2017年01月04日

戦争とは何か(3/3)


《3》
 戦争は何かに戻りたい。
 戦争が起きるのは、対峙しているA国とB国が国家的利害を巡って対立し、交渉では決着がつかなくなって、武力に訴えて己れの主張を通そうとするものである。昨今では国どうしとは限らず、内戦、独立戦争、拉致、テロなども含まれよう。冷戦もある。

 こうした事態は、交戦とか武力衝突とかで見るだけではなく、ありとあらゆる要素がからみあう。誤解、意地、打算、憎悪、怨恨、金儲け、天変地異…と、古今東西の戦争に見られる要素が見てとれる。
 人間とはそういうもの、人間とはそうならざるを得ないものである。仲良くする、平和であることは理想であっても、あり得ないのだ。

 なぜかといえば、人間は個として存在できはしない。共同体と直接に存在する、これである。別言すれば、昨日も言ったように、人間は社会関係でしか生きられない。
 その共同体、ないし社会関係は、サルの集団とは大きく異なって、歴史性を把持する。共同体によって言語も違ってくれば生活の仕方も違ってくる。利害も違う。
 我々日本人から見て、支那人や朝鮮人はなんと民度の低い連中だと呆れるが、それは歴史の積み重ねのしからしむるところであって、いわばもう変えられなくなっている。
 だから対峙すれば争いになる。武力で決着をつけるとか、経済制裁で締め上げるやり方もある。

 その拡大というか、武力をもって国どうし全面的に戦うことに発展したものが戦争なのだから、再三いうように、人間が共同体的存在であるかぎり、戦争は付きものである。
 日本国憲法の誤りは、人類そのものである共同体性、歴史性、を否定していることである。

 GHQの押し付け、占領政策だったというのも一理ではあるが、共同体の原理を否定している。そんなことも自称憲法学者は分からずに、護憲を正しいと信じている。
 個別に発生するA国との戦争、B国との武力衝突に反対するのはあり得ることだが、戦争そのものは否定できないのである。

 全体のなかの1要素で切り離せないもの、それが戦争である。
 虎ノ門ニュース(12月2日付)で武田邦彦氏が、多くの日本人は「戦争は嫌だ、だって人の命が一番大切だから」、というけれど、その気分はごもっともではあるが、戦争のほうが人命の損失が少なくてすむ場合があると語っていた。

 大東亜戦争はアメリカに不当な経済制裁を仕掛けられて、経済的に日本は立ち行かなくなるように追い込まれた。あのとき、日本政府の判断は、このまま戦争をしなくても国家は滅亡する、戦争に討ってでても滅亡する。ならば一か八か、そして我々の誇りのために戦おうとなったのだ。

 それが一例だが、念頭に置いて考えれば、一般的に言えば戦争をしなければ国民が1千万人死ぬ(殺される)が、戦争をすることで(軍人が、にはなるが)10万人死ぬ。戦争は悲惨であるが、こうやって死ぬ人間の数を少なくする効果はあるのだ、と武田氏は説く。
 それが古来の人類の知恵だ、と。

 古来人類の知恵という言い方はわかりやすい言い方ではあるが、私は採用しない。こういう現象が起きるのは、戦争だけが共同体同士の争いの解決法ではないからだ。
 敵対国が相手を経済的に締め上げて、国民を飢餓に追い込んで大量殺戮するのは、戦争ではないわけがない。争いの解決の一つであることに変わりない。

 武田氏の話は戦争を考える際のヒントにはなるだろう。
 ただ彼に欠けているのは、人間とは何かを踏まえた論議である。人間とは共同体としてしか存在できないということだ。
 だから、武田氏のいうように、共同体を守るためには、一千万人が犠牲になるか、10万人が犠牲になって少なく済ませるかの選択肢ができる。

 戦争で死ぬのは確かに家族や尊い命を持った個人ではあるが、そこだけ見るような左翼九条信者は間違いである。
 共同体を護るためにこそ軍備は備えなければならないし、犠牲を厭わぬ兵士が必要である。
 
 あるいは、現在、南スーダンに自衛隊が派遣されているけれど、アホな野党は犠牲者が出たらどうするとか戦闘に巻き込まれると騒ぐが、共同体を護るという観点が欠落している。スーダンごときで死ぬのはいかがなものかとは思うが、戦闘の経験は自衛隊にとっては必要で、その観点からは犠牲を厭わず「巻き込まれる」のは大いに結構である。

 どんなスポーツだって合唱だって、練習しないで勝てるわけがない。共同体として戦争の用意ができているためには、軽く実戦を経験しておくべきなのである。
 戦闘機をつくるにしても、開発段階でテストパイロットなどに犠牲が出ることがある。あるいは実戦のなかでトラブルで死ぬこともある。それが嫌だからと兵器の開発をしないでいたら、武器も機械も優秀にはならない。

 戦闘機でなくてもいい、旅客機だって現在私たちが安全で快適な空の旅ができるまでに、史上どれだけの犠牲があったかである。それがなぜ必要かといえば、共同体として必要があるからだ。
 だから犠牲になってくれた先人、祖国を命を犠牲にして戦ってくださった兵士に敬意を持って慰霊しなければならない。

 我が国にとって天皇はその最も重要な共同体の魂なのだから、共同体の存続のために犠牲になられた英霊を御親拝されないとは、あってはならぬことである。本当に今上天皇と皇后は左翼に染まっている。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする