現地の人に「戦争をやめなさい。私は戦争絶対反対論者だ。よい戦争、仕方がない戦争などない。戦争はどちらの国も国民が苦しむだけだ。軍隊は持つべきではない。」と、そう言って説得してごらんなさいな。

 自分の同胞、家族、恋人、息子らが白人や中国の侵略者に殺されて、やむにやまれず武器をとって戦っている人たちが、納得して武器を捨てるとお思いか?

 それから他国に攻められたら、ゲリラになって闘う、個人で武装する、とおっしゃるが、何も軍事をご存知ない人がどうやって闘うというのか。ゲリラは便衣兵ともいって、国際法上まったく保護されない。正規軍なら投降することは一応許されるが、ゲリラはどうされても文句はいえない。つまり国際法上は違法な戦い方であり、単なる強盗とみなされる。

 だいいち、どうやって武器弾薬を仕入れるのです? 竹槍で抵抗しますか? 敵は機関銃やら戦車やら、ミサイルやら戦闘機やら、ありとあらゆる高性能の武器弾薬を大量にもち、よく訓練された兵隊がそれをもって侵攻してくる。軍事知識もなく、銃の扱い方すら知らない人が、どうやってゲリラになれるのか? 戦争はそんなに甘くはない。まして日本は島国である。どこへも逃げ場がない。

 かつてはヴェトナムが、今は自称イスラム国やパレスチナがゲリラ戦法をとっているが、それは陸つづきの支援国が周辺にあるからであり、シリアであれば周辺の同じ宗教の組織が支援する。しかし日本にはそういう国はない。仮に支那が攻めてきたら、同情して韓国や北朝鮮、台湾が支援してくれるとでも思うのか? そんなことが起きるわけがない。

 むしろ、日本人名を名乗ってなりすましている朝鮮人が多いだけに非常に危険である。ゲリラ組織に参加したいと言ってきた男が、日本名だから同胞だろうと思ったら、朝鮮人スパイだったという事例が必ず生じるはずだ。ゲリラの組織を維持することも、素人にはできない話である。敵のほうが訓練されているのだから。

 よくナチスの映画なんかでは、レジスタンスがやすやすと敵陣に潜り込んで破壊活動に成功する物語をやっているが、あんなものはフィクションである。敵が黙ってゲリラの跳梁を許すとでも思っているのだろうか。きちんと正規の軍事訓練をやったものでなければ仮にゲリラでもやれるものではない。
 
 何度も八切止夫の日本史を紹介したが、白村江の戦いでやぶれた日本軍は支那進駐軍に占領されたのだ。支那進駐軍が貴族となった藤原氏である。日本の原住民は支配者に従順になって仏教に帰依させられ奴隷にされた。抵抗した者は、山の奥地に逃げ込んだあげくに殺戮されたか、捕虜収容所である「別所」とか「印地」といわれる土地に囲い込まれた(被差別部落)。

 あるいは平安時代の天皇と藤原氏の失政で、地方の国司が過酷な税を取り立てて、困窮した百姓らが各地の寺社に逃げ込み、「無縁」の人となって仏教を盾に、寺社都市を形成し、生き延びたのである。貴族や武士の対抗勢力になった。これが日本の産業、文化、経済を育てたのだ。

 そういう本当の日本史を知っておかなければいけない。本当の歴史は隠されているのだ。なぜだと思いますか? これでも勝ちはないが負けもないなどと言えるのか。
 個人で武装すると夢物語を言う前に、例えばフィリピンではどうだったか、アイルランドではどうだったか、クルド族はどうなったか、アメリカインディアンは…と、世界の(隠された)歴史を勉強されることである。



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2017年01月30日

徴兵制を復活せよ(3/6)


《3》
 「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」という諺は、インテリからは反感を食らうようだが、間違いではないのだ。作家の三島由紀夫が文筆のかたわら空手、剣道、ボディビルなどで体を鍛えたことをもって、せせら笑ったインテリは多かったが、そういうテメエは酒に溺れ、夜更し朝寝坊でだらだらした人生しか送らなかった。三島由紀夫の場合は、肉体を他人に見せたい欲求から鍛錬した傾向もあって、あまり健全とは言えなかったが…。

 心とか精神なるものは、かってに肉体に宿るものではない。体が鍛えられていなければ、精神は宿らないこともまた確かなのである。問題はその鍛え方にあるのであって、体と直接に心も丈夫に健全になっていかなければダメなのである。その点で軍隊の訓練は良い。旅客機のパイロットも以前は自衛隊に入隊して飛行訓練を受けた。その体験者に聞くと、自衛隊では怒られっぱなしの殴られっぱなしで、青あざが絶えなかったそうだ。民間での訓練とは中身が違う。そういう訓練が現今の日本の若者に必要だ。肉体と精神の質が違ってくる。

 軍隊の軍事訓練というと、大砲や鉄砲を撃つとか、泥の中を匍匐前進するとかをイメージされるかもしれないが、そればかりではない。掃除、洗濯を自分できっちりやることや、大声での発音もいいし、食事を素早く食べることもいい、二年間たまの休み以外は娑婆に出られないこともいい。そういうもの全部をひっくるめて心身が鍛えられるから、私は徴兵して若者に軍隊生活をさせろと言っている。

 発音の大事性は以前本ブログで説いたから詳細は割愛するが、軍隊でも姓名申告や命令の復唱、気合、軍歌高唱など裂帛音での発音が強制される。これが頭を良くするのだ。われわれの空手でも気合、発音は重視していることはすでに述べた。きちんとした発音をするには、唇に力が入っていなければならない。それが空手の技の鋭さに直結する。

 旧軍では軍人勅諭などを暗唱させられた。記憶力も鍛えられるだけでなく、それをきちんと発音させられることにより、頭が良くなった。そのうえ40キロの重装備で行軍させられた。だから帝国陸軍は心身ともに鍛えられ、支那兵と戦って連戦連勝敵なしだったのだ。
 よくわれわれの流派での合宿で初めて参加する若者に、坊主でさえ体は鍛えている、と説かれたものだ。朝は4時から起床して、掃除、洗濯、炊事をやって体を動かし、食事は一汁一菜の粗食、それを5年も6年も山のなかで続ける。疑似軍隊生活なのだ。だから精神が鍛えられる。坊主でさえそうなのだ。

 もっとも、中世の寺社では仏教を修行する者(僧侶)より、雑務や借金の取り立てや、武士・他の寺社と戦争に従事する「行人(ぎょうにん)」や「聖」がほとんどで、僧兵を兼ねたから、日ごろ体も武術も鍛えていた。だから寺社では疑似軍隊生活だったのは当たり前だ。

 現在の日本では、思春期に限っても感覚器官が見事に発育する時期に、感覚器官が発育する訓練がなされない。その期間、受験一色か落ちこぼれた奴はバカみたいなテレビゲームでうつつを抜かしている。本当は大人になる前に手足の神経を運動形態として発育させて、脳細胞がその運動形態を受け取ることで運動形態として成長しなければならないのに、そうなっていない。

 だから遅まきながらではあるが、18歳くらいで強制的に青年を軍隊でしごきあげ、脳細胞が運動形態として成長する機会を持たせるべきなのである。
 さらにいえば軍隊は集団生活である。旧制高校の寮生活と同様、そこでは個性は許されず、集団がすべてである。すべては集団力が発揮されるように鍛えられる。

 それが人間本来のありかたなのだから、優れた教育になる。集団力とは、例えば10人が一つのことに力を合わせると、10人の力を加算した合計の力ではなく、掛け算した効果が出ることを言う。これはやったものでなければ理屈はわかるまい。

 ちなみに資本主義経済は、この集団力で上げた成果のプラスアルファ分を労働者に還元せず、資本家が総取りして儲けるシステムである。
 また、中世の寺社が隆盛を極め、今日にもその豪奢な佇まいを残しているほどにカネにまみれたわけは、僧兵等の集団力を使って「余剰資産」を溜めることができたからだろう。

 修行僧が行人らの上に君臨しつつ、お経を読んで暮らせたのも、祗園で豪遊ができたのも、集団力による富の蓄積ゆえであろう。

 野球でいえば、体力ではアメリカや中南米の選手に適わない日本選手であっても優勝したり、いいところまで勝ち進むのは、日本チームはひとつになって集団力を発揮するから勝てるのである。あれが選手一人ひとりの力の加算の結果ではなく、集団力という積算の力をどの監督も伝統的に引き出した結果であった。

 徴兵で軍隊生活を送れば、いやおうなくこの集団力をわからされる。それが日本の国力になるだろう。実際、明治維新から日本がすさまじい発展を遂げた原動力は国民皆教育と皆兵教育で国民を一つにして集団力を見事に引き出したからでああった。
 今は個性ばかり尊重されるから、この集団力が理解されない。

 サッカーでもW杯の全日本監督をやったオシムはそういう集団力のチームにしようとしていたのではないかと思われた。日本のスポーツ新聞で、代表チームにスター選手を求める傾向をオシムが批判していた記事を読んだ記憶があるが、オシムは正しいチームづくりをしていると思われたのに、病で倒れ残念なことをした。
 旧軍は集団力を発揮できるように兵を鍛えていたと思う。そうした良い点は民族として継承すべきなのだ。

 徴兵による軍隊生活の良いところは、まだある。男が二年間娑婆から隔離される。休みの日に外出は許可されるだろうが、おかげで男女の仲が遠ざけられることである。今は高校生、へたをすると中学生から男女が濃厚に付き合って、似非恋愛を繰り広げている。何度も本ブログで書いたが中・高校生で恋愛はできるものではなく、やってはならないものだ。

 今の若い人は恋を謳歌した映画やドラマ、歌謡曲の影響を受けて、そのマネでしかない恋愛ごっこにうつつをぬかしているだけだ。だが、男はいったん徴兵で軍隊に入れば、彼女に逢えない分、憧れはすさまじく認識に広がり、結果として心が豊かになる。彼女のほうも恋する男に恋いこがれつつ娑婆で暮らしているから、これまた憧れが膨らみ、心豊かになるのである。

 旧軍の若者たちが、戦場に赴くときに短歌を恋する人に遺していく、女も男への想いを短歌に託して贈る。そうした短歌が戦時中にごまんと詠まれた。それらを読めばわかるように、恋人どうしが逢えないからこそ見事な心が育まれる。現今の若者にそんな見事な短歌を創る実力はないではないか。

 軍隊のせいで男女が二年間引き離されることが、見事な恋愛の心を取り戻すチャンスになるのだ。否定の否定である。仮にそれで二人の仲が終わったとて、この世の終わりじゃあるまいし、次のまた豊かな心での充実した本物の恋愛をすればいいだけのことである。男は徴兵の2年で立派に成長して、彼女にふさわしい人間になろうとする。女は2年間、彼に逢えない分、がんばって立派になって除隊してくる彼にふさわしい女性になろうとする。

 そういう期間を国家がつくってくれるのだから、辛い2年間がありがたく思えるときがくるのだ。
 こういう耐える時期、つらい時期を持つことは極めて重要である。それがないから刹那的な、こらえ性のない親子殺し、兄弟殺し、恋人殺しが頻発する。耐えることを教育しないからだ。現代ほど軍隊教育で耐えることを国民に教えなければならないときはない。

 そうやって見事に耐える認識力とともに恋愛をする実力をつけた男と女が再び豊かな心で仕事や学業に復帰し、恋愛をし、結婚して生活をともにするようになれば、これまた子どもの育児、教育に計り知れない良い影響を及ぼすので、国家としても見事な文化の創造につなげていける。

 こうした徴兵制の長所を検討することもなく、徴兵制はあってもいいと発言しただけの知事を血祭りにあげるサヨクやマスゴミは、バカである。意見を述べること自体を言論規制ないし封殺するのだから、底知れぬバカだ。さぞやアメリカや中国、いやイルミナティがその策謀の成果にほくそ笑んでいることだろう。

 東国原発言にヒステリックな反応をしたサヨクよ、そしてテレビで東国原なんぞたかがタレントではないかと冷笑してみせたコメンテータどもよ、私が以上のように、軽く説いた徴兵制の長所(必要性)の論理に反論してみろ。感情的な戦争反対しか言えまい。




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2017年01月28日

徴兵制を復活せよ(2/6)


《2》
 さて、日本人は腑抜けである。支那、韓国、北朝鮮のほうが悲しいことに精神的強さを把持している。なにしろ向こうには軍隊がある。そして闘う精神を子どものときから叩きこまれる。日本にも自衛隊があるけれど、アメリカの下働きでしかない。
 人生は闘い、国家も戦いなんだから、それは何もゲバルトとは限らないが、闘う精神を創っておかなければ人生まともに生きていけまい。最近は何かというと「癒しを求めて」だ。バカ言え。

 韓国に旅行に行った人はみんな向こうの男たちが、体格がよく筋肉がつき、シャキッとしていることに驚いて帰国する。それにひきかえ、日本人の多くはメタボリックシンドロームで下腹がポッコリして、どこもかしこも(頭のなかも)ブヨブヨ。さもなければ骨と皮だけかと思うような瘠せ男。そんな男ばかりだ。昔の帝国陸軍歩兵は身長160センチもないのに40キロの重装備を背負って、延々何百キロと行軍した。そんな体力のある若者はほとんどいない。兵舎では起床のラッパで飛び起きて、軍装で庭に整列するまで2分でやったが、そんな俊敏な若者もいない。

 だから徴兵制を採用して、20歳前後の若者を1〜2年間くらい(せめて半年)軍隊で鍛えるべきである。体力、精神力、両方に効果があるはずだ。シビアな団体生活も良い。
 一度、本ブログで益田ドライビングスクール(島根県)を取り上げたことがある。この自動車学校は合宿制で、たった2週間の生活と教習で、だらしなかった若者がみんな立派になり、人に挨拶できるようになって帰る。家で親たちが「運転免許を取りにいっただけなのに、笑顔で挨拶し、すすんで掃除をし、整理整頓もできるようになった!ウチの子に一体何があったの?」と驚くそうだ。

 鍵山秀三郎氏は自動車用品販売のイエローハットの社長だが、彼は掃除の効用を説き、自ら徹底した掃除を実践している方である。掃除をすると人間が立派になるというのである。現代のだらしない若者には徹底して掃除をさせるといい。そのためにも軍隊でしごくのが良いのだ。軍隊で否応なく、集団生活をさせられる。それが脳細胞の激動になり、変革になるのだ。二年間の修行は無駄にはならないはずである。

 軍隊の鍛錬がいいのは、自分の生命や人生が社会のために生かされるのだという認識、すなわち社会的認識を叩き込まれることである。現今の日本の学校教育は文科省と日教組のアホどものせいで、子どもが個性大事と育てられ、社会的認識を持たされないで大人になってしまう。それを是正するためにも、徴兵制で若者全員を軍隊に叩き込んで鍛え直すといいのだ。そうすれば、社会という全体のなかの自分の人生であることが自覚できるようになるであろう。

 自分の人生は自分で切り拓くものであって、そのためにはそれなりの教育、鍛錬が必要である。現在はそれが受験かスポーツで代替されている。あんなものでは闘う魂ができない。
 武道を必修科目にしようという意見があって、それには反対しないが、今の柔道・剣道ではスポーツでしかないからダメだ。せいぜい識者の期待するとおりに礼儀作法くらいしか身に付かない。

 戦前の旧制中学にあった本物の柔道、剣道ならばよい。戦前の武道がまともで、スポーツではなかったのは、その先に軍隊があり、徴兵があったからである。軍人、兵隊をつくるために学校で武道を教えた。だから良かったのだ。世界に通用する偉人が輩出したではないか。
 現代の柔道、剣道、空手、合気を再生するためにも軍隊があるべきである。

 われわれの空手でも、それをスポーツとしてやったら闘う魂はできない。スポーツも武術もやる中身は同じであるが、やる精神がちがうのだ。軍隊というところは生命のやりとりがある場所なのだから、野球やサッカーで合宿生活するのとはわけが違うのである。
 徴兵制で、若者を全員軍隊に入れれば、なかには大けがをしたり、訓練中に生命を落とす者もでるであろう。それはやむを得ないことである。そのくらいの犠牲を覚悟しなければ国家がまともにならないという事態なのだから。日本に大きく欠けているのは闘う(戦う)心であり、その養成である。

 若者のなかには、オウム真理教のときもそうだが、宗教に憧れるバカな人間もいる。あんなインチキで心が癒されたいってのはどういう根性なのか。私の家の近所にも修道院みたいな施設があって、たしかに穏やかな顔をした修道女をよく見かけるが、見かけるたびに私には関わりがないことながら、気分が悪くなる。お前たちには自分の人生を戦いとは思わないのか、プライドはないのかと言ってやりたい衝動がこみあげる。人間の優しさだけにすがって生きたいという連中には呆れる。

 日本の自衛隊は、本気で戦う心構えができない「軍隊」である。遊び半分と言ったら彼らに気の毒ではあるが、なにしろ憲法が交戦権を否定しているのだから、こんなカタワの軍隊はない。あれではいざと言うときに戦えまい。あれだけの装備を誇っていてもたぶんインドネシア軍と戦っても負けるだろう。

 そういうなかでもなんとか戦う魂を創ろうと頑張っている人たちが自衛隊にもいることはわかっているが、本質がアメリカ軍の下請ではどうにもならない。惨め極まる。東国原が徴兵制賛成という発言をしたら、即刻に同感だという意思表示をする自衛隊幹部はいないのか?

 念のために言っておくと、徴兵制復活は憲法改訂(すなわち9条廃棄)とセットであるべきだ。憲法9条は廃棄しなければならないが、それはアメリカのための改訂であってはならない。
 9条を守れという立場が、アメリカのために戦争に引きずりだされるのは反対という気持ちは私も同感ではあるが、それでもやはり9条は撤廃しなければならない。私は何がなんでも戦争はいけないという立場にはない。

 いつでも国家の大事のときには戦える軍隊は必要である。国家がまともにならない。国民がまともにならないからだ。国家とはそもそも共同体における他共同体との対峙から誕生したからである。そんな基礎知識すらないサヨク・インテリが何を抜かすか。こんな軍隊がない体たらくの国は日本だけではないか。
 日本以外の国で、大統領なり首相なりが国家の交戦権を放棄し、アメリカの奴隷となって言いなりになりますと言ったなら、絶対に国民に倒されるだろう。ところが日本では多くの国民がそれをよしとしてしまう。

 卑近な例でいえば、もし巨人の監督が、巨人は毎年最下位でいいんです、阪神や中日の二軍に甘んじますと言ったら、ファンは許すのかよ。そんな監督は即クビだろうが。野球でさえそうなのに、左翼マスゴミやリベラル政治集は軍隊のないテイタラクな国でいいんだと言いきる。誰もが、アメリカとの戦争に負けて今や植民地以下の国にさせられている現在をまじめに認識していない。われわれの誇りや自立を考える人がいなくて、ただひたすら再軍備反対、戦争反対だ。

 私ははっきり言って戦争一般に反対なのは当たり前なんであって、それは言っておくけれど、しかしやらねばならぬ戦争はあるし、そのために軍隊はなければならず、戦えなければならないと考えている。戦争をすれば犠牲は出る。しかしそれでも国家の誇り、自立のためには犠牲はやむを得ないと決断するしかない。
 国家なしに人間は生きられないのだ。そこがひたすら戦争反対のボケどもには理解できていない。国家なんかいらないなどとほざくバカがいるとは。国家なしで生きてみろ。できやしないのだから。



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2017年01月27日

徴兵制を復活せよ(1/6)


《1》
 2017年は日本が世界を救う年になっていかねばなるまい。その流れで日本の軍事力の増強を世界は待っている。 
 日本の軍事力だけでなく、日本人そのものを世界は待っているのだ。だから、と私は再三言ってきた。われわれは徴兵制を復活させるべきだと。

 徴兵制を、と言っただけで日本では極右と言われる。政府すらが徴兵制は人権を損なう奴隷的苦役だと言うし、中には徴兵制で集めた兵では現代のハイテク化された兵器はおいそれと使えないのだから、意味がないという見解を述べる向きもある。
 私はあくまで現代の徴兵制は教育の一貫として行なうべきだと主張している。「武」の魂を取り戻せというのみ。

 たまたま昨年暮れに、日下公人氏の新刊『新しい日本人が日本と世界を変える』(PHP研究所刊)を読んでいたら、以下の文章に出会った。
 英国のチャーチルは海軍大臣になってからせっせと英国海軍を近代化し増強していった。艦船の燃料を全部石炭から石油に替え、そのためアラブの油田確保のために会社も設立し、航空部隊も新設した。ドイツと対抗するためだった。

 「恐るべき先見の明だったが、それでも、一九四〇年代の日本海軍航空隊には惨敗した。
 日本はそれを東宝が『ハワイ・マレー沖海戦』という映画にしてアジア各地に配給した。南下する海軍航空部隊83機の映画を台湾の人と観たことがあった。プリンス・オブ・ウェールズとレパルスのイギリス戦艦2隻を雲の下に探して、“まだか、まだか”と日本海軍機は南へ飛ぶ。

 『もう引き返さないと、帰りのガソリンがありません』とパイロットが何回も言ったとき、指揮官は『帰ろうと思うな』と答える。
 映画館いっぱいの台湾人がどよめくのを聞いて、私は『これがアジアの人に与えた日本人の決死の覚悟だったのだな』と思った。
 このときから日本人はアジアの人たちから、『ビッグブラザー』あるいは『マスター』と呼ばれるようになったのである。それは今も続いている。」


 こういう核心をついた洞察をする評論家も歴史家もほかにいない。みんな自虐に凝り固まっている。GHQの言いなりになっているバカである。
 私も正月に久しぶりにDVDで『ハワイ・マレー沖海戦』と見直した。非常に優れた歴史に残したい映画であった。日本人はみんな色眼鏡をはずして観るべきである。
 日本は決して侵略したのではないことが良くわかる。
 
 とりわけ、予科練航空隊に入って鍛えられていく若者の姿には感動する。これを観てもなお、徴兵制は悪いとしか考えないなら救いようがないバカである。
 世界の人たちは、あの予科練で鍛えられるような日本人に期待しているのである。

 戦後、野間宏や大西巨人などの左翼作家が日本陸軍の内務班は地獄だったなどと書いたせいもあり、また先の戦争が悲惨な負け戦だったこともあって、軍隊嫌いが日本人に染み込んだが、残念なことである。
 『ハワイ・マレー沖海戦』は海軍の宣伝映画ではあるが、にも関わらず、それだけにとどまらない日本の良さを表出していた。

 私自身は、学校では軍隊経験のある教師からは軍隊は地獄だったと聞かされるが、家では父が楽しかった軍隊生活を語ると言ったあんばいで、困惑し、かつ本当のことに興味を覚えたのである。
 そして、空手をやってやっと、本当のことを理解したのだ。だからこそ、真剣に世界のリーダーたる日本人にするには、徴兵制は必須だと確信するに至った。

 本稿は、以前に書いた「徴兵制復活論」を大幅に修正を加えて再録するものである。

 タレントの東国原英雄が宮崎県知事のころに、徴兵制に賛意を示したことがあり、「お、良いことを言うじゃないか」と思ったその途端にマスゴミを中心にバッシングが起き、彼自身腰砕けとなり、不適切な発言でしたと謝罪してしまった。信念を貫けばいいのに。

 東国原知事は「僕は徴兵制はあってしかるべきだと思っている。若者は1年か2年ぐらい自衛隊か、ああいうところに入らなければならないと思っている」と述べ、さらに報道陣にも「徴兵制や軍隊とは言わないですけど、若者にはある時期、規律がきちんと身につくような教育が必要だと思う。そういったものの欠落が、今の社会の道徳や倫理観の喪失につながっている気がする」と発言の真意を説明していた。

 物足りないが、サヨクよりはまともだった。ただし、彼には「武」の魂がわかっていない。

 私はかねてから国民の徴兵制はあってしかるべきだと思っている。第一は有事に備えるためであるが、そんなことは当たり前だからとくに述べない。また国家としての目的については、以前本ブログで「靖国を日本文化の高みに」と題して、以下のように述べたことと同じである。
 「靖国を思想の高みで捉えなおすとは、第一に、首相が靖国に参拝する意義は、国民をして国家の一員、あるいは日本という社会の一員たることを改めて意識させること、これである」と。
 徴兵制復活はこの靖国の捉え返しと同様に国民をして国家の一員たると意識させつつ日本文化を高みで捉えることだと思っていただきたい。

 徴兵制は徴兵制なのであって、それだから海外侵略にも軍国主義復活にも当たらない。単に戦争への備えである。
 けれど、サヨクは徴兵というと即人殺しと短絡する。ほんとに頭が悪い。徴兵制にすべきなのは、若者の脳細胞の変革のためである。幼児のときから塾通い、テレビゲームで過ごしてきて、現実の生の社会や自然を反映する能力が育っていないのだから、男も女も一定期間徴兵して、軍隊式に鍛えあげるのが最上である。

 暴力反対、戦争反対とさえ言っていれば平和、安全でいられるとサヨクどもは思いこんでいる。どこか治安の悪い繁華街に行って、札ビラを両手にもって散歩してみろ。無事ではすむまいに。チンピラに取り囲まれたときに「自分は平和主義なんです、無抵抗だから助けてください」と泣訴して、相手が「ああわかった」と言って見逃してくれるわけがない。それと日本が中国や韓国などの周辺国に囲まれて直面している事態と同じ構図だ。

 今の日本が支那や韓国に戦争を仕掛けられないのは、日本がアメリカの属国だからで、いざというときにアメリカがどう出るかわからないし、まがりなりにも自衛隊があるからだ。国家に武力は必要である。そして個人にも闘える力は必要だ。
 だいたい徴兵制は戦争への道だというならば、空手や剣道をやる人間はみんな暴力をやみくもに振るう人間なのか? 備えあれば憂いなし、有事のために人は武道を習い、国は軍隊を置く。それだけのことだ。

 そもそも日米安保条約の中身を政府は国民に教えていない。あれは日本国内にあるアメリカ軍の基地や施設が攻撃されたら、アメリカは日本領土の中で戦うぞ、というだけの条約である。アメリカは日本本体というか、米軍基地以外のところが攻撃されたって、知った事ではない。日本国民のために血を流す約束はない! 常識で考えたって、そんな高貴な(?)犠牲をあの性悪のアメリカ人がするわけがないじゃないか。

 もしこれこのとおり条文に書いてありますというなら示してみろ。どこにもそんな文言はないのだ。それをかつて小泉純一郎は、「アメリカは日本が攻撃されたら、自国が攻撃されたと見なして戦ってくれる唯一の国だ」などと大ウソをついた。そのウソをマスゴミは咎めない。だからそれを根拠にアフガンやイラクに派兵(支援)することにしたテロ特措法は無効である。と、民進党も社民党もなぜ言わぬ?
 



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2017年01月26日

韓国崩壊を予測する(2/2)


《2》
 昨日冒頭に書いたが、一昨年末に慌ただしくアメリカの要請で日韓合意がなされたのも、なにがしかの計算、つまり安倍首相の深謀遠慮があってのことだったかと思わせるものがある。韓国が話を蒸し返し、日韓合意を破棄しようとゴテるのは明らかだったから、それを計算のうえで韓国を追い込む目論見があったのかも。

 安倍首相の目論見としては、日韓関係が一気に悪化すると、民進党や共産党は追い詰められる。
 日韓が断交に近い状態になるとしたら、国民は圧倒的に韓国を嫌っていて、政府の対抗措置を支持するのだから、総選挙を今年中にやれば、サヨク野党は惨敗する。

 それに衆議院選挙でカネがかかるところへ持って来て、いつものように韓国のサヨク反日勢力に資金援助しているどころではなくなる。なにせ、合意を踏みにじったのは韓国なのだから、いくらなんでも民進党・共産党は政府を一方的になじるわけにはいかない。それをやれば確実に票は減る。
 またこの対応を巡って、民進党と共産党は意見が合わず、互助選挙が難しくなる。で、ますます自民党有利になっていく。

 メルマガ「週間アカシックレコード」の佐々木敏氏は、長年、中朝戦争が今にも起きると言い続けてきて、ついにその事態にはなっていないけれど、彼の予測が本物なら中朝戦争とのからみで、朴政権のレイムダックはアメリカが工作したというのもあり得る話ではある。
 中朝戦争が起きれば、韓国人はいいチャンスと妄想して「北進」を叫びだしかねない。韓国軍がもし38度線を超えたら、北からソウルにミサイルが浴びせられてたちまち火の海にさせられ、まさに経済崩壊である。そうならぬよう、朴政権をスキャンダルで追い込んで、中朝戦争に介入させまいとするのが、アメリカの方針である。

 その準備として日韓合意もあったという話である。
 こういう計算を安倍首相が2015年末にしていて、仕掛けた罠ならたいしたものだ。
 日韓合意の仕掛けが、日本国内サヨクの滅亡にあった…かもと考えるのを置いておくとすれば、今度の釜山での偽慰安婦像設置の嫌がらせ事件は、北朝鮮の工作の可能性が高い。
 
 またパククネ失脚と次の権力奪取を狙った韓国政界の何人かによる工作であろう。次に候補者として出ると表明している政治家は、全部これまで以上に反日だそうで、それを表明すればするほど国民の支持をうけて大統領になれるだろう。おそらくその反日勢力は、日本政府の対抗措置を歓迎しているだろう。

 日本政府と国民が対抗措置をとるほどに、韓国の国民も激しく怒るから、「オレに有利になる」と考える。いかにもそれで強硬反日大統領が誕生するだろうが、日韓は国交断絶になって、経済が崩壊するにちがいない。
 アメリカはトランプが大統領になり、これからは韓国がどうなろうと知ったこっちゃないになる。

 支那も経済崩壊の真っ最中で、韓国を助けてくれない。もともと支那人が「人助け」なんかするわけがない。
 日本だけが頼みの綱だったのに、自ら蹴飛ばしてしまう愚挙。早く来い、来い、日韓断交〜♪

 日本には本当にいい迷惑だが、つくづく民主主義も怖いものだと思わざるを得ない。民衆が狂気にかられると、国家の行くべき道を誤らせる。
 この先どうなるか。日本から断交は言い出すまい。韓国で大統領が決まるまでは動きはあまりないと思うが、新大統領が極左だと、向こうから断交、在韓日本人追放、禁輸品増大などの手を打って来る事態に発展しかねない。

 と同時に、ザイニチが動き出して、日本の都市でテロや暴動が起きるかもしれない。アメリカ在住の日本人の子供が韓国人にいじめられる事態は増えるだろう。
 そうなると、韓国財界は窮するし、韓国軍隊も放ってはおけなくなる。クーデターの危険性も出て来る。

 そもそもの慰安婦問題の発端は、池田信夫氏が解き明かすのが本当なら、朝日新聞の一部記者や左翼政治家が金丸訪朝団で湧いてきた北朝鮮への1兆円のプレゼントに関わって、利権を漁ろうとした連中が、デッチあげたものだったのだ。
 この事に関しては、2015年11月1日付けの本ブログで紹介した。
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/408108351.html
 
 ことの発端は、日本の左翼弁護士(福島瑞穂、高木健一ら)と朝日新聞記者の一部が結託し、日本政府に「従軍慰安婦」の存在とそれが強制連行だったことを認めさせれば、国家賠償の道が開ける。

 1人でも認めれば、「性奴隷」だと騒ぎ立て、男の労務者の連行より世界の耳目が集まる。そこで弁護士どもが韓国元慰安婦を唆して訴訟を起こさせる。そうなれば軍と雇用関係のなかった女性に賠償したら、当時の相当数いた労務者(朝鮮人軍属)すべてに日本政府は賠償せざるを得なくなるわけだ。

 こうして朝鮮人の賠償訴訟によって、日本の弁護士も朝日の記者もオコボレをいただける。それが狙いで捏造がくり返し行なわれ、韓国人も信じてしまい、大火事になった。
 つまり池田信夫氏が暴露したのは、朝日の狙いも福島瑞穂らの思惑も、慰安婦ではなく「国家賠償によるカネ儲け」だったという大発見だった。

 その発端の汚らしさが、ついにこの日韓の極度の緊張を生んだのだから、なんとバカバカしいことか。

 もう一つオマケ。
 昨年末に安倍首相は、大統領に当選したばかりのトランプと私的に逢って会談したが、中身は秘密。さらにプーチンとも親しく(?)会談したが、これも中身は良く分からなかった。
 もしかすると、2017年に激震を迎える日韓関係を予めアタマに入れさせようとしたのかもしれない。
 
 媚中・副島隆彦は安倍がまだ大統領就任もしていないトランプに会いにいったことを、属国の下僕がご主人様にシッポを振って、朝貢外交しやがって、などと罵声を発していたけれど、現代はもうのんびり大統領就任セレモニーを待っているわけにいかないほど、変化が激しいし、先手を打っていかなければならないのだと分かっていない。

 トランプが就任前にすでに、矢継ぎ早にトランプはオバマをどかすように仕事を始めている。その時代の流れのスピードアップに、アタマの古い副島や日本マスゴミはついていけていないだけのことだ。

 安倍首相はトランプに会って、2017年初頭から日韓関係に重大局面が出来する、それはアメリカ前政権と示し合わせての日韓合意だったのであり、これによって韓国と日本のサヨクを潰すことで、より強固な日米韓の同盟が完成する。日本も改憲、再軍備への流れを加速できる、それがアメリカの国益にかなうのです、というような説明をしたのかもしれない。

 もしそうなっていったら、私は拍手喝采だ。2015年の日韓合意は、個人的には反対であるが、これはポーカーゲームと同じだから、負けたと見せかけて騙したり、あるいは騙されたふりして勝つなどの流れになるのだから、感情だけでいきり立ってもダメだとブログでしたためておいた。うまくその通りになれば、万歳だ。






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2017年01月25日

韓国崩壊を予測する(1/2)


《1》
 この年末から正月にかけて、韓国・釜山の日本総領事館前にウソ慰安婦像(偽少女像)が設置されたことで、日韓関係は重大な局面を迎えた。
 日本政府は1月6日、韓国・釜山の国際法違反行為への対抗措置として、
(1)駐韓日本大使と在釜山日本総領事の一時帰国
(2)日韓通貨交換(スワップ)協議の中断
(3)ハイレベル経済協議延期
(4)総領事館職員による釜山市関連行事への参加見合わせ
の4項目を発表した。

 これはまずまず評価できる措置である。今度もまた日本政府は、ただ「遺憾」とだけ言ってごまかすのかと思っていたら、意外に強硬で驚いた。とくに一時帰国とは言え、大使と総領事の帰国は素晴らしい。韓国をあわてさせるだろう。
 ウィーン条約違反、と日本側にピシャリと言われたら、返す言葉がない。

 2015年暮れの日韓合意のあと、こうなることをおそらく安倍首相は読んでいただろうから、もし10億円拠出という肉を切らせておいて、1年後に向こうがミスをすることで逆に骨を斬られる事態になることを誘ったとすれば、たいした手腕である。「釣り野伏せ」戦法であろうか…。

 大使と総領事の同時一時帰国などの対応は異例で、韓国側は「対抗措置に驚いていた」というが、例によって、韓国側は日本側の措置は遺憾であると返答していた。
 韓国メディアは、政治問題なのに、経済で締め付けるのは違反だと狼狽しているようだ。

 日韓両政府は一昨年12月の合意で慰安婦問題を「最終的かつ不可逆的に解決」と確認。日本側は10億円拠出など着実に履行しているが、韓国側はソウルの日本大使館前と釜山の日本総領事館前の慰安婦像設置を黙認している。
 黙認というより、政府が承知のうえでやっているだろうし、日本の左翼政党などが資金を提供してやらせているのだろう。だから、あ〜ら不思議、日本の民進党も共産党も、無言。

 毎日新聞は、「韓国側も日韓合意を履行する姿勢は崩していないが、政権の弱体化で身動きが取れないのが実情。しびれを切らした日本側は対抗手段に打って出たものの、日韓合意を巡るきしみが新たな段階に入ることは避けられず、両国政府が対応に苦慮する局面は長期化しそうだ。」(1月7日付)と書いた。

 この毎日新聞の書き方は、見事に「他人事」のようである。客観的報道が報道一般としては正しいにせよ、これは明らかに韓国側が卑劣なのであり、日本国民も怒っている。だが、毎日も朝日も、反日新聞は急に良い子ぶってしらっと客観的に振る舞う。一言も、約束を破った韓国政府が悪いとも、国際条約違反だとも言わない。

 ちなみに偽少女像は、ソウルの日本大使館“前”、釜山領事館“前”に設置されたのに、朝日新聞はなんと“近くに”設置された、と書いていた。せこいねえ。なんとか韓国をかばいたい思いが露骨である。大使館の目の前に嫌がらせで設置してあるのに、「近く」とは何事か。だが言葉としては「近く」には間違いないので、記事としては誤りではない、こういうことをやるから、朝日も毎日も嫌われるし信用をなくす。

 読者が気づかないと高をくくって、微妙に韓国の肩を持つ。こういう事態を出来させたのは、朝日新聞が「従軍慰安婦」を捏造したからである。その一片の謝罪もない。火のないところに煙をたて、それを火病の韓国人に焚き付けて大火事にしてしまった責任を感じないのか?
 
 話を戻せば、毎日新聞の「日韓合意を巡るきしみが新たな段階に入ることは避けられず、両国政府が対応に苦慮する局面は長期化しそう」とはいったい何たる書き方だろうか。この問題がまったくのウソから出たことも、韓国側がそれを反日の材料に使ってきたことも抜きにして、良くも平気で「きしみ」などと表現できたものだ。

 朝日も毎日も、客観的な記事を書いている、と言いたいのであれば、韓国が法治国家とは言えないことをきちんと書かねばならない。
 ウィーン外交関係条約第二十二条2項とは以下のものだ。
 「接受国は、侵入又は損壊に対し使節団の公館を保護するため及び公館の安寧の妨害又は公館の威厳の侵害を防止するため適当なすべての措置を執る特別の責務を有する。」

 接受国とは、受け入れ側の国であって、今の場合は韓国を指す。
 日本政府は、割と最近になって(確か民主党野田政権以降)、ウィーン条約を持ち出すようになった。それまでは、偽慰安婦像の設置は、日韓両国民に好ましくない関係をつくるから…、みたいな曖昧な表現で腰が引けていた。
 これに関して韓国政府は反論できない。あれは民間が建てたものだから介入できないと詭弁を弄して逃げているだけ。

 だから朝日も毎日も、韓国政府の不実を指摘しなければならない。なのに、そもそもテメエ等新聞が、捏造を垂れ流した責任には触れないどころか、日本政府はこう言い、韓国政府はこう言っていて、関係がきしんでいます、と書くから、まるで他人事のようだと言うのである。

 韓国側は、日本政府の措置のうち、日韓通貨交換(スワップ)協議の中断が最も深刻にこたえるのではないか。スワップという言い方はまやかしで、日本が一方的に杜撰な経済をやらかしてきた韓国を救う措置なのだから。韓国経済は差し迫って危機に見舞われているのだから、日本からドルの融通が来ないとなると、国家経済の破綻にまたしてもみまわれる。だから当然、「中断」ではなく、「打ち切り」「二度と交渉しない」と言うべきであった。

 大統領選なんかやっている場合じゃないないのに、大変な混乱になる。加えて1月4日には、ごく少数とはいえ、在韓米軍は軍人家族の沖縄への脱出訓練を実施した。名目は北朝鮮軍の侵攻に備えた訓練と言われるが、案外、韓国自体の騒乱を予知しての準備かもしれない。



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2017年01月24日

カルトが左右する日本政治


 通常国会初日(20日)、蓮舫は国会に和服姿で登場した。ひどいねえ、似合わないねえ。二重国籍問題を意識してだろうが、日本人を装う着物のあざとさ。肩の紋様は入れ墨みたいで、極道の妻って感じ。

 民進党蓮舫代表は、普通なら嫌われるタイプの女だと思う。目立ちたがり屋、中身がないのに吼えるだけ吼える、自分を美人と自惚れている、しゃべりが滑らかなのをアタマが良いと勘違いしている、コケティッシュである、嘘つき、などであろうか。
 ごく若いころ、グラビアアイドルとして登場した女だが、何の芸もないから裸になって見せはしたが、「お前、よくその体で脱いでみせたな」と驚きをもって見られたことだった。

 世間に名を売りたい一心で裸になった軽薄な女である。裸でマスゴミにデビューした女、の称号は一生ついて回るのに、アホだねえと思っていたが、なんと後年、サヨクの政党から議員になったのには驚かされた。
 今年50歳になるにしては、確かに若々しいが、相当お肌の手入れなんかにカネをかけているのだろう。そういうこと自体、嫌う男が多いと思うが、なんでも若ければいいと涎を流す男がいるから、困ったものだ。

 私なんか、大嫌いな女だが、蓼食う虫も好きずきで、選挙で投票したり、党内で代表に選んだりするおバカがいるのはしょうがない。
 さはさりながら、昨年の参議院選挙で蓮舫の獲得票数は112万票にものぼり、東京選挙区でトップ当選している。

 東京選挙区の公明党の候補だった竹谷とし子は77万票であった。公明党ははっきりしていて、都内にはこれだけの公明党支持者すなわちソーカ信者と同調者がいるということだ。
 さてそれで、蓮舫の支持母体はというと、これが立正佼成会なのである。

 なんで蓮舫が選挙で圧倒的な強さを発揮するのか、不思議でならなかったが、私は真相を井上太郎氏の『豊洲利権と蓮舫』(青林堂刊)で知った。やや長くなるがそれを紹介する。

     *     *

 レンホウ氏は言わずと知れた立正佼成会の看板議員なのです。立正佼成会はもともと自民党支持母体であり、自公連立によって反創価学会感情から自民党と距離を置くようになったという経緯があります。
 創価学会以上の宗教パワーを発揮し、創価学会以上の結束力で政治を動かすのが新宗連(財団法人・新日本宗教団体連合会)という団体です。新宗連は、その名が示す通り宗教教団の連合体です。第2次大戦中に当局の宗教弾圧を受けた経験を持つ教団などが「信教の自由」と「政教分離」を掲げて昭和29年に設立した連絡組織です。

 立正佼成会(約409万人)。PL教団(約98万人)、崇教真光(約80万人)、円応教(約46万人)を始め、70教団が加盟し、現在の信者数は公称1200万人にのぼります。

 創価学会が公明党を結成して政界で勢力を伸ばした昭和35年頃から政教一致問題を厳しく批判し、それから半世紀近くにわたり、「反創価学会の宗教団体の砦」として学界側と対立してきました。設立当初に加盟していた世界救世教、生長の家、真如苑などはその後、教団の分派問題などで脱会しましたが、信者の規模からいっても創価学会(公称827万世帯)に匹敵する組織と言えます。

 創価学会と新宗連との宗教戦争の天王山が、政権交代をした衆議院選挙でした。新宗連はそれまでの自公連立を批判しつつも、加盟教団は歴史的に自民党議員とのパイプが太く、選挙では自民、民主に“二股”をかけてきました。
 しかし、10年間に及んだ自公連立で創価学会の政権への影響力が強まっていくことに危機感を募らせ、総選挙では一挙に政権交代へと動いたのです。

 つまりあの政権交代となった衆議院選挙は、新宗連によって実現したのかもしれないのです。
 新宗連としては総選挙でどの党の候補にも正式な推薦は出していません。
 (中略)

 政権交代が実現すると、新宗連は民主党支持をいっそう鮮明にしました。今年(平成28 2016年)7月の参院選挙では比例代表で藤末健三、白眞勲、喜納昌吉という旧民主党の三人だけを推薦しました、選挙区においては立正佼成会が大阪の尾立源幸と東京のレンホウを支援に力を入れました。

 今回の都知事選においては、立正佼成会は積極的には動いてはいません。いくら民進党といってもさすがに鳥越ではなく、自公と対立した小池氏の支持となりました。公共での立正佼成会の基礎票は70〜80万票と言われています。今回の参議院選でのレンホウの獲得票数は112万票でした。1回目が92万票、2回目が171万票です。

 立正佼成会の基礎票を除くと前回平成22(2010)年の参議院選が異常な人気というだけで、立正佼成会の基礎票がなければ当選などおぼつかないのです。ですから仮に衆議院に転出しても立正佼成会による衆議院の基礎票では厳しいと予想されます。レンホウのご主人が数年前に目黒区議選に出馬したことがありました。レンホウの人気でと、ここでも勘違い女を発揮しましたが、立正佼成会の支援などなく惨敗でした。

     *     *

 なんだそういうことかと、驚くとともに、やりきれない思いを抱く。一言この井上太郎氏の本のことを言っておくと、『豊洲利権と蓮舫』はウソである。蓮舫が豊洲利権に関わっているという話は一言もない。豊洲利権の話と、蓮舫の話とそれぞれ少し入った本であるだけ。というより本の半分は共産党の真相暴露本だ。読者を騙すタイトルを付けるのは良くない。

 しかも表紙が、蓮舫の選挙ポスターみたいで、蓮舫が満面の笑みで握手しようとしているところを持ってきている。これでは蓮舫を高く評価しているような印象を受ける。
 さて、蓮舫がなぜ選挙に強いのかの謎が簡単に解けたわけである。
 と同時に、政教分離を壊したあの連中への憎悪が湧いて来る。
 あの宗教団体のせいで、日本は壊されたのだ。

 引用にもあるように、カルト教団はいまや政治に深く関わり、政権交代まで実現させてしまう力がある。これでは愚劣な憲法が変えられないわけだ。カルトはなにせ現実から判断せずに、「思い」で判断する連中だから、九条があれば平和だとの「思い」で決めつけてしまう。
 よって、自民党だろうが、民進党だろうが、議員は宗教団体の票がほしいから、個人的には現行憲法がダメとわかっていたとしても、支持層の言いなりになるほかない。

 それにカルト教団は、ザイニチが入り込んでいる。ザイニチの意向で政府に圧力が加わる。例えば日韓合意で10億円を韓国にくれてやるに際して、ザイニチは当然、宗教団体を通して政府に自民党議員を当選させたかったら、言うとおりに10億円払えと圧力をかけるであろう。むろん、闇の中であるが。



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2017年01月23日

『帰ってきたヒトラー』に見る世界の流れ


 昨年2016年は、リベラル主義の敗北の始まりの年ではなかっただろうか。今年はその動きが一気に進む予感がする。面白い年になりそうだ。
 イギリスの国民投票でEU離脱が決定したこと、トランプがアメリカの次期大統領に当選したこと、フィリピンに暴言王ドゥテルテ大統領が現れたこと、がその“兆候”の最も顕著な出来事だったろう。

 歴史上いつから始まったかは私には判然としないが、少なくとも大東亜戦争で日本がアジアの植民地を“解放”し、その流れがアジア、アフリカへと伝わって、ついにヨーロッパは名目的にはすべての植民地を失った。
 植民地支配、あるいは奴隷支配に代わって、ヨーロッパはグローバリズムを標榜しはじめ、リベラルの主導が始まったのだと思う。

 そのために、ナチズムや日本軍国主義が利用され、ナチのユダヤ迫害や日本の支那侵略、南京虐殺、「従軍慰安婦」が捏造され、それらの悪と戦って勝利したのが欧米の民主主義であり、リべラル思想だったという正当化=欺瞞が創られていった。
 それに同調していまだにしがみついているのが日本のサヨクである。

 政治的にはソ連など共産国と西側民主主義国の対立、経済では金融のグローバリズム化が求められていった。
 この流れが、ついに破綻したというか、終わりが昨年に顕著になってきたのだと思う。

 『帰ってきたヒトラー』(原題は「彼が帰ってきた」)2012年にティムール・ヴェルメシュが発表した風刺小説である。現代のドイツに蘇ったヒトラーが巻き起こす騒動を描く。ドイツではベストセラーになった。2015年に映画化され、日本での公開は昨年だった。ヒトラー役の俳優が名演技を見せる。面白い映画だった。
 
 物語は1945年に死んだはずのヒトラーが生き返り、ベルリンの街に現れる。大衆はむろん本物と思うはずがなく、「すごいモノマネ芸人」と勘違いされてテレビに出演するようになって大ブレイク。ヒトラーはとんでもない演説を繰り出して視聴者のドギモを抜くが、自信に満ちた演説によって人々は、ヒトラーを模した完成度の高い芸と認識され人気を博してゆく。

 天才扇動者であるヒトラーは、現代のネット社会は願ってもない環境であることをいち早く摑み、利用していく。トランプがアメリカ人の本音を引き出したのとそっくりだ。
 帰って来たヒトラーは現代がナチが登場してきた時代とそっくりな社会状況にあると見てとる。

 たとえば、トルコ、中東、アフリカからの難民がドイツ人の生活も文化もおびやかしつつある、と。そうした大衆の不満を演説ひとつでたくみに集めて新しいナチを作ろうとしていく。
 ヒトラーは民主主義的手続きで総統になった。それはヨーロッパ人の本音を摑んだからだった。
 この映画は風刺と笑いが主だから、笑っていれば済む話ではあるが、今登場したところに、やはり時代の変化を感じさせるものがあった。

 ユダヤが主導して欧米を中心とした「国際連合」のイカサマと、ある「理想」という妄想に対し、冷厳な現実が現れたということだ。その背景があって、この映画『帰ってきたヒトラー』が受けたのだと思われる。
 端的にはリベラル主義の敗北である。人権、自由、平和、友好の否定だ。偽善の敗北だ。

 ユダヤが仕組み、欧米国家を中心に日本も支那もロシアも一緒に演じてきた欺瞞に満ちたリベラル主義が終わろうとしている。
 私たち日本人も、戦後はそういう価値こそが繁栄のもとだし、理想なのだと吹き込まれてきた。まだそれが続くと思い込んでいた人たちが、例えば先のアメリカ大統領選挙では最後にはヒラリー・クリントンが勝利するはずと思い込み、その予想が外れて泡をくった。

 一番は、戦後の国際秩序のなかでぬくぬくとして儲けてきたマスゴミであった。あるいはどうでもいけれど、韓国も支那も、これまでやってきた路線が否定されてきて、慌てているのだろう。
 人権、平和、友好の旗の下に、日本叩きをやっていれば、欧米の掲げる欺瞞の中である地位を確保して来られたけれど、それが砂上の楼閣となりつつある。しょせんはメッキだった。どこにすがればいいの、だろうね。

 リベラリズム崩壊が最も大きな姿を見せたのは、EUによる難民移民の失敗であろうか。ユダヤ金融資本も欧米諸国も、人権、自由、平和、友好を唱える裏で、例えば中東でさんざんワルをやらかして、混乱をつくり出してきた。現実には、無辜の民が戦争に巻き込まれて逃げ惑う事態になってきた。中東から逃れて難民になって、ヨーロッパに向かうのは当然だった。

 そこへまた人権、自由、平和の旗の下にとばかり、ドイツのメルケルが不用意にも(?)難民さんいらっしゃい、いらっしゃいとやったものだから、その現実が欺瞞の膿を吹き出させることとなったのである。
 戦後の、「リベラリズムは正しい。リベラルが理想」の欺瞞の正義を演出するために利用された、ドイツと日本が経済的に勃興したばかりか、ナチを生んだドイツが今度は欺瞞のリベラリズムを崩壊させてゆくのだから、愉快なものだ。

 日本も戦後さんざんいたぶられてきたが、昨年の伊勢志摩サミットでは、先進国のどこの展望を語れないなかで、なんとか日本の安倍首相がなんとリーダー的存在となっていたのはまぎれもない事実である。
 リべラル側は、昨年はヒラリーを候補に立てて正面突破を仕掛け、まだ偽善が続けられると思うより手はなかった。世界中のマスゴミをカネで言うなりに出来ているから、それでイケル!とまだ信じていたかったのだ。

 マスゴミは、インターネットの普及によって、徐々にその独占的力を失っている。これからも失っていくだろう。だが、マスゴミ自身は、まだネットと共存できると能天気でいる。「茹でガエル」状態とはこのことだ。

 これは日下公人氏が提案しておられたことだが、国連がいまだに連合国の利権を保ち、日本とドイツへの敵国条項を削除しないのだから、いっそ、日本が主導して新しい本物の「国連」を立ちあげればいいのだと。

 そうすれば世界中の、支那と南北朝鮮を除くほとんどの国々が加盟してくるだろう。このアイデアを日下氏が安倍首相に話したら、安倍氏は「アメリカも参加する」と答えたそうだ。
 実際、こうする以外にテロは防げまい。イスラム過激派のテロは、原理主義がどうたらというよりも、西欧がやらかしてきたリベラルのメッキの裏にある偽善への怒りなのだ。その気持ちは、日本人ならわかる。

 テロがいいとは言わないが、イスラムのテロよりも欧米(キリスト教徒)がやらかしてきた殺戮、強奪、破壊は何億倍もひどいではないか。その世界はトランプが登場したり、EUが潰れたりした程度では変わらない。どうしても日本が主導していかなければ世界は新しいステージには入っていけない。
 だが、日本にはそれを担っていける若い力が出てくる気配はない。

 残念でしかたがない。
 ただ、唯一の希望の光は、玄和会だけなのである。




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2017年01月21日

新聞は暗い話とマイナス思考ばかり


 昨年登場した東京都知事の小池百合子については、期待はしているがまだ様子見である。ただ、豊洲にこだわり過ぎて、失脚の兆しも見えはじめた。
 社会は刻々と変化する。例えばAIが普及するとか、全自動運転のクルマが実用化するとか…。それなのに、人間はどうしてもこれまで蓄積し学んで創り上げたアタマの働きで暮らし、仕事をしているので、どうしても判断を間違える。

 それでも人間は間違えながらも、みんなの力を合わせることで、その遅れや失敗を修正していくものだ。
 人間がサルから進化したはじめから、集団で、あるいは小規模の共同体としてでなければ生きられなかったのは、こうした集団力を使わざるを得なかったからなのだろう。

 小池都知事が一応果敢に都政改革に挑むのは、大変結構であって、少々の間違いは誰がやっても生じると織り込んでおかなければいけない。
 舛添のように、ウソはつくわ、ザイニチ特権を許すわ、都政改革には手をつけないわ、私欲優先…では話にならなかった。

 暮れに、小池知事が東京五輪でのボートやバレーボールなどの3会場に見直しに関して、既存施設の利用を断念して、組織委員会や業界団体の「おねだり」する新規建設に譲歩して決着した。ただ、大幅に建設費用を削減させたことは評価できる話であった。

 ところが毎日新聞はこれに噛み付いた。小池知事が3会場見直しが失敗したのは、この見直しの数ヶ月間、混乱を招き、宮城県などに余計な期待をさせた、と批判した。あげくに元の計画どおりやることになった責任はとらないのか、という言い方をした。
 小池知事は、3会場の変更はならなかったが、建設費を大きく削減したと言ったが、これを毎日新聞は「強弁した」という表現をした。

 どうやら毎日は小池が嫌いらしい。もしくは五輪組織委員会とかゼネコンからか、カネをもらっているので、新会場建設が潰れると困るからなのだろうか。
 会場見直しで「混乱」はしたかもしれないが、それは検討し直したのだから、考えた結果、新規建設しかないとする結論が出ても、それはそれで都民は納得し、都知事は良くやったと評価している。

 なのに、小池は失敗し迷惑をかけたのに、でも建設費は削減したと述べていることを「強弁」という侮蔑的言辞で非難した。毎日新聞は「バカ」と言われるのが嫌だそうだから、別の言い方をしてやるが、お前たちはクズだ。何も「強弁」だと怒っている都民はいない。
 むしろまだ不十分ながら、組織委員会やゼネコン、有力都議らの不正を暴きだしたことを評価する声があるはずだ。

 これは一例であって、毎日にかぎらず日本のマスゴミは、どうしても人様の足を引っ張りたいらしい。
 マスゴミはクズだから、世の中のことは全部オレ様が判断してやる、大衆はオレ様に従え、である。だから嫌われる。
 小池を批判する意見もある、小池を評価する意見もある、と事実を報道すればいいだけだ。そして読者が正確に判断できる材料を報道してくれればいい。

 なのに、マスゴミは、豊洲移転問題でも、東京五輪の会場問題でも、石原慎太郎元知事や内田茂などの都議の利権の問題点を知り得る立場にいながら、やらずに来た。豊洲移転に強硬に反対する声がありながら、ゼネコンに不利になることは報道しなかったではないか。汚い連中だ。
 そのクズのマスゴミが、人を「強弁しやがって」と罵る記事を書いていいわけがない。強弁かどうかは、都民が判断する。

 こんな最低のことをマスゴミがやり続けてきたから、徐々に購読者が減って来たのだ。当たり前だ。
 日本のマスゴミは、こと、政治、経済、外交のこととなると、暗い話ばっかり。明るいニュースはというと、どこかの小さな駅で猫が駅長になりましただの、原爆の語り部が90歳になっても続けていますだの、暇ネタのときばかり。

 例えばアベノミクスの話題となると、反日サヨク新聞は批判罵倒一色になる。紫色の髪の女を引っ張りだして「アホノミクス」と言わせ、さまざまな評論家らにこぞって否定的見解を語らせる。明日にも株価は暴落し、財政は破綻して失業者が溢れかえると不安を煽る。
 ダメだダメだばかり。それはもう経済方針うんぬんではなくて、安倍のやることならなんでも反対、足を引っ張ればいいというものでしかない。

 「アベノミクスがうまくいくにはここをこうすればいい」という提言なり、前向きでの批評は皆無である。
 すべての記事がこれだ。閣僚が靖国に参拝すれば、中韓が反発するだの、友好関係を損なうなど、悪いことばかり言う。
 こういう記事をのっけるから、世の中がどんどん暗くなる。

 景気がなかなか回復しないとか、若者が結婚しなくなったなどは、大きな要因をつくり出しているのはマスゴミのこうした後ろ向きに姿勢が相互浸透するからである。
 国会議員が自由に発言する機会を奪っているのは、マスゴミである。ささいな失言を大仰に取り上げて非難の大合唱をやらかし、当事者を追い詰めて辞任させればテメエたちは溜飲を下げるだろうが、議員は萎縮して発言しなくなる。

 国の方針を積極的に話し合って物事を進めるべき議員が、事勿れ主義になり、地元へ奉仕するばかりになっているのは、マスゴミが悪いのである。議員の大半が重要な国政の問題についてはだんまりを貫いて、地元へ利益誘導してさえいれば選挙で通る、そんな連中ばかりにしたのは、マスゴミが悪い。
 そのくせ、ご贔屓の民進党なら蓮舫が二重国籍と重大犯罪を犯していてもお目こぼしにする。
 
 せんだって、安倍首相がハワイ真珠湾に慰霊で出向いたわけだが、サヨク新聞は、こぞって「先の大戦への反省」とか「侵略したことへの謝罪」が安倍の談話になかったことを非難していた。あろうことか首相に謝罪させたくてしょうがないのだ。
 これしかやらないから、日本中が暗くなる。反省や謝罪をさせると、なにか良いことでもあるのか? 日本人を萎縮さえるために、マスゴミはあるらしい。




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2017年01月20日

開高健の悲惨なグルメ


 本稿は2007年12月にアップしたものの再録である。
    ■     ■

 昔は、作家・開高健が気に入ってよく読んだ。空手をやるようになって、好みが変わってしまい、関心が薄れたが、それでも彼が書いたものはほとんど読んだと思う。
 開高健は1989年12月に58歳の若さで亡くなった。テレビの速報で亡くなったことを知り、「ああ、やはり」との感慨を抱いたのを今でも思い出す。死因は食道癌であったが、私は彼がいずれ癌で死ぬだろうと予測していた。昔はファンだった作家なので惜しいとは思ったが、まあ自業自得だろうと冷めていた。

 先日、図書館で『開高健が喰った!』(菊谷匡祐著 実業之日本社)を見つけ、ちょっと懐かしくなって、借りて読んでみた。これは開高ときわめて親しかった著者が、生前に開高と食べ歩いたなじみの飲食店を思い出とともに紹介している内容である。主に東京のあちらこちらで、気にいった店の気に入った料理をたらふく喰った話で、そのときに開高がやたらに料理に関する蘊蓄を傾けるのだが、それを楽しく紹介している。

 開高健はグルメで大食漢であったことは有名である。しかしこの本は高級料亭やレストランは省いてあって、どちらかというと値段は安くてうまい店で、開高が贔屓にしたところだけを扱っている。
 この本で紹介されている開高の、食べること食べること、鯨飲馬食そのものである。

 例えばある中華料理店に著者・菊谷氏と行って「ビール2本、餃子4人前に柔らかい焼きそば3人前、それとニラレバ炒め3人前、とりあえずそれだけ持って来て頂戴」と注文する。とりあえず、で、これだ。出てくる料理の三分の二は開高がかきこむように喰ってしまう。さんざんビールを飲みほし、最後に「さて、シメはタンメンで行こか…」となるんだそうだ。

 『開高健が喰った!』全編がこの調子で、ひたすら喰いまくる話である。改めて開高の健啖ぶりを読んで、「これだからお前さんは癌で早死にせざるを得なかったんだよ」と言うしかなかった。
 この作家はいったいいつ自宅で飯を喰うのか? と思うほどに、外食ばかり。作家仲間、編集者、友人らと飲み歩き、喰い歩きしていて、たらふくうまいものを喰い尽くしていく。

 彼の初期作品に『パニック』という小説があって、ある地方で60年に一度だかの笹の実が実り、それを食べたネズミが大繁殖をするという話なのだが、膨大な数のネズミがあるとあらゆるものを喰い尽くしていく様が描かれていた。開高の健啖ぶりはそのネズミの大集団のようであった。

 彼がまだ活躍しているころに、よく食に関するエッセイを読んだが、たしかに文章のうまさは抜群で、ありとあらゆるテクニックでその美味の中身を描く。近年テレビでグルメ・レポートなんかが流行しているが、タレントたちはおしなべて「うまい、おいしい」しか言えないが、開高となると絢爛たる修辞で読者を圧倒する。だが、これじゃ癌になるわと他人ごとながら心配していた。

 今も、テレビのグルメ・レポーターをやっている彦麻呂とか石塚とかを見ていると、仕事だから仕方がないだろうが、長生きせんだろうなと気の毒になる。
 テレビ局も本当に酷なことをする。担当者も社費で飲み食いできるから、あちらこちらの有名店を探して、タレントや女子アナに喰わせつつ、自分らも喰っていることだろう。ただで飲み食いできるから、やみつきになるんだろうが、彼ら自身も病気になるし、テレビで見た視聴者もそれっとばかりに試食に行くから、みんなやがては癌になる。

 人間誰しもうまいものには魅かれる。うまいものと、まずいものをどちらを喰いたいかと言われれば、誰でもうまいものが良いに決まっている。それがこうじて、徹底してうまいものでなければダメとなっていくところに、人間の浅はかさがある。
 素材そのものが新鮮で、おいしいならそれで満足すべきなのだが、どうしても“料理”したものが高級でうまいと思うから、高級店ほど手をかえ品をかえてこれでもかと“料理”をしてしまう。

 あるいは牛肉のように、素材そのものからして霜降肉などと言って、とんでもないゲテモノをこしらえてしまう。そういうものを、テレビのグルメ番組で大仰に絶賛し、次から次に紹介している。
 一億総グルメで、行き着く果ては“総癌”だろう。もしかして病院や製薬会社と結託して、ああいうグルメ番組をやっているんじゃなかろうか、と疑いたくなる。

 そもそも“料理”することがいけない。料理がいけないというなら、人間、喰うものがなくなるじゃないかと反発されるかもしれないが、そういうことではない。食事はいいのである。食事しなければ生きていけない。その食事とは、できるだけ素材そのものを生かした、やたら凝った“料理”にしないことである。

 例えばサンマならば、刺身が一番良く、あとは塩焼きくらいがいい。ところがサンマを揚げたり、煮込んだり、揚げたものをさらに南蛮漬けにしたり、ごてごてとほかの素材を調理したものをぶっかけたりして、これでもかと別の味を演出してしまうことがまずいのである。これを称して“料理”という。

 サンマであれ、ニンジンであれ、生なら地球がいわば生きている、自然であり、磁性体が壊されていない。しかし調理すればするほど、あるいは添加物などを加えるほどに、地球から遠ざかり、磁性体性を失ってしまう。これが癌のもとになる。開高健はその証明を自らの身体で行ったようなものだ。外食すればほとんどが“料理”したものである。つまり加工したものだ。

 例えば彼が東京・有楽町のレバンテという飲み屋で、カキの塩辛が大好物でビールを飲んではカキの塩辛で舌鼓をうっていたそうだが、こういうものが“料理”なのである。カキ自体がほとんど養殖もので、ここで早くもつまずいているが(養殖すれば磁性体が失われる)、それを塩辛にしていわばエキスを濃縮した食べ物(らしい)となれば、これは癌のもと…というとやや言い過ぎかもしれないが、危険ではある。

 あるいは北京ダックのおいしい店を紹介してあって、これが絶品だと褒めているけれど、あれはとんでもない料理である。北京ダックの育て方が人工的だからだ。フォアグラなんかも悪いはずだ。人間が手を加えておいしくするほどに、食べ物は癌の原因になっていく。

 だからみなさん。お勤め先で昼食を外で召し上がることが多いかもしれませんが、外食こそが危険なのですぞ。こう書くと飯屋から猛反発されるだろうが、困った人たちだ。例えばまあ刺身定食ならいいがアジフライ定食となると疑問符がつく。野菜炒めなんかならなんとか合格、サラダ山盛りも合格にしてもいいが、トンカツだのすき焼きだの、ラーメンだのとなるとみんな加工ばかりになって、危ない。それにコンビニで売っているものも当然危ない。ましてコンビニの弁当などは恐ろしい中国野菜や中国鶏肉なんかが使ってあるのだ。およしになったほうがいいですよ。

 外食のいけないところは、なんと言っても飯が白米であることだ。玄米や麦ご飯を出す店ならまあ悪くはない。
 おいしければいいという人には言うことはないけれど。おいしいだけだと、開高健のように早死にしますよ、と言いたいのだ。人との付き合いもあって、料理をまったく口にしないわけにはいくまいが、たまのことになさるべきであって、仕事で外食しなければならない人は、ぜひ栄養も十分考えた手作りの弁当を持っていかれることだ。



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2017年01月19日

予期不安とは何ぞや


 だいぶ以前に毎日新聞「子ども相談室」に以下の記事があった。

Q・小5の娘、先のことを心配し、食事もとれない
 小学5年の娘が急にいろんなことを不安がるようになりました。夏休み前の林間学校もバスに酔わないか、肝試しは怖いかなど心配し、1週間吐いて食べられなくなりました。今は元気ですが、いつまた始まるかと不安です。(大阪府、40代母親)


 これに対して、臨床心理士・西脇喜恵子氏が回答している。 
 「A・悪い結果ばかりではない−−−−体験で学んでいくはず」
として、これから起きることを想像して心配になってしまうことを「予期不安」というが、子供がこのような不安にさいなまれた時には、うまくいった林間学校でのことを思い出してみればいいんだ、というのだ。どうして「林間学校がうまくいった思い出」だと断定できるのかがわからないが…。

 予期不安は、悲観的な想像をもとにしているが、実際に起きる出来事は、すべてがすべて、心配したとおりの悪い結果に終わるとは限らない。この臨床心理士は、林間学校もそうだったはずでしょ、と決め付ける。「あの時、あれだけ心配していたけど、実際には大丈夫だった、という思いが、次の不安を少し軽くしてくれるはずです」というが、そんなバカな。実際に心配が当たった場合もあるだろう。それはどうするんだ?

 「思春期の予期不安は、一時期で終わることも少なくありません。乗り物酔いが不安なら、酔い止め薬とか嘔吐(おうと)に備えての袋をかばんに入れておいてあげる。周りの心配はその程度で十分かもしれません。予期不安には、不安に思って心の準備をするからこそ、危険や最悪の事態を避けられるという良い面もあります。いわば転ばぬ先のつえのようなものです。娘さんと一緒に、不安との上手な付き合い方を考えてみてはいかがでしょうか。」


 と、こうなのだ。能天気を絵に描いたような臨床心理士ではないか。
 思春期の問題がなに一つとして解けていないくせに、よく言うよ。
 思春期はこの方の言う「予期不安」が極端に膨れあがる。当人にも理屈ではわかっているつもりであっても、不安が恐怖へと抑えられないほどになるものだ。それは脳細胞が急激な生々発展を遂げている真っ最中だからである。

 そのあたりの理論は、南ク継正著『弁証法・認識論への道』(三一書房)(現代社全集版では第2巻)に説かれている。そういうことを何も知らずに、よく平然と臨床心理士だと名乗れるものだ。
 体験して学ぶのはあり得るけれど、思春期をその他の幼年時代やあとの大人と一緒にしてはいけない。思春期拒食症も同じことで、体験の問題ではないのだ。

 相談者の子供は小学校5年生だそうだが、やや思春期が始まるのが早い。おませなのかもしれない。そうなるのは、テレビやマンガで早くから性を教えられるからだ。

 「娘さんと一緒に、不安との上手な付き合い方を考えてみてはいかがでしょうか。」って、それがわからないから相談しているんじゃないか? この年代の子は、トイレに行くのも恐がる場合がある、それを友だちからからかわれるからだ。「ウンコしに行ったんだろう」とか「あいつ、今日は生理なんだ」などと男の子からはやし立てられ、ショックを受ける場合もある。それがために女性は便秘になったり、生理が止まったりする場合もある。大変怖いことである。それも経験、で済まされることではない。

 あるいは小学5年生ともなれば、将来母親になる準備としてヘソまである厚手のパンツを履いて、腰を冷やさない習慣付けをしなければならないが、そんな厚手のパンツを履いていると分かれば、これまたからかいの対象になる。それで恰好を気にして、やがて生理痛、帝王切開や流産、不妊などで苦しむことにもなりかねない。

 この思春期の過ごし方を甘く考えてはいけない。自然に体験を通して学ぶ? 冗談じゃないんだよ。自然に任せていいわけがない。
 自然に任せたら、愚劣なテレビタレントのマネをして、あれがカッコいいと思って薄着やら厚化粧をするようになる。タバコを吸う、夜更しをする…と、健康は二の次にされてしまう。

 思春期は端的にいえば、性に目覚める時期である。この新聞の相談者の場合も、「バスに酔わないか、肝試しは怖いかなど心配し、1週間吐いて食べられなくなった」というのは、異性を意識してのこととも考えられる。異性でないとしても、苛めを相当に気にしているらしい。バスに酔うこと自体を心配しているのではなかろう。

 この子はバスに酔っている像が浮かんでいるのではなく、酔って吐いている自分をみんなが冷やかしたり、バカにしたりしている像、あるいはもっと深刻に、好きな男の子に嫌われている像が浮かんでいるのだろう。だから強烈な不安になる。
 この人間の“創像”の謎が心理学では解けていない。

 臨床心理士・西脇喜恵子氏が、まったく性のことを考慮していないのが私には信じられない。また、この子にはどんな像が浮かんでいるのかがわかっていない。学校の教師も、もしかしたらこんな場合、乗り物酔いの薬でも持たせればいいと思っているのではないだろうか。とんでもないことだ。この子はみんなに苛められる恐怖におののいているにちがいない。それが小学3年生なら10の反映でしかないものが、思春期には1万もの反映になる。それがこの臨床心理士にもわかっていない。

 そこを教師はわかってやって、十分なる教育を日頃やらなければなるまい。どういう教育かといえば、自分が嫌なこと、あるいは嫌だなと思う言葉を、人にはしない、使わないという徹底した躾である。端的には、子供なりに相手の立場にたって考えられる人間にすること、これであろう。

 思春期はクラス全員がいわばイライラしているのだ。それが小学5年生くらいから始まる。すべてにイライラし、構ってくれないからと言ってイライラし、構うからと言ってはイライラする。それが成長過程なのだということを教師も親もわかっていて、子供にそれを教えておくことではないか。

 それを受験だけに価値を強制して他のことは野放しにするから、思春期に多くの子供たちの顔が歪んでいく。あんなにかわいかった小学生の子が、中学生になるともういっぱしの不良、ふてくされた顔、生気のない顔に変わってしまう。傷ましいと言ったらない。

 子どもはイライラを親や教師、友だちにぶつける。それを厳しく叱られないから、イライラのまま過ごしてしまい、荒れてもいいんだという認識になってしまうのだ。だから逆にちょっと弱気、内気な子ども、あるいは想像力(空想力)の強い子は、この相談者のように、強烈な不安にさいなまれていくのだ。

 いろんなことを不安がるようになった、というが、これを一応思春期の問題と切り離して考えてみる。
 人間は社会的実在だから、社会という対象の構造に見合って自分を創るように教育される。そうしなければ人間になれない。ところが、ともすると自分勝手に自分を創ってしまう。

 つまり主観を優先させて、ものごとを判断したり行動したりすることをやる。認識は全部主観である。この相談者が「いろんなことに不安になる」のは、主観である。主観によって認識が歪まされるのだから、社会的実在たる人間は自分の認識を社会という対象の構造にみあったものにしなければならない。

 われわれは子どものときから、現実(外界たる対象)を強烈な像として描きつづけることで、普通の人ならば現実がより強烈に反映するようになるのだ。現実たる対象の構造に自分の認識を合わせられていけば問題はないのに、塾通いやテレビゲームで対象の反映を薄く創ってしまうと、外界を反映が乏しくなる。反映が少ないとは、必然的に頭の中の対話(認識どうしの会話)が多くなる。頭の中の対話がつまり不安である。それでこの相談者の子のように、外界で創った認識ではなく、自分勝手な主観で内界の対話をして不安を自ら増幅させていく。

 簡単にいえば、幼児のときからしっかりと外界を反映すべく、友だちと遊び、ケンカをし、好きになったり嫌いになったりをくり返して、現実のまともな反映をするような認識と脳細胞になっていれば、不安は生じても、それが極端に肥大化して悩ませる事態には、なるまい。

 塾通いやファミコンゲームで現実の反映を薄くしているのだから、ますます現実のありようが楽しいものだとか、辛くてもたいしたことはないと楽観的に思える状態に育っていない。現代の親は、ただただ勉強ができて、言う事をきく子が良い子と勘違いしている。子どもに厚着をさせる、危ない遊びはせさない、いじめさせない、服を汚させない、極力ケガをさせない。木登りなんてとんでもない。子どもがナイフを持って学校に来ると、大騒ぎして取り上げる。

 と、こうなのだ。乱暴はいけないと育てられる女性一般にありがちな勘違いである。
 これらは大人が子どもの外界の反映を無理に遮断しているのである。子どもはそれこそ一度も辛い経験をしないで成人してしまう。だから不安な状態に直面することにもろい。





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2017年01月18日

稲田朋美は売国奴


 稲田朋美防衛大臣が、暮れも押し詰まった12月29日に靖国神社の参拝を行なった。例によって反日サヨク新聞が、「公人としての参拝か?」と尋ね、稲田は否定してみせるという茶番が続いている。
 こういう質問をくり返すバカさ加減に、サヨクは反省ができないほどにアタマが劣化している。
 公人か私人かなんて分けられないし、分ける意味はないのに、反日新聞は中韓におもね(カネをもらい)、かつ国内サヨクにこのくだらない情報を買ってもらうためにやらかしている。

 稲田は昨年8月15日に、突如アフリカのジブチへ視察に出かけ、全国戦没者慰霊祭にも靖国にも参拝しなかったことで、国会で野党からさえ嘲笑された。記者から参拝できなかったことへの後悔もあるのかと問われると、「それはありません」と答えていた。
 これまでも、8月15日にこだわっていたわけではない」と突っぱねている。

 これは欺瞞であろう。たしかに8月15日にこだわる必要はないと言えるが、それでも国家にとっては一大イベントであったし、国会で野党に嘲笑されたら涙を浮かべたとして、国民を失望させたのだ。それを失態だったという思いがあるから、年末ぎりぎりの日時で「今年中に」行ったことにしたかったのだと思われる。

 安倍晋三首相は稲田を自分の後継の首相候補に育てたい意向だと噂されているが、稲田にはその自覚がなさそうである。今年、防衛大臣になってからも失態ばかり続けた。服装やメガネまで娘の指示で身につけ、センスのなさに呆れられている。
 それにつけても、国会議員、大臣の貫禄がない。顔つきも引き締まっていない。暮れの靖国参拝の折も、ボケっとした顔で受け答え。
 好き嫌いは別として、小池都知事の貫禄のありようと比べて情けないかぎりである。安倍も人を見る目がない。後継の育て方も失敗している。

 実力もないのに、安倍にかわいがられているだけでトントン拍子の出世。これでは野党与党を問わず、女性の国会議員からの嫉妬はすさまじいものがあるだろう。何をやっても「調子に乗りやがって」と罵倒されて、足を引っ張られる状況を作ってしまっている。
 暮れに靖国に参拝したときも、記者団に囲まれてそつなく、揚げ足を取られない受け答えに終始した、
 
 失点を取り返して、もう一度保守層の支持を回復したいなら、もっと毅然とした対応であるべきを、逃げの姿勢では、ますます保守層の心証を悪くするばかりであった。
 防衛大臣なのだから、国家を背負ってたっている自負、誇りを体現した顔つき、語り口、立ち居振る舞いをしなければならない。そんなことも知らないバカ娘に頼って、チャラチャラしたファッション、しまりのない顔では、中韓は大喜びだろう。

 昨年6月、稲田朋美は自民党政調会長のとき「財政健全化を経済成長に頼るのは雨乞いのようなものだ」という発言をした。稲田に期待を寄せていた保守派は多かったようだが、彼女が経済オンチで、勉強していないことに落胆した声をずいぶん聞いた。
 経済に成長戦略を柱とするアベノミクスの考えとは真逆の、財務省のヒアリングに騙されて「日本ダメ論」「日本成長しない論」を展開し「増税派」に寝返ってしまった。

 それよりなにより、私が稲田朋美をダメだと思ったのは、「百人斬り」報道名誉毀損訴訟の原告側弁護人として一躍名を馳せながら、敗訴したことだった。意図的に敗訴になるよう仕掛けたとされる。

 「百人斬り訴訟」については周知のことと思うが、平成15年にご遺族が毎日新聞、朝日新聞、本多勝一らを相手どって、名誉毀損で、損害賠償と謝罪広告を出すよう求める訴訟を起こされたものである。しかし、東京地裁では原告敗訴、高裁、最高裁でもついに真実が認められることはなかった。わが道場でも有志が訴訟支援のカンパを募るなどして、微力ながら支援したが、非常に残念な結果である。

 本多勝一のルポに対し、山本七平氏が詳細に、かつ理路整然と「百人斬り」の欺瞞を反証した。日本刀(軍刀)では、100人はおろか1人斬れば歯がボロボロになってしまって斬れなくなる。軍刀というのは、飾りに近い指揮刀なのである。野田少尉は大隊副官であって、いわゆる白兵戦闘に参加する立場にはない。向井少尉も歩兵砲小隊長であって、白兵戦は行わない。そもそも当時、向井少尉は手足を負傷していた。両者とも兵科・所属が違うから、二人で相談して「何人斬れるか」などとゲームができるわけがない。

 山本七平氏の論証でもう決着はついている。
 近代陸上戦闘で、白兵戦を積極的に行って、戦果を競うなどということはない。いくつ敵の首をとったかなどは、戦国時代の発想である。バカ丸出し。

 稲田は百人斬り裁判でも決定的な証拠をジャーナリストの水間政憲氏から譲り受けて「わー、これすごい」とまで言っていたのに、それをあえて使用せず結局敗訴。
 原告側の名誉棄損された少尉の娘さんは死の床まで「なぜ、稲田さんはあの資料使わなかったのかしら。残念だ」とおっしゃっていたそうで、これは驚きである。

 水間政憲氏から《稲田朋美政調会長に公開質問状》が出されている。この主旨は、簡単である。
 百人斬り裁判では、毎日新聞社は最高裁まで「事実を取材し事実を報道した」と主張していた。事実でないことが立証されれば、原告の勝訴となるのは明白だった。
 「百人斬り競争」が事実であれば、最高の武勲として野田・向井両少尉には各2〜3個「金鵄勲章」が叙しされていたはずなのに、野田・向井両少尉に金鵄勲章が一つも授与されてない。
 勲章すら1個の授与されていないのは、そんな“戦功”の事実はなかった紛れもない証拠なのだ。

 このことを水間氏は地裁公判中に「内閣府賞勲局の回答」として稲田氏ら弁護人に渡した。これは決定的な証拠だった。
 毎日新聞が当時連載中に掲載した野田.向井、両少尉の写真を撮影した佐藤振寿元毎日新聞カメラマンまでがついに、あれは捏造記事だったと地裁で証言したにも関わらず、勝訴に持ち込めないというのは、稲田ら弁護人が無能か、意図的に負けるようしたのだ。

 稲田にとって百人斬り裁判は国会議員進出のための売名行為だったのだろう。勝訴すると南京大虐殺等の支那・韓国の反日運動に支障をきたすので、在日トップの宮内オリックス社長等からの圧力があったのではないかとも言われる。
 結局、稲田は水間氏へ回答はしていない。

 裁判の途中、「百人斬り訴訟を支援する会」が分裂する事態もあり、後味の悪いものになった。
 稲田は、雑誌「Will」に寄稿した文章で、野田・向井両少尉の処刑直後の痛ましい写真(周囲で支那人が拍手している)を、遺族の許可もなく掲載した。これは法律には触れなくても、ご遺族と日本人同胞への裏切り行為である。

 裁判では真実を明らかにすることは出来なかったが、今後も支那のデタラメを暴いていくだろうし、毎日新聞、朝日新聞の報道を許すことはなく、卑劣なありかたを忘れない。この事件は、小林よしのり氏も「戦争論」などで取り上げたおかげで、多くの若者の知るところとなった。真実は少しずつ日本人のなかに浸透しつつある。

 稲田は自民党のなかでは、チヤホヤされていくのだろうが、いずれ化けの皮は剥がれるだろう。



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2017年01月17日

英語で「知」が劣化(2/2)


《2》
 先週の本ブログで、元巨人の桑田投手の言葉を紹介したが、野球もさすがにアメリカ発祥だけあって、勝つか負けるか、アウトかセーフかの二分法のゲームである。結果だけを求める。桑田は勝つか負けるかの「結果」だけが野球でも、また人生でもないと説くのだった。

 現実の野球は、アウト・セーフ同時もあれば、引き分けもあるし、審判の誤審もある、外野フライが風に流されてホームランになるなど、曖昧なものだ。それでもアメリカ式野球は二分法で決着させる。
 審判が絶対で、ビデオで見ても明らかな誤審であっても、判定は覆さないというやり方は、日本人には納得しがたいが、アメリカ人はそうしないではいられない。
 日本の相撲では行司が判定しても、あとで審判が協議しているのは、アメリカ人には理解できないのではないか。

 日本の相撲も勝ち負けを競ってはいるが、「同体とみて取り直し」「不戦勝」、優勝でないが殊勲賞や敢闘賞もあれば、勝ち越せば「給金直し」とも言われるなど勝負につきものの曖昧さ、アナログ性を配慮している。さらには仕切り、塩撒き、勝ち名乗りなど、勝負の「結果」以外に見所がたくさんあるものになっている。

 それゆえ、相撲は結果だけではないことが外国人力士にはどうしても理解できない。白鵬や日馬富士などのモンゴル勢は、横綱が相手に張り手をだすのは美しくないとか塩の撒き方にも美がある、なんてことがわからない。「これは決まりだ」と教えれば実践する。

 聖徳太子の「十七条憲法」でも明治維新の「五か条のご誓文」でも、あれは弁証法的である。「和をもって尊しとなす」や「万機公論に決すべし」である。神のことばが絶対だとか、国王の命令が絶対だとは言わない。
 
 これをとりわけ戦後は、日本語はあいまいで非科学的だ、英語は論理的で答えをしっかり出すから優れているとする風潮があった。たしかに白か黒かだけの答えを求めるならば、英語は便利かもしれない。学的研究者のなかには考える際には英語で考えるといい、論理的言語だから、と学生に勧める奴もいた。それは誤りである。

 受験秀才はそうなる。正答か誤答か、白か黒かには分けやすいのだろう。その結果だけを求めることにアタマが量質転化してしまう。
 あの連中はとりわけ英語が得意である。
 見事に官僚がそういう発想になり、大学教授もそうなる。わざわざ国費にたかってアメリカに留学して、あちらの思考になじんで帰ってくる。

 で、「知」が劣化するのだ。本来的には日本語こそ対象の曖昧さや流動性やらに見合った概念や言葉が創られているから、論理的なのである。アメリカになじめる連中だから、GHQの押し付け憲法も、日本語になっていない憲法も平気でいられるバカになる。

 南ク継正先生の著作は、英語に翻訳できないそうだ。学問誌『学城』では発刊初期に『武道の理論』の英訳が試みられていたが、2〜3回ほどで立ち消えになった。やはり無理だったのかと思う。「潔い」のような言葉が翻訳できないといった事例もあるのだろうが、つまり、南ク先生の文章はすべてにわたって弁証法であり、かつそれに見合った日本語で書かれているからである。

 外国人で南ク継正先生の著作や南ク学派の学問書が理解できるようになるためには、日本語をしっかり学んでもらうしかない。やがてそうなるだろう、日本が存続するかぎりは。
 
 一方で支那も言語が、白か黒かであって、「ニュアンス」が表現できない欠陥言語である。日本語は「私は酒を飲む」と言う場合、「私も」「私が」「私でも」「私には…」など助詞によって、曖昧さを表現できるのに、支那語では「私 飲む 酒」という単語をある規則によって並べるだけ。だからニュアンスがない。
 で、国際政治では居丈高になるか、しょげるか(逃げるか)で結論を出したがる。

 もうすこし、日下氏の本のつづきを紹介する。
     *     *

 日本国憲法は、戦前と戦後の歴史の紐帯(ちゅうたい)を断ち切られている。米国に次ぐ「民主主義の実験国」を建設することを日本国民に強いたものと言える。 
 いささか極端に聴こえるかもしれないが、その本質を「言葉」から見れば、日本語ではなく英語でモノを考える日本人をつくることである。

 七十余年を経て、それは「世界標準」とか「グローバル・スタンダード」といった言葉で日本人に浸透し、アメリカ主導の価値観を普遍性と見なし、それは日本という国が従属していくことを求められる過程を示している。

 同時にそれは、日本が本来持っていた独自性や可能性を今後も自ら制約し、未来を閉じることにもなりかねない。憲法改正論議は必要だが、ともすれば日本の特質や独立の視点を置き忘れ、ただ単に英米と同じような民主主義国家になるべきだという方向に傾きがちなことに、私は異なった視点を示しておきたい。

 (中略)
 普遍主義の亡者になってはいけないということである。気概を持ったローカリズムでよい。
 そして一国の憲法とは、普遍的な地球人類の理想を追求するものである必要はなく、そこに暮らす人間のローカリズムに根ざした価値観、歴史的な慣習や常識に照らしてつくればよい。そこに立ち返ったとき、日本は自らを守る力を持つと同時に、もっと自由で豊かな国になれると私は思っている。
  (引用終わり)

     *     *

 媚中・副島隆彦は、慰安婦問題にしろ南京大虐殺にしろ、それがあったかどうかじゃなく、世界標準に従えばよいのだとほざくアホである。欧米と支那が白だといえば、それに文句を言わずに従えばよいと主張する。
 正義も誇りもいらぬ、先祖の名誉もいらぬ、ただ日本が世界に孤立しないよう、世界、とりわけ欧米と支那の言うことに従っていろというのだ。

 それがグローバル・スタンダードだと。あの男も、英語をもっぱら得意とする物書きだった。だからなのだろう。日本人の心がわからない。だから弁証法も無視できる。

 アメリカではトランプが大統領になって、グローバリズムは後退し、アメリカのナショナリズムや独自性を大事にする流れになるのでは…と予想する向きがある。そうかもしれない。当分は様子見だ。
 世界的思潮として、グローバル・スタンダードが退潮していくとすれば、まことに望ましい傾向である。
 憲法だって、対外関係を意識せずに成文化できるだろう。

 世界史の流れで言えば、これまでの世界の覇者は、ローマ帝国から始まってイギリス、アメリカにいたるまで、彼らの言語もその像も、白か黒かの二分法を元にやってきているが、それでは解けない問題があったり、問題を起こしたりしてきたのではないだろうか。
 だからその行き詰まりを感じて、彼ら自身が弁証法を考えたり、ファジーと言い出したり、“東洋の神秘”に惹かれたりしているのだろう。

 ところが我が国は、もともと二分法だけではない思考なのだ。世界を同じひとつの考え方やルールにして、究極的にワン・ワールドをつくろうという発想はない。
 これからは日本も世界もその発想に気づく時代がくるのではなかろうか?




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2017年01月16日

英語で「知」が劣化(1/2)


《1》
 日下公人氏の新著『新しい日本人が日本と世界を変える』(PHP刊)を読んでいて、憲法の問題が記述してあった。これまで言われてきたこと以上のことを説いてあったので、紹介していきたい。
 「日本人が英語を主体に考えると『知』が劣化する」という節からである。

     *     *

 日本人の大きな特質がその融通無碍なところにあるとすれば、憲法を成文化するに当たっての言葉の問題についても指摘しておこう。
 日本国憲法が事実上、GHQによる草案(英文)を邦訳したものである以上、そこに並んでいる言葉は日本人の精神やこころを反映していない。日本人はいかなる価値観を持ち、日本はどのような国家として歩んでいくかを示す意味から憲法を考えた場合、対外的な問題を意識した「説明しやすさ」は不要である。

 まず、日本人同士に「説明しやすさ」は要らない。日本語で率直に語れば通じるもののはずである。英文や漢文を意識するから、逆に彼らの価値観に引き込まれて自らを失う。
 安倍首相は、日本を「美しい国」にしたいと語ったが、憲法の前文に我が国のあるべき姿を記すとき、私なら「やすらぎの国」とか「思いやりの国」といった言葉を入れる。あるいは「潔い国」と。

 英語圏で理解されるかどうかなどということは考慮する必要はない。日本が成文憲法を持つならば「日本語の力」というものを意識する必要がある。
 私の経験から言えば、日本人が英語を主体にモノを考えはじめると「知」が劣化する。これは日本語にあって英語にない単語やニュアンスがたくさんあるからかもしれない。

 アメリカ人を相手に講演するとき、通訳付きでも話がなかなか伝わらなくてくたびれるのは、根本的に文明や文化、思想が違うからである。そのなかでアメリカ人にわかることだけを伝えようとして、彼らの言葉で考えると、ものすごく程度が下がってしまう。
 (引用終わり)

     *     *

 例えば、として日下氏は日本語の「潔い」は英語にない(ならない)と言う。Nobleでもgracefulでもなく、強いていえばManly という古い言葉が近いのだと渡部昇一氏が教えてくれたそうだ。
 これでは「男らしい」程度になっちゃうだろうに。つまり米語にはないが、古いヨーロッパには潔いの感覚が多少はあるのだろう。

 もしも憲法前文に「潔い国」と書き込むとしたら、きっと害務官僚からは異議が出る。外国人に意味が伝わらない、だからNobleとかgracefulに相当する日本語にするべきだ。高貴な、とか、優雅なとかに換えることになる。「潔い国」の意味ではなくなってしまう。

 「英語圏で理解されるかどうかなどということは考慮する必要はない」「『日本語の力』というものを意識する必要がある」。この一文には目が覚める思いだった。かくいう私も、どこかしら欧米コンプレックスがあって、世界の人たちに日本の特殊性をわかってもらう努力が必要だろうと思っていたからだ。

 和歌俳句、能、武道などは理解してもらえまいが…理解しあうことが大事であろう、くらいの感覚だった。しかし、文化の歴史が違うのだから、欧米や支那やらが日本をわかることはできない相談なのだ。
 文科省は、小学校5年生から英語を必修課目にすると言っているが、とんでもないことである。中学からで十分だ。

 英語は読み書きできるようになっても、日本人として大きな欠陥を持つようになる。日下氏が言うとおり「知」が劣化するからだ。
 たとえば柔道は、スポーツ化されてオリンピック種目になってから、武道ではなくなった。あれは見事に世界の標準に合わせた競技の枠に入れようとしたからだった。世界柔道連盟では今後、「有効」は止めようと言い出している。奴らはどうしても白黒二分にしたいのだ。

 「潔い」にしても、これは対象たる社会のありようが、曖昧にも関わらず、どうしても白黒つけないとうまく人間関係、社会関係が立ち行かないと見てとって、いわば弁証法性を断って、形而上学的答えに決める、その過程を日本人は意識するゆえに、やむを得ず「潔い」という行動を決断するのだ。
 さらに日下氏の論考を引用する。

     *     *

 アメリカはまだ二百四十年しか歴史がないから、敗者は敗者、退場するだけであって、それを飾る言葉がない。言葉がないということは概念がないということである。
 ただでさえ英語による思考は二分法になりやすい。白か黒かである。もともと契約のために発達した言語だから仕方がないが、対象となる社会現象や自然現象は、たいていアナログである。

 アナログをデジタルで表現すると、グレーゾーンを切り捨てることになる。洋裁で言えば、布地の裁ち屑がたくさん出るようなもので、日本語はその裁ち屑を掬い上げる微妙なニュアンスが豊富である。
 日本人の憲法を成文化するなら、きちんと日本語で考えられ、日本語で書かれるべきだと思う。それでは世界に説明できない、理解されないというのは、他者に寄り添うことが習い性となっている証左である。彼らに考えさせればよい。

 日本に関心を持ち、日本と付き合いたいと思えば、彼らのほうが勝手に学ぶ。大事なことは、彼らがそう思うような力のある日本、魅力ある日本であり続けることではないか。
 実は、日本は大日本帝国憲法を制定した明治時代から、自らの生存と独立のため日本の特質を削り取るという自己矛盾の世界に生きてきた、言葉も、概念も、自らを守るために自らを削り、他者のそれを取り込むということをやってきたのである。

 「文明開化」と呼ばれたものが、それである。日本の近代化は、その過程だった。
 憲法もまたその例外ではなく、明治憲法の制定に当たって、それ以前の日本の伝統を汲む努力がなされたことはたしかだが、それでも成文憲法を持ち、西欧型の近代国家に並ぶということが、いつしか生存と独立の手段としてではなく、目的化し、さらには外国に合わせることを自慢するような日本人まで出てくるようになった。
 (引用おわり)

     *     *

 これは非常に端的に日本人の近代化の宿痾を言い当てている。
 日下氏は残念ながら弁証法を学んでおられないようで、「英語による思考は二分法になりやすい。白か黒かである」とか、対象となる社会現象や自然現象はアナログなのに、それをデジタルで表現すると、グレーゾーンを切り捨てることになる、などと説くが、それが「形而上学的」であって、日下氏の言いたい「二分法でないもの」「対象がアナログだからアナログで考える(表現する)」が日下流に言うなら弁証法的なのである。



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2017年01月14日

迷い道 槿恵 クネ


 「高山正之の放言バー・リークス#13」(12月24日付)
https://www.youtube.com/watch?v=PsBVJw_-QzI
 高山正之、杉田水脈、西村眞悟が酒を飲みながらの鼎談をしている。ちょっと飲み過ぎだろうと思うけれど。
 その番組の最後のほうで、杉田水脈が渡辺真知子の歌謡曲「迷い道」の替え歌を披露していた。(56:16〜57:33) 
 傑作なので、こちらで紹介しておきたい。

  現在 過去 未来 
  あの国についてなら
  私は千年恨んでると
  誰か伝えて
  まるで時代じゃないの
  支那にはいい娘になって
  一つ反日で政策間違えて
  大統領 槿恵(クネ) 槿恵(クネ)

  セウォルは沈んでるの
  その頃どこにいたの?
  男と逢っていたと噂で聞いたけれど
  一人産経の支局長捕まえて
  大統領 槿恵 槿恵

 韓国人の奴らが聞いたら、またカッカと火病を起こすだろう。
 哀れな民族だ。
 つくづくああいう国に生まれなかった幸運を噛みしめる。霊能者と自称する人によると、前世で功徳を積んだ人間しか日本人には生まれてこられぬとかや…。妙に納得できそうな気がする。

 朴槿恵が大統領になったころは、日本のサヨクマスゴミは大はしゃぎで、今度の大統領は親日的で、なにしろ知日派だった朴正煕大統領の娘だから、いい人なんだと、ウソを垂れ流していた。それがあのザマではいったいどう弁明するんだろうマスゴミは?

 媚中・副島隆彦は、安倍晋三は無能低脳で世界で相手にされていないが、朴槿恵は東アジアで有数の政治家だ、世界で認められていると豪語していた。今はだんまりだ。
 また媚中・副島隆彦は、尖閣諸島海域では日本の海上保安庁の船が不当に支那漁船を挟み撃ちして痛め付けており、戦争を引き起こそうとしている、と「暴露」していた。それが平成22年9月、違法操業していた支那漁船が、海保の巡視船に体当たりする狼藉を働いたことが露見した。

 副島はそれを否定していたが、一色正春氏がインターネットの動画サイトに投稿し、動かぬ証拠が国民の知れるところとなったら、副島はだんまりを決め込んだのである。そういう卑劣な男である。いまだに彼の信奉者がいるのが信じられない。

 それにつけても、インターネット動画とはいえ、杉田水脈の替え歌が堂々披露されるとは隔世の感がある。10年前は考えられなかった。いずれあと10年もしたら、新聞もテレビもこうなっていくだろう。そうでなければ奴らも生き残っていけまい。
 今はまだ旧来秩序、すなわちマッカーサーの押し付けた歴史観による言論空間が支配的だが、徐々に崩れていく。

 今年はその始まりになっていくのではないか。あくまで希望的観測が大半だが…、アメリカでトランプが大統領になって、グローバリズムやらリベラル色やらが覆されていくとすれば、日本のサヨクメディアは成り立たなくなっていく。
 今年はEUが崩壊し、支那も崩壊して、世界は新秩序に向かうほかなくなると予測できよう。

 今年の大注目は、まずはヨーロッパの移民・難民問題である。中東や東ヨーロッパの難民が英独仏伊などに流れ込んで災厄をもたらし、ナショナリズムが先行して難民排斥となるなら結構な話である。それを見て、日本でも安易に難民を受け入れたら大変だと言う世論がなんとしても形成されてほしい。

 そうでないと、今、朝鮮半島の混乱が今年はいっそう激しくなるからだ。南朝鮮が新大統領になって落ち着けばいいが、経済的に崩壊してしまった以上は、韓国民が逃げ出すし、暴動が起きて収拾がつかなくなる。そこで北朝鮮が南に侵攻してきたら、韓国が持ちこたえられない。トランプは韓国を助けないだろう。またトランプは韓国難民はアメリカには受け入れまい。
 そうなれば韓国から大量の難民が日本に押し寄せる。

 これが阻止できるかどうかが、これからの日本が明るい未来か暗黒の未来になるかの分かれ道である。
 日本のマスゴミは、ザイニチに支配されているから、マスゴミは挙げて朝鮮半島からの不法難民を受け入れるべく騒ぐ。民進党、共産党、公明党がこれに同調する。

 そんな大激動の世界になろうとしているときに、日本はオリンピックの準備やら大阪万博誘致で忙しく、国会は天皇譲位問題一色になりそうだ。能天気丸出し。

 にしても、韓国では2018年2月に平昌冬期オリンピックが予定されている。会場準備の遅れも懸念材料だし、政情不安、経済失速で本当に開催されるかどうか怪しい。そんなくだらないことで混乱して、いっそう韓国が弱体化するのも迷惑な話である。


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2017年01月13日

息抜きに読む本であっても


 先日、ある人から私のブログを読んで、「あなたは野球選手ごとき人の本を読むんですか」と揶揄された。イチローや桑田真澄の話をブログで書いたから、バカにしたのだろう。
 私は高校時代から、さまざまなジャンルの本を読んできた。息抜きに読んだものもあるし、苦労して読んだ本もある。
 あまりこだわりはない。ただ、巷間大受けしているベストセラーとか、見るからに著者の顔つきが卑しいなんて場合も遠ざけている。

 私がイチローや桑田の本を読んだのは、息抜きのうちである。普段はクラシックを聴いているがたまには歌謡曲や唱歌を聴きたくなるようなものだ。
 はじめから全てを受け入れようと思って、いわば眦(まなじり)を決して読みにかかるのは、師たる南ク継正先生の著作か南ク学派の方の著書である。

 そうではない、例えば先日紹介した桑田の本などはどう読むかと言えば、この著者が言っていることの、どこをどうすれば正しくなるか…と考えながら読んで行くものである。私の友人が揶揄したように、桑田ごときの本を熟読するわけも、座右の銘にするわけもないではないか。

 元巨人の桑田は高卒で、野球選手のなかでは学業もちゃんとやったようだし、専門の野球とその周辺をよく勉強しているのは褒められていいし、人間的にもなかなか優れている。
 しかし、高卒ではいかんせん一般教養がない。彼自身もそれを痛感してだろうか、引退後に早稲田大学大学院に入って勉強しているようだが、二十歳前後の頭脳がみずみずしいうちに、大学で一般教養を身につけなかったことは、大きな欠陥となっている。

 例えばそんなことをしみじみ思いつつ、彼の本を読んだことである。彼がもし野球を学問的に究明したいのなら、二十歳前後のときに一般教養をしっかり身につけておかねばならなかった。その大事なときに、彼はジャイアンツのエースとして活躍していたのだからしょうがない。

 エンゲルスは、事業家の家に生まれ紡績業で身を立てていた。大学に聴講に行ってそこで共産主義にかぶれるわけだが、一般教養の点では残念ながら…のレベルであった。その点ではマルクスはギムナジウム(高校)でもボン大学でもちゃんと勉強し、一般教養を身につけている。徐々に革命へ傾いて行くが、幅広い学問を真面目に履修していた。

 だから、思想的は共産主義という今では間違っている考えを信奉したが、世界史に残る学者の片割れとはなっている。
 例えば『共産党宣言』には、マルクスとエンゲルスの2人の“宣言”が載っているが、マルクスの文章の格調の高いことは、エンゲルスの遠く及ばないものである。あれが一般教養のあるなしの、際立った証拠というべきであろう。

 日本で言うと、旧制高校で学んだ者と戦後の新制大学で学んだ者のレベルの違いである。作家でも歴然とした教養の深みの差がみられる。
 作家でいうのなら、学校に行っていない松本清張と、旧制高校を出た高木彬光の差であろうか。こういうことは、ただ聴いて知るだけではなく、実際に両者の推理小説を読んでみなければわからないことである。



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2017年01月12日

毎日新聞よ恥を知れ


 暮れのことだった。虎ノ門ニュースで石平氏と百田尚樹が毎日新聞を取り上げて批判したことに対して、毎日新聞はこれを名誉毀損として激怒し、番組中での謝罪を要求。受け入れなければ法的手段にも訴えると恫喝した事件が起きた。
 対する虎ノ門ニュース側は12月13日の番組で、毎日側の抗議文を公開した。毎日側は「この配達証明は公表しないでちょうだい」と要求していたものだが、虎ノ門ニュースは公平に視聴者に知っていただくためとして番組中に公表した。

 石平氏がバカ呼ばわりしたことは謝罪したものの、毎日新聞が送った公開禁止の書類を公開し、全面対決の姿勢を見せた。
 経緯は以下のサイトが詳しく報じている。ご存じない方はご覧あれ。
http://netgeek.biz/archives/89132

 私は問題とされた11月15日の番組と、反論している12月13日の虎ノ門ニュースのいずれも見た。石平氏が興奮して「バカ新聞」と罵っているのは、たしかに評論家のありようとしては良くなかった。それを彼も認めて謝罪したのは正しい。

 しかし、その他は毎日新聞が全面的に間違っている。報道機関にあるまじき傲慢、破廉恥な所業としか言い様がない。まったく何様だと思っていやがる。仰々しく配達証明郵便を送りつけ、訴えるぞとわめくようなことじゃない。
 電話でもして、「バカ」発言には抗議すれば良いだけのことだった。

 それをサヨクお定まりの、名誉毀損で法的手段に訴えるという高飛車な姿勢は醜悪である。元からサヨク毎日新聞は、虎ノ門ニュースに出て来る論客が「極右」に見えているのだろうし、テメエたちは絶対に原稿を書かせないし、無視する人だから、その憎しみに火がついたのだ。

 右翼論客を脅して、黙らせようとの意図しか感じられない。名誉毀損とも思えない。毎日は評論家・作家に紙面創りのありようを批判されただけである。それに不服があるなら、堂々虎ノ門ニュースに公開討論を申し込めば済む。

 そもそも、毎日新聞は人様の名誉は平気で毀損してきたばかりか、殺すまでに至らしめた過去がある。昭和12年の日本軍の南京侵攻の中で、「百人斬り」をデッチあげたことをいまだに認めない破廉恥ぶりである。
 この事実を知りながら、社員はよく平気で会社に勤務していられるものだ。

 西山太吉事件(沖縄密約事件)でも、被害にあった外務省の女性を自殺に追い込んでいる。こっちは名誉毀損じゃないのか。名誉云々どころか犯罪ではないか。
 百田氏も挙げていたが、毎日新聞英語版(毎日デイリーニュース)で、日本人は異常セックスをしているとさんざん途方もないウソを世界に発信してきた(1989〜2001年)くせに、これは日本人全ての人への明白な名誉毀損、侮辱であった。
 いったいどのツラさげて、「バカ社」と言われた程度のことで、法的手段に訴えるぞと言える?

 イエローペーパー並みの新聞のくせに、報道特権を持ち、それを大衆が許しているのが、日本の問題ではないか。
 毎日新聞や「サンデー毎日」から原稿を依頼された人は、よく平気で書けるものだ。インタビューされた人も、よく平気で応じて記事にさせるものだ。私には信じられないと、本ブログでは何度も述べてきた。

 虎ノ門ニュースでは、回答を待ったがついに返事は来なかった。おそらくこれは薮をつついて蛇を出してしまったと慌てたのだろう。
 毎日は廃刊しなければいけない新聞である。
 
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2017年01月11日

ホタテ貝殻で野菜から農薬を除く


 なにかで読んだか、友人に教えられたか忘れたが、以前、ホタテ貝殻農薬除去パウダーを使っていたことがある。
 これは優れものだったが、簡単なようで面倒もあるので、1袋終わったあとは再購入せずにいつの間にか忘れていた。
 最近ふと、朝にスムージーを飲んでみようかと思い立ったときに、やはり野菜や果物は皮ごと入れたいと思って、それなら多少なりとも農薬が除去できる、昔使ったホタテの貝殻をまた使ってみようという気になった。

 これは原料はホタテの貝殻だけである。それを天日干ししてから、高温で焼成し、さらに粉砕した灰色のパウダーである。要するに貝殻の石灰を焼いているから、生石灰で、酸化カルシウム(強アルカリ性)の粉ということになる。

 畜産農家では消毒用に、生石灰を畜舎に撒く。農家では土をアルカリ性にするために消石灰を撒く。それと同じことである。ほかにも、こんにゃくの凝固剤に使われ、食品、化粧品など生活用品に利用される。壁や天井に塗られる漆喰(しっくい)は砂などと練りあわせたもの。
 私の子供のころは学校のグラウンドに白線として引いていたのが消石灰だったが、目に入ると有害と言われるようになって、今では使われなくなりつつある。

 これを水に溶かし、水酸化カルシム溶液(消石灰)にし、野菜や果物を切らずにしばらく漬ける。
 ものによっては、水の色が妙に変わり油分が浮いてくることがある。商品説明では、これで表面の残留農薬が40〜90%は除去できると書いてある。

 水酸化カルシウム溶液につけて、5〜10分たったら、すすぎ洗いして食べる。簡単といえばそう言えるが、仕事があり家事も忙しいなか、この時間をつくるのが結構大変で、だんだん億劫になってしまったのが過去である。
 野菜、果物の中まで浸透した農薬は除去できないが表面の農薬はある程度除去できるそうだ。

 農薬以外の野菜に含まれる物質が溶け出して、水溶液の色を変えているという批判もあるようだが、いくらかでも効果があるならやりたくなる。
 実際、不気味な油がドッと浮いているのを見るとゾッとする。
 農薬の多くは親油性だから(雨で流れないようにするため)、台所で水洗いしても除去できない。

 昔、家庭用洗剤が登場したときには画期的商品と持てはやされた。最初は「ライポン」という液体洗剤で、食器洗いだけでなく、野菜類の農薬除去もできると宣伝されて、爆発的に売れるようになった。
 家事評論家なんぞも動員されて、ライポンで洗わないと回虫なんかも除去できません、と脅された。
 なかには先米にまで使う人があらわれた。

 しかし、農薬除去はウソだったと暴露され、ライポンと調味料を間違えて料理に使った人が死んだかした事件が起きて、野菜洗いには使われなくなり、食器洗いだけになった。
 一方で、洗剤をどこの家庭でも使うようになり、汚水が川に流れて、いっせいに河川が泡立つ現象が起き、魚が死に、公害が大問題になった。

 ライオンや花王はそういう消費者騙しをやったことを、私は忘れない。
 農薬が怖いからとて、自然食店で買うとなると非常に高く、庶民にはなかなか手が出ない。どうしても安いスーパーマーケットで購入することになる。
 それでガン患者が多くなり、病院がウハウハになるという循環。

 この大問題をいかに解決するかが人類の喫緊の課題なのだが、なかなか無農薬、無肥料の作物は実現しない。
 で、せめて家に届いた野菜の農薬をなんとか少しでも除去できないかという発想の一がこのホタテ貝殻の利用なのだが…。




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2017年01月10日

政治はしょせん束の間の「結果」にすぎず(2/2)


《2》
 国家や世界史の大きくてダイナミックな像ができている政治家も大学教授も評論家もいないらしい。みんな政治評論はやれるのだが。
 これを理解していただくのはとても難しい。
 そこでこれはあまりに畑違いで適当かどうかわからないし、またかと言われそうだが、元ジャイアンツの桑田真澄氏の本から引用してみたい。この話にいくらか近いかと思われるので。

 「結果さえ出せば文句を言われることもないと、どんな人に聞いてもそう言う。それは僕もわかる。何が大事かというと確かに一番に結果だ。みんなそこで終わりだけれど、僕はその上にもうひとつあると思う。それがプロセスだ。
 いかに目標を持って、それに向かって頑張っていくかというプロセス。結果の上にプロセスがあるというのが、僕の信念なのだ。だから試合に負けても全然不安ではない。自分のピッチングができていれば気分もいい。」

 「目標を立てて、そこに向かって努力して行くという生き方が、僕は好きです。でもその目標が達成したから偉いわけでも、達成できなかったから駄目なのでもない。大事なことは、目標を立てて、全力で努力して行くプロセスだと思うのです。それが『桑田真澄という生き方』です。ベストを尽くし、頑張っている自分が好きなのです」

 「野球は正味六か月ほどのシーズンだけれど、簡単なようでいて、コンディションの維持は難しいものだ。移動する、気候も違う、食べ物も変わる、いろいろなファクターがある」


 これらは桑田氏の『試練が人を磨く』(扶桑社文庫)から拾ったものだ。彼個人の思い(生きざま)を語っているし、「プロセス」という言葉はしっくりは来ないが、およそのニュアンスはわかる。
 つまり、桑田氏のいう野球の勝負の「結果」は、政治の結果、あるいは戦争の勝敗と読み替えてほしい。
 政治評論のレベルでは、要は「結果」を云々するばかりなのだ。

 しかし政治の結果は大事だけれど、と桑田は言っているようなものだ。その上にもっと大事なもの、広いもの、大きなものがあるじゃないかというのである。彼はそれを野球でいえば、上達しようとした努力過程とか、チームワークとか、みんなで地域の掃除をしたこととか、相手チームへの敬意やフェアなありようとか、上下関係の厳しさとか、監督からの指導や後輩への指導とかで得たものとか、それはただの勝ち負けより大事なものがあるのである。

 そうしたありようを譬えて、私は、政治的結果だけでなく、社会の実存、国家のありよう、それであると言っている。
 ところが民進党などは、選挙で勝つことや、そのために自民党と政府に失点させるという「結果」しか求めていないではないか。たしかに現今の政治の世界では、そんな小さなことが大事で、「結果」だけが求められる。票にならないことは代議士どもはみんな関心がないというテイタラクだ。

 日本史を振り返ってみれば容易くわかることだ。源氏が勝ったの、信長が負けたの、徳川幕府が勝ったの、倒されたのと、「結果」は教科書にも羅列してあるし、それはその都度、重要なことではあったが、今日のわたしたち社会にとっては、そんな「結果」はすべてじゃなかったと分かるだろうに。
 例えばそんな政治的結果よりも、大和魂やら、感情の豊かさやら、勤勉さやら、誇りやら、さまざまなファクターの集合に核心があるのではないか。

 先月、ロシアのプーチン大統領が来日して、日露首脳会談が持たれた。北方四島が返還されるかどうかがマスゴミや評論家の話題になり、安倍首相の対露外交は失敗だったぞと騒がれたけれど、まさにそんな「結果」にばかり目を向けるしかない、ケツの穴の小さな連中ばかりであった。

 安倍首相が、これからの日露関係は全く新しい発想で、新しい国家関係、経済活動をお互いに考えていこうではないかと提案しているのだから、「そんなのはダメだ「なにか裏取引がある」「プーチンにいいようにあしらわれている」などと、これまで古い価値観で足を引っ張ろうとするばかり。

 安倍首相の発想を批判するのも構わないが、一方ででは安倍首相の発案をもと素晴らしい、これまでの世界史をひっくり返すような斬新な関係とは何かを、安倍の提案をもっと凌駕するほどのアイデアを出してどうか。
 たとえば、暮れの日露会談で合意に達した関係を、実現してロシアにも大きなメリットがあると分かってもらったら、逆にロシアから千島全島や樺太全島までも返還する、日本領にぜひしてくれと言ってくるようになるかもしれないではないか。

 戦争で奪われたものは戦争によってしか取り返せないと言われたものだが、それはこれまで国家関係では、という話であって、戦争しないで取り返すばかりでなく、さらに良好な日露関係を創るには、と考え議論するほうがいいではないか。ロシアに甘い顔をするなとは、今は正しい意見ではあるが、人類史という観点で考えて、いつまでもそれでいがみ合うことだけが正しいのか、である。

 国会ではまさにそういう議論を自由闊達にやればいい。ところがくだらない言葉狩りばっかり。政治はことごとく矮小化し、それが国会だとみんな思い込んでいる。

 冒頭に取り上げた友人のメールでは「議論らしい議論がない」と国会やマスゴミのありように批判的であった。それはそのとおりだが、その議論がただ政治だけにとどまっている、あるいは自分の国のことしか考えない政治の議論は、この21世紀にはいかがなものであろうか? そういう問題提起をしてみた。



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2017年01月09日

政治はしょせん束の間の「結果」にすぎず(1/2)


《1》
 ある友人から、メールをいただき、そのなかに政治の話題があって、野党のありように疑問・批判を呈してあった。
 「TPPをめぐり、『トランプさんが、やらないとはっきり言っているのに、議論する自体が、時間の無駄じゃありません?』と、党首が言い立てるようなら国会って何なんだと思うわけです。
 戦争推進法案、年金カット法案……。そう名付け、マスコミも乗せ、議論らしい議論がまるでない。」

 もうあまりに哀れで話題にもしたくないし、ほかに大勢の人が野党をバカにしているから言うには及ばない。
 友人の見解はまずはそのとおりで、民進党の醜態ここに極まれりである。
 しかし、そもそも民進党は、国会議事で“議事”をやる気はさらさらないようだ。自民党や安倍政権の足を引っ張るか言葉尻をとらえての揚げ足とりしかできない。

 たしかに、自民党と政府には驕りがあって、言ってはならぬ失言はあったが、それで審議を妨害し、欠席し、罷免を要求して国会を空転させるのは愚かである。それだけ駄々をこねて国会の経費だけで何億円を無駄にする。
 昨年末の「IR法」と「年金改革」の採決をめぐっては、不信任案を提出するなどして妨害し、深夜1時まで国会を延長させ、実にそれだけで1億円が無駄にふっとんだやに聞く。

 審議を採決結果はわかりきっているのに、深夜まで及ばせれば、国会スタッフも役人もみんなが帰宅できずに足止めをくらい、睡眠不足を強いられるわけだ。野党のただの嫌がらせと身勝手でこうなる。
 それも実のある議論をするなら、お国のためと我慢もできようが、威張りくさった国会議員には馬耳東風。

 民進党も共産党も、支持母体の労組の顔色をうかがっているだけ。それだけと言ったら、それだけ。支持母体にご満足いただけるよう、国会で政府に逆らってみせる。そうすれば、次の選挙でまた票を入れてくれるから。国家をどうするかの気概もなければ、責任感もない。
 むろん自民党のほうも顔は支持母体に向いてはいる。でも野党より国家運営の責任を自覚しているから、まあなんとかなっている。

 野党は、まちがって議論なんかして、与党に言い負かされでもしたら恥をかいて、支持者にダメと烙印を押されたら選挙に差し障る。だから揚げ足取り。イチャモン、勝手なレッテル貼りでお茶を濁らせて任期を務める。
 その顕著な例が、冒頭の、トランプがTTPはやらないと言ったから、もう議論してもしょうがない、の野党の言いようである。

 ちゃんと説明をしない安倍首相もよくないが、アメリカの都合で状況がどう変わろうと、どうあるのが国益に適うのか、では今後どうやって日本が世界のイニシアチブを取って行くか議論すればいいだけのことである。野党どもには国家観がない。ただその場しのぎで揚げ足をとるしかやらないからこうなる。

 友人が言う通り「戦争推進法案、年金カット法案……。そう名付け、マスコミも乗せ、議論らしい議論がまるでない」のは、実に野党の不勉強であり、国家とは何かがわかっていないからこその醜態を晒している。

 野党は、昨年、「国際平和支援法案」と、自衛隊法改正案など10の法律の改正案を一つにまとめた「平和安全法制整備法案」なのに、それを「戦争法案」と言い、「年金制度改革法案」も「年金カット法案」とぬかし、「IR法案」を「カジノ法案」と言い換え、あるいは沖縄普天間基地を辺野古に移転させることを「新基地建設」とウソをつく。それをマスゴミがグルになって大衆洗脳を図る。

 マスゴミの場合は、これも左翼購買層におべんちゃらを言うために(情報を買ってもらうために)、政府に対し「なんでも反対」をやらかしているだけ。そういうことによって、まともな議論がいつまでたってもできず、民主主義が成熟していかない。

 正月にアップした「戦争とは何か」でも書いたように、たいていは「政治」にしか頭が行かないようである。クラウゼビッツの「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」を取り上げて、どこがどう足りないかをしたためておいた。同様に、国会議員もマスゴミも、このレベルで思考を停止させているのがいけない。

 戦争とは、でいうなら、政治の継続とか延長とかでは不十分なのである。むろん政治と戦争の関連が一番大きな要素であるのはいうまでもないのだが。
 人間は社会的存在であるところから踏まえ、その社会にとって国家形態の必然性、そして自然も文化も経済もなにもかもが全体を形成している、そのなかの切り離せない要素として戦争があるのだということである。

 だから民進党と親和性の高い「市民団体」で「戦争させない○○委員会」「非戦○○会議」なんて言っているザイニチ系の連中は、そもそもの誤謬をかかえている。まあ実態は誤謬というより、やつらはただ日本を滅亡させたいだけだが、理屈が根底から幼稚である。
 
 南ク継正先生の『武道哲学講義』には世界史とは何かが解かれているのだから、それを読んで国家とは何か、世界史とは何かを学習してほしい。それも怠けておいて、政治や国家を語るなよ。





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2017年01月07日

弁当の「楽園」


 しばらく前に、人間の顔をとりあげたときにNHKの「サラメシ」という番組のことを書いた。いろいろな職場の日本人の顔がみんないい顔をしている、と。
 それだけでなく、あの番組では人の弁当を見るのもひとつの愉しみである。どこかの店のランチでも構わなくて、商品でも飾りつけを見るのも楽しい。

 たぶん、日本人なら人の弁当を覗かせてもらうのが好きではなかろうか。昔は、家が貧乏でおかずが貧弱なため、隠しながら教室で食べた…なんて話も聞いたけれど、今はめったにそんな悲劇はあるまい。
 お母さんが子供のために弁当をつくるときに、栄養も考えるが、見栄えも良く考えてくれるのは、常識であろう。

 お金だけもたせて、コンビニ弁当や出来合いのサンドイッチを買わせるなんて言語道断であり、母親失格だ。
 教室なり職場なりで、人の弁当をみさせてもらうのは、「おいしそうなもの」を見るのが好きだからだし、お母さんや奥さんの愛情の表現を見るのが好きだからではなかろうか。

 よくスマホで弁当の写真を撮って保存している人がいる。みんな思わずニコニコしてくる。それくらいみんな弁当を見るのが好きなのだ。
 NHKは潰れろと日ごろは思ってはいるが、その意味で、「サラメシ」はいいところに目をつけた番組であった。ナレーションをやっている中井貴一のテイストもはまっている。みんな実は人さまのおいしそうな弁当を覗かせてもらうのが好きなんだという気持ちを、中井は分かっている。

 外国にはそれぞれ食事を楽しむ楽しみ方はあるだろうけれど、日本では昼飯のときに、自分のお母さんがつくってくれたおいしい弁当も楽しむだけでなく、友だちの弁当や、会社の同僚の愛妻弁当を覗いて「おいしそう!」と言いあうのも大きな楽しみとなっている。
 梅干しの海苔を巻いたおむすびであっても、それを包んであるラップや銀紙ですら、愛情込めて大事そうに包まれているのを見るのだって、嬉しいものだ。おかずがなくても、である。

 これは後世に伝えたい良い習慣である。
 以下は元ジャイアンツの投手だった桑田真澄氏の著書にあったエピソードである。

     *     *

 中学時代のお弁当の時間のことだった。
 「桑田君、早くお弁当を開けてぇよ」
 「なんでやねん!?」
 「いいから、早くあけてよ。桑田君のお弁当が見たいんやから」
 包みをほどいて、蓋を開ける。空腹だから、早く食べたいのだけれど、みんないつまでも覗き込んでいるから、なかなか箸をつけることができない。

 「いつ見ても、きれいだなあ。桑田君のお弁当は」
 みんな僕のお弁当を見るのを楽しみにしていた。
 当時カメラ付き携帯電話でもあったら、みんなが写真のおさめたがり、僕はさらに箸をつけるのが遅くなったかもしれない。今でも、そんなふうに思うぐらい、毎日、騒ぎになっていた。
 事実、母のお弁当は大好きだったし、きれいで愛情がたっぷり詰まっていた。

 ゴマで「ファイト」、紅しょうがで「がんばれ」と書いてあったこともあった。
 母は夜遅くまで家事をしたり、内職していた。それでも、早く起きて姉弟三人のお弁当を作ってくれた。
 いつも愛情がたっぷりのお弁当で、今でも鮮明に覚えている。

 僕の家は、あまり裕福な家ではなかった。だから、ユニフォームもソックスも、つぎはぎだらけ、それでも、駄々をこねることはなかった。
 それはある日の朝、いつもより早く起きたとき、僕は母親がソックスを繕っている姿を見たからだった。夜、僕たちを寝かしつけてから、ユニフォームを洗濯して、乾かして、それから繕って……そんな作業を徹夜してやってくれていた。

 僕は母親のその背中を見たとき、「オレは堂々としなきゃあかん」と思った。
 チームメイトに「なんやお前、その靴下は。きたないのうー。やぶれとるやないけ」とからかわれても、
 「ええねん、これでええねん、野球がうまかったら、それでええねん」と言い続けた。

 そして「将来、オレが絶対おかんのために家を建てて、楽さしてあげるんや」と、心にそう決めていたのだ。
 母の愛情を身体いっぱいに浴びて、僕は野球に打ち込むことができた。
   (『心の野球』幻冬舎文庫より)

     *    *

 桑田投手の常に努力する生きざま、性格の良さはこうして母親が作ったのである。彼はプロに入ってから、マスゴミによってダーティなイメージを作らされたが、私は彼の顔つきから、悪いのはマスゴミだと確信していた。

 桑田氏が挙げている中学時代の教室の様子は、実に美しいと言ったらいいか…。弁当一つで、教室の、友人関係の一体感を作りだすのだからたいしたものである。それぞれの生徒の関係だけでなく、それをそれぞれの家庭も支えているし、全体で「学校」なのだ。
 NHKの「サラメシ」のその代替であろうか。弁当を仲立ちにして私たちは良いコミュニケーションを創りだしている。

 学校では給食、職場では社員食堂、それも悪くはないが、やはり弁当を持ち寄っていっしょに広げて食べることが、どれほど人間形成に役立っているか、ではなかろうか。




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2017年01月06日

シャンプーの害と「量質転化」


 ボルネオとかインドネシアとか、都会ではなく森林地帯で暮らしているような人たちは誰もが、映像で見ると髪の毛が黒々としている。
 彼らは、昔からシャンプーやリンスを使って髪を洗ったことなどない。たぶん石鹸も使わないだろう。なのに、黒髪ふさふさなのである。

 カツラを製造しているメーカーは、昔は女の人の長い髪の毛を買って加工していたようだが、日本女性の髪は使えないとして、南方の女性の髪を輸入していると聞いたことがある。
 なぜ日本女性の髪の毛がダメかというと、長年シャンプーで洗髪しているし、染めているから、非常に質が悪くカツラにはならないそうだ。

 日本の女性は、シャンプーにリンス、トリートメントなどを使って、懸命に髪のダメージをなくそうと努めているようだが、やればやるほど悪循環に陥り、洗剤メーカーの思う壷になる。
 しかもよせばいいのに、本来の黒髪を嫌って、西洋人の真似をしたがって茶髪に染め、いよいよ髪を傷め付ける。

 もっとも最近はテレビでカツラのCMを見ると、人の髪の毛を原料にしているとは思えない。翁長沖縄県知事のカツラなんぞは、見るからにみっともなく、化学的繊維の毛髪であろう。
 シャンプーを使わない南方の人の黒髪は、ツヤがあって健康そうに見える。

 私は以前にも書いたことがあるが、洗髪にシャンプーは使わない。ゾッとする。床屋に行くとシャンプーでしかも頭皮を徹底してマッサージしながら洗髪してくれるので困惑する。
 床屋は調髪が済んだ後、頭にヘアトニックか何か付けますか? とサービスで尋ねてくるが、断固として断っている。
 いきつけの床屋の理髪師が禿げているのが笑える。

 私はもっぱら竹の粉を頭に振りかけてパラパラと落としながらこするのと、お湯で流すだけ。せいぜい週に1回、石鹸で洗うくらい。その石鹸はシャボン玉石鹸を使う。

 長髪に出来ないことはないが、三十代で空手をやるようになって、短髪に変えた。おかげでヘアドライヤーも使ったことがない。ドライヤーは頭皮の皮脂を剥がしてしまう。
 髪を流す湯は浴槽のを使い、シャワーではない。浴槽の湯は一工夫してあって、水道水で沸かしてから、ビタミンCの粉末を茶さじ1杯入れて、瞬時に塩素を中和させている。
 だから髪を塩素で傷めることがない。

 私は若いころから、男が若くても禿げている人を見るにつけ、食事が悪かったり睡眠の取り方が悪いせいだろうと思っていた。
 世間に出回る育毛剤はイカサマにちがいないと。育毛剤は効かない、あるいは気休め、そういう評判があったからだ。頭皮に薬をつけても効果はない、という事実は、つまり体全体の健康状態の悪さが頭髪の悪さになって現れると思っていた。

 今は竹の粉を主力にしているが、ひところは粗塩で洗っていた。これも天然由来の洗髪料というべきであろう。ほかには米ぬかとかもある。サイカチやムクロジの実を水に入れて泡立てて洗っていた。
 昔の人は米や麦を粉にして髪にまぶして梳くとか。米のとぎ汁で洗っていた。
 宮廷の女性の洗髪は年に1度くらい。

 江戸時代になると月に一回くらい。このころはフノリ(海藻)、うどん粉、卵白であったとか。
 それだから、髪が洗い過ぎや化学物質で痛むことがなかった。
 皮脂こそ天然の潤いだということを聞いていたから、私はシャンプーも何も使わないできた。

 天然素材と言っても、商品になったときには添加物がごまんとぶち込まれ人工的なものとなっていて、天然素材そのものではない。どうしても天然と言いたければ、江戸や明治のころの洗髪の仕方に戻るよりない。最近の日本人はどうも「天然」という言葉に弱くコロッと騙される。天然素材のシャンプーであっても、アレルギー物質は入っているらしい。

 私はそういうものにも騙されない。おかげで洗髪に関しては調髪料だのなんだのでカネを使わずに済んだ。
 それで最近、藤田紘一郎氏の『55歳のハゲた私が76歳でフサフサになった理由』(青萠社刊)の広告が目に止まったので、読んでみた。私自身が今後ハゲないために勉強しようと。
 たしかに本の表紙にある藤田氏の写真を見ると、55歳より今のほうが髪は黒々である。

 藤田さんは腸の健康をずっと主張してこられた方で、何冊か私は読んでいる。今回も黒髪のためには、腸の健康を保つことが書かれている。
 冒頭に書いたボルネオやインドネシアなどの原住民の髪が黒々としていて、健康そのものなのは、日本人よりずっと健康な暮らし方をしているからであると藤田氏は説いている。

 変なシャンプーでは洗わないし、調髪料は付けないし、石鹸すら使わず、水浴びだけ。それが理想なのだ。しかも彼らは民族で伝承されてきた自然に近い食事をとっているから腸内環境も優れている。
 
 この本には多くの科学的アドバイスがある。薄毛でお悩みの方、興味がある方は読まれるといいと思う。あれこれ紹介するのはちょっとしんどいから、一つだけ紹介する。
 どうしてもシャンプーを使うのなら、というアドバイスである。

     *     *

 私はフサフサの髪をきれいに整えるために油を使っているので、数日に1度はシャンプーを使います。「なんだ、シャンプーを使うんじゃないか」と思われたでしょうが、でも、私が1回に使う量は、1〜2滴です。髪につけた油を落とせばよいだけなので、1〜2滴で十分なのです。

 使用するシャンプーは、なんでもよいことにしています。数日に1度、1〜2滴しか使わないのですから、わざわざ高価なものを買ったりはしません。
 ただし、シャンプーは手で泡立ててから髪につけるようにし、泡で頭皮マッサージをするなどといった恐ろしいことはしません。なるべく頭皮につかないように気をつけながら、サッと髪を洗うだけです。

 そして、頭皮にシャンプー剤が残らないように5分間以上かけてぬるま湯でしっかり洗い流します。ラウレス硫酸ナトリウムは、1分間シャワーですすいでも、使用した量の20%が髪と頭皮に残ってしまうというデータもあります。たかが1〜2滴とはいえ、シャンプー剤が髪や頭皮につくと、洗い流すのには時間がかかるのです。

 また、シャンプー剤にこだわりはありませんが、同じものを連続して使わないようにしています。同じシャンプーを使い続けていると、同一の成分を長期間、頭皮に続けることになるからです。シャンプーの成分の中に、万が一、体質に適さないものがあったとしても、商品をかえることで、そのリスクを回避できるでしょう。

 なお、「天然」「無添加」をうたうものも使いません。貧乏なので高価なものは買えない、ということもありますが、シャンプー剤の場合、本当に防腐剤が入っていないと怖いからです。高温多湿の浴室に長期間置いておくシャンプー剤に防腐剤が入っていなければ、細菌やカビが発生するのは避けられないでしょう。

 「髪に栄養や頭皮に栄養を与える」と宣伝するシャンプーにも興味はありません。皮膚は排泄器官であって、栄養を吸収する場所ではないからです。頭皮と毛母細胞の栄養となるのは、血液を通して届けられる、腸で消化吸収された食べ物だけです。

     *     *

 同じシャンプー剤を使い続けてはならぬ、とあるのは、藤田氏が弁証法がわかっておられるのである。同じものを使い続ければ量質転化するからだ。これは食事でも同じくで、毒でないにしても肉を食べるのであれば、毎日食べるなら、ブタ、牛、鳥、ラム…と変えるべきであって、好きだからと毎日ビフテキなんかを食べ続けるのはよろしくない。




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2017年01月05日

中共人民解放軍は弱い 再び


 某日、ある酒席で友人とやや論争になった。友人は近いうちに支那軍が日本を攻撃してくると断言するのだ。私は危険性が全くないではないが、ほとんど攻撃(戦争)はできないと言った。
 友人は、ミサイルはボタン一つで済むのだから、支那がその気になれば核を搭載したミサイルを飛ばして来る、それで日本は降伏すると言うのである

 どうも、支那の軍隊の実情をご存じないようであった。新聞やテレビのテキトーな記事では真実は見えない。
 南支那海の岩礁を埋め立てて、滑走路は造ったものの、あの岩礁はサンゴ礁であるから、多少土砂を運んで埋めても、地盤が弱過ぎて旅客機や輸送機は離着陸は不可能だ。
 日本のマスゴミはそういう調べもしないで、脅威だと騒ぐ。すべて見てくればかりが支那人である。

 支那の軍隊が弱いことはこれまでにも何度か書いてきた。中共軍は、ヴェトナムやフィリピンといった軍事力の弱いところへは軍隊を押し出せるが、アメリカや日本、ロシアには手が出せない。その2流のヴェトナム軍にさえ惨敗した。

 日本へは尖閣諸島で、特殊部隊を偽造漁民にして上陸させてくるかもしれないが、戦争状態にはできない。
 小競り合いはやりたいだろう。それで領土問題が二国間にあると認めさせたいからである。あるいは総額100兆円になるらしい海底油田の利権を奪いたいのだ。

 中共はさまざまに武器は持っていても、運用する実力がない。メンテナンスの実力も乏しい。軍としての組織力がお粗末である。これを習近平は改革しようとしているが、習自身に実力も人望もないなかでは遅々として進まない。

 例えば海軍だと、3つの艦隊に分かれている。北海艦隊、東海艦隊、南海艦隊だが、互いに連絡がなく、統一した海軍組織になっていないばかりか、ケンカをしている。南支那海で岩礁を埋め立てて基地にしちゃったのは、南海艦隊の独断専行で、東海艦隊が日本の尖閣諸島で注目を浴びているのに嫉妬して、俺たちも一つ派手な仕事をしたいとおっぱじめたのである。

 そればかりか、同じ艦隊のなかでも、艦種が違う軍艦とは共同訓練をやったことがない(最近やっと始めた)。例えば、イージス艦とフリゲート艦と潜水艦と、というように能力の違う艦種がそれぞれの役割を果たしつつ、互いを守り、共同作戦を行なえるのが、アメリカ、日本、インドなどの海軍であるのに、それが出来ない。それではまずいと習近平は焦るがなかなか改善できない。縄張りが大事なのである。

 陸海空いずれもそうだが、個々の兵器とか艦船の能力ではなく、複数の艦艇、艦隊群の機動的運用ができるかどうかなのである。
 中共はロシアとウクライナを騙してスクラップにするはずの空母を買い取り、ハリボテの空母にしたが、大東亜戦争のころからそうだが、空母は単独では運用できないものであって、必ず艦隊で行動する。

 そのために重要なことが、指揮通信情報システムとオペレーション能力である。これがアメリカや日本は優秀だが、中共は覚束ないのである。中共海軍は艦船がバラバラに動くしかない。
 とてもじゃないが、ミサイルはボタン一つ押せば済むと言えるシロモノではない。

 朝鮮戦争を扱った韓国の映画、『戦友』や『ブラザーフッド』を見ると、中共の人海戦術の様子がよくわかる。
 中共軍は数を頼んで歩兵にドッと突撃させる。普通の戦場なら、中隊同士の戦闘、あるいは大きくても大隊同士の戦闘となるわけで、兵力もそう差はなく、指揮次第、闘魂次第で勝敗が決まって来るものだが、中共の「義勇軍」というやつはそんなレベルではない。

 戦場で100人単位でにらみ合っているようなところへ、一気に何十万の兵隊を突撃させる。ろくに武器を持っていなくても構わない。これでは韓国軍、米軍はいくら砲撃量が多かろうが精度が高かろうが、何十万の歩兵の突撃を食い止めるすべがなくなる。
 中共軍は兵士の損耗を全然考えない。例えばある基地を攻撃するのに、何十万の兵隊がほとんど殺されたとしても、しゃにむに数を頼んで最後は数人でも残った兵士が連合軍を撤退させればいいのだ。

 100人しかいない部隊で、弾薬も揃っていても、何十万の突撃には耐えきれない。そうやって朝鮮戦争では中共が敗戦直前の北朝鮮を持ち直したのである。
 作戦もなにもない。普通は自軍の損耗が出ないように作戦を立てるものを、中共は気にしない。

 これは独ソ戦でソ連軍が取った戦術である。スターリンが人海戦術を考え実行させた。ソ連軍は勝つには勝ったが、ドイツ軍より兵員の死者が多かった。兵隊の命が圧倒的に軽い。毛沢東はそれを真似た。そもそも中共軍つまり人民解放軍は共産党の軍事組織であって、国家の軍隊ではないから、自国民が死ぬのは気にしないのだ。

 こういう考えだから、伝統的に指揮通信情報システムやオペレーション能力は蔑ろ。ソ連もそうだったが、中共にも自由がない。自由がないところでは技術革新が結局できない。自由主義国に負ける。

 中共は文化大革命のときに、毛沢東の鶴の一声で士官学校を廃止した。軍隊のなかに階級を設けるな、と。軍隊の幹部は忠誠心のある兵隊から昇進させればよく、学校を出たからといって幹部にしてはならぬ、と厳命した。今は士官学校は復活しているが、15年間も幹部を要請する空白期間ができてしまった。

 現在の将官クラスの大半はこの幹部、指揮官としての基礎訓練を受けていない。
 自衛官の幹部クラスはみんな英語が話せる。それはアメリカ軍に組み入れられているせいではあるが、同盟国なのだからそうでないとスムースな連絡がとれない。しかし中共軍は英語がしゃべれる将官はほとんどいない。通訳付きでやっている。

 中共軍はそれどころか、地方によって北京語、広東語など全く通じないから、軍隊のなかでも命令が簡単には伝わらない。
 士官学校は復活したが、アメリカならアナポリスの海軍兵学校、自衛隊なら江田島の兵学校があって、国に1つの統率が取れる。言語も統一される。だが、中共はいくつも勝手に士官学校があって、バラバラ。言葉も通じない。

 中越戦争では、中共軍はヴェトナムに60万の陸軍を投入したが、装備の劣るヴェトナム軍に惨敗した。敗因は言葉にあった。部隊内で話が通じないのだ。
 朝鮮戦争でも言葉が通じなくても、兵隊が大量に死ぬことも厭わず人海戦術で突撃させれば良かったのとなんの進歩もなかった。
 中共指導部はなんとかしたいようだが、一朝一夕に支那人のデタラメな性格は変わらない。




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2017年01月04日

戦争とは何か(3/3)


《3》
 戦争は何かに戻りたい。
 戦争が起きるのは、対峙しているA国とB国が国家的利害を巡って対立し、交渉では決着がつかなくなって、武力に訴えて己れの主張を通そうとするものである。昨今では国どうしとは限らず、内戦、独立戦争、拉致、テロなども含まれよう。冷戦もある。

 こうした事態は、交戦とか武力衝突とかで見るだけではなく、ありとあらゆる要素がからみあう。誤解、意地、打算、憎悪、怨恨、金儲け、天変地異…と、古今東西の戦争に見られる要素が見てとれる。
 人間とはそういうもの、人間とはそうならざるを得ないものである。仲良くする、平和であることは理想であっても、あり得ないのだ。

 なぜかといえば、人間は個として存在できはしない。共同体と直接に存在する、これである。別言すれば、昨日も言ったように、人間は社会関係でしか生きられない。
 その共同体、ないし社会関係は、サルの集団とは大きく異なって、歴史性を把持する。共同体によって言語も違ってくれば生活の仕方も違ってくる。利害も違う。
 我々日本人から見て、支那人や朝鮮人はなんと民度の低い連中だと呆れるが、それは歴史の積み重ねのしからしむるところであって、いわばもう変えられなくなっている。
 だから対峙すれば争いになる。武力で決着をつけるとか、経済制裁で締め上げるやり方もある。

 その拡大というか、武力をもって国どうし全面的に戦うことに発展したものが戦争なのだから、再三いうように、人間が共同体的存在であるかぎり、戦争は付きものである。
 日本国憲法の誤りは、人類そのものである共同体性、歴史性、を否定していることである。

 GHQの押し付け、占領政策だったというのも一理ではあるが、共同体の原理を否定している。そんなことも自称憲法学者は分からずに、護憲を正しいと信じている。
 個別に発生するA国との戦争、B国との武力衝突に反対するのはあり得ることだが、戦争そのものは否定できないのである。

 全体のなかの1要素で切り離せないもの、それが戦争である。
 虎ノ門ニュース(12月2日付)で武田邦彦氏が、多くの日本人は「戦争は嫌だ、だって人の命が一番大切だから」、というけれど、その気分はごもっともではあるが、戦争のほうが人命の損失が少なくてすむ場合があると語っていた。

 大東亜戦争はアメリカに不当な経済制裁を仕掛けられて、経済的に日本は立ち行かなくなるように追い込まれた。あのとき、日本政府の判断は、このまま戦争をしなくても国家は滅亡する、戦争に討ってでても滅亡する。ならば一か八か、そして我々の誇りのために戦おうとなったのだ。

 それが一例だが、念頭に置いて考えれば、一般的に言えば戦争をしなければ国民が1千万人死ぬ(殺される)が、戦争をすることで(軍人が、にはなるが)10万人死ぬ。戦争は悲惨であるが、こうやって死ぬ人間の数を少なくする効果はあるのだ、と武田氏は説く。
 それが古来の人類の知恵だ、と。

 古来人類の知恵という言い方はわかりやすい言い方ではあるが、私は採用しない。こういう現象が起きるのは、戦争だけが共同体同士の争いの解決法ではないからだ。
 敵対国が相手を経済的に締め上げて、国民を飢餓に追い込んで大量殺戮するのは、戦争ではないわけがない。争いの解決の一つであることに変わりない。

 武田氏の話は戦争を考える際のヒントにはなるだろう。
 ただ彼に欠けているのは、人間とは何かを踏まえた論議である。人間とは共同体としてしか存在できないということだ。
 だから、武田氏のいうように、共同体を守るためには、一千万人が犠牲になるか、10万人が犠牲になって少なく済ませるかの選択肢ができる。

 戦争で死ぬのは確かに家族や尊い命を持った個人ではあるが、そこだけ見るような左翼九条信者は間違いである。
 共同体を護るためにこそ軍備は備えなければならないし、犠牲を厭わぬ兵士が必要である。
 
 あるいは、現在、南スーダンに自衛隊が派遣されているけれど、アホな野党は犠牲者が出たらどうするとか戦闘に巻き込まれると騒ぐが、共同体を護るという観点が欠落している。スーダンごときで死ぬのはいかがなものかとは思うが、戦闘の経験は自衛隊にとっては必要で、その観点からは犠牲を厭わず「巻き込まれる」のは大いに結構である。

 どんなスポーツだって合唱だって、練習しないで勝てるわけがない。共同体として戦争の用意ができているためには、軽く実戦を経験しておくべきなのである。
 戦闘機をつくるにしても、開発段階でテストパイロットなどに犠牲が出ることがある。あるいは実戦のなかでトラブルで死ぬこともある。それが嫌だからと兵器の開発をしないでいたら、武器も機械も優秀にはならない。

 戦闘機でなくてもいい、旅客機だって現在私たちが安全で快適な空の旅ができるまでに、史上どれだけの犠牲があったかである。それがなぜ必要かといえば、共同体として必要があるからだ。
 だから犠牲になってくれた先人、祖国を命を犠牲にして戦ってくださった兵士に敬意を持って慰霊しなければならない。

 我が国にとって天皇はその最も重要な共同体の魂なのだから、共同体の存続のために犠牲になられた英霊を御親拝されないとは、あってはならぬことである。本当に今上天皇と皇后は左翼に染まっている。




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2017年01月03日

戦争とは何か(2/3)


《2》
 さて、先に触れたように、今回の主題は戦争の論理である。
 有名なのはプロイセンのカール・フォン・クラウゼヴィッツ将軍が書いた『戦争論』で、戦争の定義が話題になるときはいつでも俎上にあがる。「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」といった哲学的な論述が知られる。
 戦争に関しては孫子の兵法も知られるが、あれは戦術論/戦略論であって、「戦争とは何か」に正面切って定義しようとした書ではない。実にドイツ人らしいアプローチの仕方で感心する。

 目下のところはクラウゼヴィッツの定義が最良のものと言えるだろうが、いずれ書き替えられるときが来るだろう。
 先に「戦争も単体としては存在しない。世界の社会的全体の運動があって、そのなかの日本の社会があるだけであるからだ。よって戦争をなくすことはできない」としたためておいた。

 クラウゼヴィッツとどこが違うかといえば、彼は政治とか外交とかの延長で戦争を捉えようとしているが、私はさらに人間社会全体からの捉え方が必要ではないかと考えているということだ。
 現象的に捉えれば、クラウゼビヴィッツの説くとおりなのであるが、これは少なくとも「国家とは」から解かねばならないと私は考えるからだ。

 平易な言い方をすれば、人間は集団的存在であるから国家という統括の枠組みは直接の関係なのである。別々に分けることはできない。あるいは個々単体の人間の寄せ集めが社会とか国家ではない、と言ってもいい。
 人間は社会関係なしには生きられない。
 先に述べたように、「九条信者のごとく、日本が戦争を放棄します、交戦権もなしです、と言うのは重大な間違い」なのである。
 わかりやすく言えば、人間は別に手も足もなくても生きていけるじゃないか、と手足をなくしてしまうようなものである。

 譬えて悪いが「五体不満足」という方がいて、彼は手足がなくても生きていられるけれど、それは手厚い他人の保護と介助があるからである。単体としては生きられない。それと同じで、兵器を持ちません、戦争もしませんというのは、手足を切り取った人間と同じことである。だから日本はアメリカという手足で介助してもらっている、不具者である。

 サヨク九条信者が、武力を放棄し戦争関連法をなくしても、戦争はクラウゼヴィッツが言う通り、政治の別の手段だというのなら、政治のやり方ひとつで戦争は避けられるはず、と思い込むのも気の毒ではあるが無理はない。

 クラウゼヴィッツが学問的に定義しようとした事は人類にとって画期的であったものの、そろそろ見直さなければいけなかろう。
 それをわかっていただくために、あの手この手で戦争とは何かを探っている。

 次に遠回りながら、経済学で考えてみよう。
 「経済コラムマガジン」(16年12月5日号)に以下の文章があった。
 「〈解説〉ヘリコプターマネー反対派は日本のデフレギャップがわずかGDPの1〜2%と主張する。しかし推進派はこの数字が現実離れしていると批難する。これに対して反対派は、国際標準の算出方法を用いて算出した結果と譲らない。しかし推進派は、国際標準の算出方法は発展途上国や慢性的に供給不足が続いている国を前提にしていると指摘する。したがって日本のように慢性的に需要が不足する国には適用できないとさらに反論する。
 このようにデフレギャップの数値に関する議論は、平行線を辿り水掛け論になってしまう。」


 この文章を論ずるわけではない。例として出しただけ。
 こういうものを読むと、たいていは経済ないし経済学の話だなと思う人が多かろうが、これは「エコノミストの論評とか研究」というべきだと私は思う。
 こんな議論が経済学と思われるから、ノーベル経済学賞なんかが認められるのだ。
 それで経済学とは金儲けのためにユダヤが造り出したインチキ学問だと主張する人もいる。

 ある人が私に、学問は本来、金儲けのためではなくて無前提であるべきだ。だが現実には必ず政治的に利用される。そのことに学者は無自覚であってはならないでしょう、と語ったことがある。
 私は以下のように答えた。
 経済学はインチキ学問とは思わない。ただ学として完成していないし、完成の目処も南郷学派以外では立っていない。

 個別科学で学としての一応の完成を見たのは、看護学だったのであって、ほかはすべて(インチキとはいわないが)ごちゃごちゃである。
 医学は南郷学派が完成に近づけている。

 ノーベル経済学賞を受けた研究は、ユダヤ金融資本の仲間褒めであって、いかにもインチキ。
 しかし、世間的にはその賞や論に反発してもいいわけだし、学問じゃないと言うのも正しいが、ユダヤ人がなぜそういう「経済学」をつくってきたのかも含めて解くのが経済学なのではないか。

 「学問は本来、無前提であるべき」というのは、常識では間違いではないが、そもそも誰も学問とは何かがわかっていないのに、わかったふうな気でいることこそ問題である。学問も藝術も、同じで適当な定義でやっちゃっている。
 さらに、その友人は「学問は必ず政治的に利用される。そのことに学者は無自覚であってはならないでしょうに…」とも呟いていた。

 このことも、倫理的な面というのか、世間的にはわかる話だが、そうやっていわば実利の面を切り捨ててはたして学問と言い得るのか。学問は政治や経済と切り離すことはできないはずである。たとえば数学は、戦争で勝つために考えだされたのだ。化学は錬金術の流行によって大きく発展することができた。
 学問は政治や経済と直接に発展してきているのだから。政治や商売をあたかも汚いものと見るのは、止めるべきではないだろうか。

 私が言っているのは、すべて本来は、「全部で一つ」なのだということだ。それが哲学であって、政治は政治、医学は医学と別物としてはいけない。人間の営為の全体があって、それを個別科学に分けただけなのである。
 「利用」という概念で見れば、倫理的な視点が立ち現れてくるのであって、むろんそれはそれで学究は無自覚であってはならないが、学問とは論理の話なのである。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2017年01月02日

戦争とは何か(1/3)


 明けましておめでとうございます。
 本年もどうぞよろしくお願い申しあげます。

《1》
 年末にはブログで、機械を使った筋トレが野球選手には有害であることを説いた。イチローの見解は、ダルビッシュよりは正解に近いが、あれは経験であった。
 われもわれもと筋トレに邁進し、その功罪をきちんと指導者やトレーナーが解けないのは、要するに弁証法も唯物論も理解できていないからである。

 私はむろん野球は素人だから、バッターはこの筋肉を鍛えろとか投手はこの筋肉を大きくしろとかの細かいことは言えないけれど、大まかなところは判断できるのは、空手で教わっているのと、弁証法、唯物論を多少は学んできたからである。

 イチローは筋トレを否定して、トラやライオンは筋トレなんかしない、と語ったのは素人的にはいい着眼ではあるが、ではそれが何故かを解けていない。
 例えば、ということで説くとしよう。大上段にふりかぶって、まずこの世界にはすべて化合物しかない。原子単体は存在しない。
 物質はすべては構造式を持っている、とも言えよう。

 原子はそれ独自の運動は不可能である。化合物のなかで、化合物を構成し成り立たせている原子の運動がある。
 別の例でいえば、台風は単体では存在しない。地球の物質の運動のなかの特殊な運動形態である。
 台風の被害が嫌だからといって、例えば水爆を爆発させて仮に台風を消滅させたら、地球の大気のみならずすべてが狂うことになる。

 だから、人体のなかで筋肉だけを取り出して鍛えることが如何に危険かを考えなければならない。人間だけが、認識的存在だから、自然を変えることを平気でやってしまう。良い面もある半面、悪いことも生じる。それが例えば筋トレのやり過ぎなのである。

 またサプリや薬物を摂取して、筋肉だけを増強させることも危険である。ロシアや支那のスポーツ選手が、オリンピックのためにと筋肉増強剤を使用して、メダルは取れても終わったあとに深刻な体の変調を訴えているではないか。

 こんな例はいくらでも挙げることができる。腸内細菌は誰でも知っているだろうが、一つの生命体に他の生命体が住み着いている矛盾。さらには腸内細菌が栄養素をつくり出してくれていることも知っているだろう。すなわち私たち生命体も“化合物”なのであって、そうでないと生きられない。
 生命体にとっては、菌やウイルスはなくてはならないものであって、決して忌み嫌ってはならない。

 なのに抗菌に神経質になったり、常に殺菌をしたり、洗いまくるとかはナンセンスである。生命体は外部も内部も、他の生命体と共存している。後述するが、体から細菌やウイルスを排除しようとすることは、社会のなかから戦争を排除しようとする考え方と同じである。そのことを今回は述べていきたい。

 認識の誕生によって、人類はサル以上の能力を持てるようにはなってきたし、ある限界内ではそれが可能だから、ときにはトラやライオンより強くなれる。武器の発明もそうだし、筋骨隆々になることもできる。
 さはさりながら、何にでも度外れにすることはかえって逆効果だったり、身を滅ぼすことにもなったりする。

 社会科学の分野に関わるが、戦争も単体としては存在しない。だから九条信者のごとく、日本が戦争を放棄します、交戦権もなしです、と言うのは如何に重大な間違いかである。世界の社会的全体の運動があって、そのなかの日本の社会があるだけであるからだ。よって戦争をなくすことはできない。社会も“化合物”だからだと譬えられようか。
 これについては《2》で後述する。

 人体の話に戻せば、細胞は一つひとつあるが、単体としてはないのと同じだ。細胞を1個、人体から取り出せば、人間の体自体が特殊な状態に置かれるし、その1個の細胞も体全体の統一した運動から外され、生きてはいけない。人体としては細胞1個を取り出しても、すぐに修復する力はあるが、それとこれは別の話である。

 だから人工授精や体外受精がいかに危険か、でもある。また、クローンは形ばかりはできても、まともな生命体といえるかどうかなのだ。iPS細胞もそれによって再生臓器ができるとしても、本物と同じ実力かどうかは不明である。

 もう一つ例をあげれば、高層マンションを建てることはできるが、そんな高いところに住めば、地球の磁気の影響(恩恵)を受けられなくなる。これも本来地上に住まなければならない生物のありようを否定する度外れな行動となる。生物は地球の磁気と同じ磁気を帯びて、そうした全体で成り立っているからだ。

 薬は無機物(多くは石油から?)を人工的に化合して生命現象の中に入れるのだから、副作用が起きる。飲用の薬ならまだしも消化器を通過して人間化できる過程がないではないが、いきなり注射して筋肉や血液にぶち込むのは、有効性はあるとしても、副作用は必ずあることになる。

 インフルエンザのワクチンも、人工化合物を人体の統一運動体=生命現象に入れるわけだからリスクはある。
 だが、漢方は植物などの煎じたものだから、食品にほぼ同じであって、副作用はまずない。
 これは、弁証法も唯物論も勉強したことがない人には、非常に理解が困難かと思う。

 だから様々な例を挙げて理解しやすく、と試みているが、かえって反発を食うだけかもしれない。たいていは現象だけを見てしまうよう、ココロの働きが決まっているからだ。世間の常識とか、学校教育ではそういうことしか教わらない。
 だから筋トレがなぜ悪い、実際に力がつくではないかと反発される。しかしそれでは筋トレをやればやるほどケガがしやすくなる訳が解けない。



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