2017年01月28日

徴兵制を復活せよ(2/6)


《2》
 さて、日本人は腑抜けである。支那、韓国、北朝鮮のほうが悲しいことに精神的強さを把持している。なにしろ向こうには軍隊がある。そして闘う精神を子どものときから叩きこまれる。日本にも自衛隊があるけれど、アメリカの下働きでしかない。
 人生は闘い、国家も戦いなんだから、それは何もゲバルトとは限らないが、闘う精神を創っておかなければ人生まともに生きていけまい。最近は何かというと「癒しを求めて」だ。バカ言え。

 韓国に旅行に行った人はみんな向こうの男たちが、体格がよく筋肉がつき、シャキッとしていることに驚いて帰国する。それにひきかえ、日本人の多くはメタボリックシンドロームで下腹がポッコリして、どこもかしこも(頭のなかも)ブヨブヨ。さもなければ骨と皮だけかと思うような瘠せ男。そんな男ばかりだ。昔の帝国陸軍歩兵は身長160センチもないのに40キロの重装備を背負って、延々何百キロと行軍した。そんな体力のある若者はほとんどいない。兵舎では起床のラッパで飛び起きて、軍装で庭に整列するまで2分でやったが、そんな俊敏な若者もいない。

 だから徴兵制を採用して、20歳前後の若者を1〜2年間くらい(せめて半年)軍隊で鍛えるべきである。体力、精神力、両方に効果があるはずだ。シビアな団体生活も良い。
 一度、本ブログで益田ドライビングスクール(島根県)を取り上げたことがある。この自動車学校は合宿制で、たった2週間の生活と教習で、だらしなかった若者がみんな立派になり、人に挨拶できるようになって帰る。家で親たちが「運転免許を取りにいっただけなのに、笑顔で挨拶し、すすんで掃除をし、整理整頓もできるようになった!ウチの子に一体何があったの?」と驚くそうだ。

 鍵山秀三郎氏は自動車用品販売のイエローハットの社長だが、彼は掃除の効用を説き、自ら徹底した掃除を実践している方である。掃除をすると人間が立派になるというのである。現代のだらしない若者には徹底して掃除をさせるといい。そのためにも軍隊でしごくのが良いのだ。軍隊で否応なく、集団生活をさせられる。それが脳細胞の激動になり、変革になるのだ。二年間の修行は無駄にはならないはずである。

 軍隊の鍛錬がいいのは、自分の生命や人生が社会のために生かされるのだという認識、すなわち社会的認識を叩き込まれることである。現今の日本の学校教育は文科省と日教組のアホどものせいで、子どもが個性大事と育てられ、社会的認識を持たされないで大人になってしまう。それを是正するためにも、徴兵制で若者全員を軍隊に叩き込んで鍛え直すといいのだ。そうすれば、社会という全体のなかの自分の人生であることが自覚できるようになるであろう。

 自分の人生は自分で切り拓くものであって、そのためにはそれなりの教育、鍛錬が必要である。現在はそれが受験かスポーツで代替されている。あんなものでは闘う魂ができない。
 武道を必修科目にしようという意見があって、それには反対しないが、今の柔道・剣道ではスポーツでしかないからダメだ。せいぜい識者の期待するとおりに礼儀作法くらいしか身に付かない。

 戦前の旧制中学にあった本物の柔道、剣道ならばよい。戦前の武道がまともで、スポーツではなかったのは、その先に軍隊があり、徴兵があったからである。軍人、兵隊をつくるために学校で武道を教えた。だから良かったのだ。世界に通用する偉人が輩出したではないか。
 現代の柔道、剣道、空手、合気を再生するためにも軍隊があるべきである。

 われわれの空手でも、それをスポーツとしてやったら闘う魂はできない。スポーツも武術もやる中身は同じであるが、やる精神がちがうのだ。軍隊というところは生命のやりとりがある場所なのだから、野球やサッカーで合宿生活するのとはわけが違うのである。
 徴兵制で、若者を全員軍隊に入れれば、なかには大けがをしたり、訓練中に生命を落とす者もでるであろう。それはやむを得ないことである。そのくらいの犠牲を覚悟しなければ国家がまともにならないという事態なのだから。日本に大きく欠けているのは闘う(戦う)心であり、その養成である。

 若者のなかには、オウム真理教のときもそうだが、宗教に憧れるバカな人間もいる。あんなインチキで心が癒されたいってのはどういう根性なのか。私の家の近所にも修道院みたいな施設があって、たしかに穏やかな顔をした修道女をよく見かけるが、見かけるたびに私には関わりがないことながら、気分が悪くなる。お前たちには自分の人生を戦いとは思わないのか、プライドはないのかと言ってやりたい衝動がこみあげる。人間の優しさだけにすがって生きたいという連中には呆れる。

 日本の自衛隊は、本気で戦う心構えができない「軍隊」である。遊び半分と言ったら彼らに気の毒ではあるが、なにしろ憲法が交戦権を否定しているのだから、こんなカタワの軍隊はない。あれではいざと言うときに戦えまい。あれだけの装備を誇っていてもたぶんインドネシア軍と戦っても負けるだろう。

 そういうなかでもなんとか戦う魂を創ろうと頑張っている人たちが自衛隊にもいることはわかっているが、本質がアメリカ軍の下請ではどうにもならない。惨め極まる。東国原が徴兵制賛成という発言をしたら、即刻に同感だという意思表示をする自衛隊幹部はいないのか?

 念のために言っておくと、徴兵制復活は憲法改訂(すなわち9条廃棄)とセットであるべきだ。憲法9条は廃棄しなければならないが、それはアメリカのための改訂であってはならない。
 9条を守れという立場が、アメリカのために戦争に引きずりだされるのは反対という気持ちは私も同感ではあるが、それでもやはり9条は撤廃しなければならない。私は何がなんでも戦争はいけないという立場にはない。

 いつでも国家の大事のときには戦える軍隊は必要である。国家がまともにならない。国民がまともにならないからだ。国家とはそもそも共同体における他共同体との対峙から誕生したからである。そんな基礎知識すらないサヨク・インテリが何を抜かすか。こんな軍隊がない体たらくの国は日本だけではないか。
 日本以外の国で、大統領なり首相なりが国家の交戦権を放棄し、アメリカの奴隷となって言いなりになりますと言ったなら、絶対に国民に倒されるだろう。ところが日本では多くの国民がそれをよしとしてしまう。

 卑近な例でいえば、もし巨人の監督が、巨人は毎年最下位でいいんです、阪神や中日の二軍に甘んじますと言ったら、ファンは許すのかよ。そんな監督は即クビだろうが。野球でさえそうなのに、左翼マスゴミやリベラル政治集は軍隊のないテイタラクな国でいいんだと言いきる。誰もが、アメリカとの戦争に負けて今や植民地以下の国にさせられている現在をまじめに認識していない。われわれの誇りや自立を考える人がいなくて、ただひたすら再軍備反対、戦争反対だ。

 私ははっきり言って戦争一般に反対なのは当たり前なんであって、それは言っておくけれど、しかしやらねばならぬ戦争はあるし、そのために軍隊はなければならず、戦えなければならないと考えている。戦争をすれば犠牲は出る。しかしそれでも国家の誇り、自立のためには犠牲はやむを得ないと決断するしかない。
 国家なしに人間は生きられないのだ。そこがひたすら戦争反対のボケどもには理解できていない。国家なんかいらないなどとほざくバカがいるとは。国家なしで生きてみろ。できやしないのだから。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(4) | エッセイ | 更新情報をチェックする