2017年01月19日

予期不安とは何ぞや


 だいぶ以前に毎日新聞「子ども相談室」に以下の記事があった。

Q・小5の娘、先のことを心配し、食事もとれない
 小学5年の娘が急にいろんなことを不安がるようになりました。夏休み前の林間学校もバスに酔わないか、肝試しは怖いかなど心配し、1週間吐いて食べられなくなりました。今は元気ですが、いつまた始まるかと不安です。(大阪府、40代母親)


 これに対して、臨床心理士・西脇喜恵子氏が回答している。 
 「A・悪い結果ばかりではない−−−−体験で学んでいくはず」
として、これから起きることを想像して心配になってしまうことを「予期不安」というが、子供がこのような不安にさいなまれた時には、うまくいった林間学校でのことを思い出してみればいいんだ、というのだ。どうして「林間学校がうまくいった思い出」だと断定できるのかがわからないが…。

 予期不安は、悲観的な想像をもとにしているが、実際に起きる出来事は、すべてがすべて、心配したとおりの悪い結果に終わるとは限らない。この臨床心理士は、林間学校もそうだったはずでしょ、と決め付ける。「あの時、あれだけ心配していたけど、実際には大丈夫だった、という思いが、次の不安を少し軽くしてくれるはずです」というが、そんなバカな。実際に心配が当たった場合もあるだろう。それはどうするんだ?

 「思春期の予期不安は、一時期で終わることも少なくありません。乗り物酔いが不安なら、酔い止め薬とか嘔吐(おうと)に備えての袋をかばんに入れておいてあげる。周りの心配はその程度で十分かもしれません。予期不安には、不安に思って心の準備をするからこそ、危険や最悪の事態を避けられるという良い面もあります。いわば転ばぬ先のつえのようなものです。娘さんと一緒に、不安との上手な付き合い方を考えてみてはいかがでしょうか。」


 と、こうなのだ。能天気を絵に描いたような臨床心理士ではないか。
 思春期の問題がなに一つとして解けていないくせに、よく言うよ。
 思春期はこの方の言う「予期不安」が極端に膨れあがる。当人にも理屈ではわかっているつもりであっても、不安が恐怖へと抑えられないほどになるものだ。それは脳細胞が急激な生々発展を遂げている真っ最中だからである。

 そのあたりの理論は、南ク継正著『弁証法・認識論への道』(三一書房)(現代社全集版では第2巻)に説かれている。そういうことを何も知らずに、よく平然と臨床心理士だと名乗れるものだ。
 体験して学ぶのはあり得るけれど、思春期をその他の幼年時代やあとの大人と一緒にしてはいけない。思春期拒食症も同じことで、体験の問題ではないのだ。

 相談者の子供は小学校5年生だそうだが、やや思春期が始まるのが早い。おませなのかもしれない。そうなるのは、テレビやマンガで早くから性を教えられるからだ。

 「娘さんと一緒に、不安との上手な付き合い方を考えてみてはいかがでしょうか。」って、それがわからないから相談しているんじゃないか? この年代の子は、トイレに行くのも恐がる場合がある、それを友だちからからかわれるからだ。「ウンコしに行ったんだろう」とか「あいつ、今日は生理なんだ」などと男の子からはやし立てられ、ショックを受ける場合もある。それがために女性は便秘になったり、生理が止まったりする場合もある。大変怖いことである。それも経験、で済まされることではない。

 あるいは小学5年生ともなれば、将来母親になる準備としてヘソまである厚手のパンツを履いて、腰を冷やさない習慣付けをしなければならないが、そんな厚手のパンツを履いていると分かれば、これまたからかいの対象になる。それで恰好を気にして、やがて生理痛、帝王切開や流産、不妊などで苦しむことにもなりかねない。

 この思春期の過ごし方を甘く考えてはいけない。自然に体験を通して学ぶ? 冗談じゃないんだよ。自然に任せていいわけがない。
 自然に任せたら、愚劣なテレビタレントのマネをして、あれがカッコいいと思って薄着やら厚化粧をするようになる。タバコを吸う、夜更しをする…と、健康は二の次にされてしまう。

 思春期は端的にいえば、性に目覚める時期である。この新聞の相談者の場合も、「バスに酔わないか、肝試しは怖いかなど心配し、1週間吐いて食べられなくなった」というのは、異性を意識してのこととも考えられる。異性でないとしても、苛めを相当に気にしているらしい。バスに酔うこと自体を心配しているのではなかろう。

 この子はバスに酔っている像が浮かんでいるのではなく、酔って吐いている自分をみんなが冷やかしたり、バカにしたりしている像、あるいはもっと深刻に、好きな男の子に嫌われている像が浮かんでいるのだろう。だから強烈な不安になる。
 この人間の“創像”の謎が心理学では解けていない。

 臨床心理士・西脇喜恵子氏が、まったく性のことを考慮していないのが私には信じられない。また、この子にはどんな像が浮かんでいるのかがわかっていない。学校の教師も、もしかしたらこんな場合、乗り物酔いの薬でも持たせればいいと思っているのではないだろうか。とんでもないことだ。この子はみんなに苛められる恐怖におののいているにちがいない。それが小学3年生なら10の反映でしかないものが、思春期には1万もの反映になる。それがこの臨床心理士にもわかっていない。

 そこを教師はわかってやって、十分なる教育を日頃やらなければなるまい。どういう教育かといえば、自分が嫌なこと、あるいは嫌だなと思う言葉を、人にはしない、使わないという徹底した躾である。端的には、子供なりに相手の立場にたって考えられる人間にすること、これであろう。

 思春期はクラス全員がいわばイライラしているのだ。それが小学5年生くらいから始まる。すべてにイライラし、構ってくれないからと言ってイライラし、構うからと言ってはイライラする。それが成長過程なのだということを教師も親もわかっていて、子供にそれを教えておくことではないか。

 それを受験だけに価値を強制して他のことは野放しにするから、思春期に多くの子供たちの顔が歪んでいく。あんなにかわいかった小学生の子が、中学生になるともういっぱしの不良、ふてくされた顔、生気のない顔に変わってしまう。傷ましいと言ったらない。

 子どもはイライラを親や教師、友だちにぶつける。それを厳しく叱られないから、イライラのまま過ごしてしまい、荒れてもいいんだという認識になってしまうのだ。だから逆にちょっと弱気、内気な子ども、あるいは想像力(空想力)の強い子は、この相談者のように、強烈な不安にさいなまれていくのだ。

 いろんなことを不安がるようになった、というが、これを一応思春期の問題と切り離して考えてみる。
 人間は社会的実在だから、社会という対象の構造に見合って自分を創るように教育される。そうしなければ人間になれない。ところが、ともすると自分勝手に自分を創ってしまう。

 つまり主観を優先させて、ものごとを判断したり行動したりすることをやる。認識は全部主観である。この相談者が「いろんなことに不安になる」のは、主観である。主観によって認識が歪まされるのだから、社会的実在たる人間は自分の認識を社会という対象の構造にみあったものにしなければならない。

 われわれは子どものときから、現実(外界たる対象)を強烈な像として描きつづけることで、普通の人ならば現実がより強烈に反映するようになるのだ。現実たる対象の構造に自分の認識を合わせられていけば問題はないのに、塾通いやテレビゲームで対象の反映を薄く創ってしまうと、外界を反映が乏しくなる。反映が少ないとは、必然的に頭の中の対話(認識どうしの会話)が多くなる。頭の中の対話がつまり不安である。それでこの相談者の子のように、外界で創った認識ではなく、自分勝手な主観で内界の対話をして不安を自ら増幅させていく。

 簡単にいえば、幼児のときからしっかりと外界を反映すべく、友だちと遊び、ケンカをし、好きになったり嫌いになったりをくり返して、現実のまともな反映をするような認識と脳細胞になっていれば、不安は生じても、それが極端に肥大化して悩ませる事態には、なるまい。

 塾通いやファミコンゲームで現実の反映を薄くしているのだから、ますます現実のありようが楽しいものだとか、辛くてもたいしたことはないと楽観的に思える状態に育っていない。現代の親は、ただただ勉強ができて、言う事をきく子が良い子と勘違いしている。子どもに厚着をさせる、危ない遊びはせさない、いじめさせない、服を汚させない、極力ケガをさせない。木登りなんてとんでもない。子どもがナイフを持って学校に来ると、大騒ぎして取り上げる。

 と、こうなのだ。乱暴はいけないと育てられる女性一般にありがちな勘違いである。
 これらは大人が子どもの外界の反映を無理に遮断しているのである。子どもはそれこそ一度も辛い経験をしないで成人してしまう。だから不安な状態に直面することにもろい。





posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする