2017年01月03日

戦争とは何か(2/3)


《2》
 さて、先に触れたように、今回の主題は戦争の論理である。
 有名なのはプロイセンのカール・フォン・クラウゼヴィッツ将軍が書いた『戦争論』で、戦争の定義が話題になるときはいつでも俎上にあがる。「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」といった哲学的な論述が知られる。
 戦争に関しては孫子の兵法も知られるが、あれは戦術論/戦略論であって、「戦争とは何か」に正面切って定義しようとした書ではない。実にドイツ人らしいアプローチの仕方で感心する。

 目下のところはクラウゼヴィッツの定義が最良のものと言えるだろうが、いずれ書き替えられるときが来るだろう。
 先に「戦争も単体としては存在しない。世界の社会的全体の運動があって、そのなかの日本の社会があるだけであるからだ。よって戦争をなくすことはできない」としたためておいた。

 クラウゼヴィッツとどこが違うかといえば、彼は政治とか外交とかの延長で戦争を捉えようとしているが、私はさらに人間社会全体からの捉え方が必要ではないかと考えているということだ。
 現象的に捉えれば、クラウゼビヴィッツの説くとおりなのであるが、これは少なくとも「国家とは」から解かねばならないと私は考えるからだ。

 平易な言い方をすれば、人間は集団的存在であるから国家という統括の枠組みは直接の関係なのである。別々に分けることはできない。あるいは個々単体の人間の寄せ集めが社会とか国家ではない、と言ってもいい。
 人間は社会関係なしには生きられない。
 先に述べたように、「九条信者のごとく、日本が戦争を放棄します、交戦権もなしです、と言うのは重大な間違い」なのである。
 わかりやすく言えば、人間は別に手も足もなくても生きていけるじゃないか、と手足をなくしてしまうようなものである。

 譬えて悪いが「五体不満足」という方がいて、彼は手足がなくても生きていられるけれど、それは手厚い他人の保護と介助があるからである。単体としては生きられない。それと同じで、兵器を持ちません、戦争もしませんというのは、手足を切り取った人間と同じことである。だから日本はアメリカという手足で介助してもらっている、不具者である。

 サヨク九条信者が、武力を放棄し戦争関連法をなくしても、戦争はクラウゼヴィッツが言う通り、政治の別の手段だというのなら、政治のやり方ひとつで戦争は避けられるはず、と思い込むのも気の毒ではあるが無理はない。

 クラウゼヴィッツが学問的に定義しようとした事は人類にとって画期的であったものの、そろそろ見直さなければいけなかろう。
 それをわかっていただくために、あの手この手で戦争とは何かを探っている。

 次に遠回りながら、経済学で考えてみよう。
 「経済コラムマガジン」(16年12月5日号)に以下の文章があった。
 「〈解説〉ヘリコプターマネー反対派は日本のデフレギャップがわずかGDPの1〜2%と主張する。しかし推進派はこの数字が現実離れしていると批難する。これに対して反対派は、国際標準の算出方法を用いて算出した結果と譲らない。しかし推進派は、国際標準の算出方法は発展途上国や慢性的に供給不足が続いている国を前提にしていると指摘する。したがって日本のように慢性的に需要が不足する国には適用できないとさらに反論する。
 このようにデフレギャップの数値に関する議論は、平行線を辿り水掛け論になってしまう。」


 この文章を論ずるわけではない。例として出しただけ。
 こういうものを読むと、たいていは経済ないし経済学の話だなと思う人が多かろうが、これは「エコノミストの論評とか研究」というべきだと私は思う。
 こんな議論が経済学と思われるから、ノーベル経済学賞なんかが認められるのだ。
 それで経済学とは金儲けのためにユダヤが造り出したインチキ学問だと主張する人もいる。

 ある人が私に、学問は本来、金儲けのためではなくて無前提であるべきだ。だが現実には必ず政治的に利用される。そのことに学者は無自覚であってはならないでしょう、と語ったことがある。
 私は以下のように答えた。
 経済学はインチキ学問とは思わない。ただ学として完成していないし、完成の目処も南郷学派以外では立っていない。

 個別科学で学としての一応の完成を見たのは、看護学だったのであって、ほかはすべて(インチキとはいわないが)ごちゃごちゃである。
 医学は南郷学派が完成に近づけている。

 ノーベル経済学賞を受けた研究は、ユダヤ金融資本の仲間褒めであって、いかにもインチキ。
 しかし、世間的にはその賞や論に反発してもいいわけだし、学問じゃないと言うのも正しいが、ユダヤ人がなぜそういう「経済学」をつくってきたのかも含めて解くのが経済学なのではないか。

 「学問は本来、無前提であるべき」というのは、常識では間違いではないが、そもそも誰も学問とは何かがわかっていないのに、わかったふうな気でいることこそ問題である。学問も藝術も、同じで適当な定義でやっちゃっている。
 さらに、その友人は「学問は必ず政治的に利用される。そのことに学者は無自覚であってはならないでしょうに…」とも呟いていた。

 このことも、倫理的な面というのか、世間的にはわかる話だが、そうやっていわば実利の面を切り捨ててはたして学問と言い得るのか。学問は政治や経済と切り離すことはできないはずである。たとえば数学は、戦争で勝つために考えだされたのだ。化学は錬金術の流行によって大きく発展することができた。
 学問は政治や経済と直接に発展してきているのだから。政治や商売をあたかも汚いものと見るのは、止めるべきではないだろうか。

 私が言っているのは、すべて本来は、「全部で一つ」なのだということだ。それが哲学であって、政治は政治、医学は医学と別物としてはいけない。人間の営為の全体があって、それを個別科学に分けただけなのである。
 「利用」という概念で見れば、倫理的な視点が立ち現れてくるのであって、むろんそれはそれで学究は無自覚であってはならないが、学問とは論理の話なのである。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする