2017年02月15日

林秀彦『日本人はこうして奴隷になった』を評す(2/2)


《2》
 林秀彦著『日本人はこうして奴隷になった』のなかから、ひとつ選んで論じたい。先ずは、少し長くなるが引用から。

     *     *

 概して、日本人は支離滅裂な人間だと、かねてから思っていた。それは無論、今まで述べたように、論理性が頭の中にないからである。
 おしゃべりの、長話が好きな人の話を聞いていれば、すぐわかる。途中で話題が元からはなれ、とんでもないところに飛んでしまったり、こんがらがったりする。不思議なことに、白ンボにはこれがない。

 まったくちがう話に移ったな、と思って聞いていても、いつの間にはちゃんと元の話に戻り、それが起承転結の役を果たしている。論理性が魔法のように一貫している。これは無意識にも、論理の一貫性が頭に流れる本能的才能が彼らにはあり、こちらにないからだろう。それが彼らのレトリックとなり、弁論術ともなっている。

 この支離滅裂が顕著に現れるのが、演劇における役者の台詞術に見られる。
 台詞はちゃんと前もって作家が作り、作劇としてのレトリックも持たせてある。だから、それをそのまま言えば、役の人物は支離滅裂にならずにすむはずである。ところが、そうならない。こんな不思議なこともない。

 白ンボが、話を飛躍させ、再びいつの間にか戻し、関連付けている手法がマジックに思えるのと同様、この、最初から論理的に組み立てられている台詞の構成どおり演じ、それを話しているにもかかわらず、言っている内容(役者の台詞)が、意味不明、説得力消滅になってしまうのも、マジックみたいである。

 どうしてこのような不思議なことが起こるのか。
 先日、演劇をテーマにしたアメリア映画を見た。(グレース・ケリーがアカデミー主演女優賞を穢多『喝采』。ひとつの芝居を作り上げていく過程が、ドラマになったストーリーである。その中で演出家が、下手な役者の下手な台詞回しに怒り、怒鳴りつける。「Mean it!」と怒鳴るのだ。直訳すれば「意味しろ!」である。

 これでマジックのネタが知れた。
 日本人が日本語を話すとき、その言語自体が持つ意味が希薄(言葉の内容の密度が小さく薄い)なのと同時に、その使用者の使用法が、それにも増して希薄なのだ。

 この「ミーン.イット!」を、私も稽古をつける最中、喉が腫れ上がるほど役者たちに繰り返し言った。これを日本語で言うと「もっと心をこめろ!」という怒鳴りになる。台詞に心がこもっていないのだ。だから下手で、おざなりに聞こえる。
 ところが、この「意味しろ! Mean it!」を聞き、根本問題としての日本人演劇不適格性の謎が氷解した。

 意味−−−。これほど日本人に縁遠いものもないのである。
 意味の追及、これは結局言葉の追求と同じことになる。さらに言えば、論理の追求でもある。なぜなら、どんな事柄にも、概念にも、感情にも、それを表す論理としての言葉があるからだ。論理性を持たない言葉の意味など、存在しない。言葉を持たない意味もない。

 ところが、それは白ンボの世界の真理で、白ンボの意味には言葉がないものが多い。言葉に意味がないものも多い。つまり昇華して言えば禅の世界だ。不立文字というやつ。
 役者は台詞に意味を探していない。台詞のやりとりは、禅問答に近くなっている。お互いにミーンを無視して話しあっている。だからこちらも禅風な言い方で「こころをこめろ」というしかないのだが、「心」という日本語の単語も、実は非常に“意味”が曖昧で、希薄なのだ。

 何とでも解釈ができ、明快な定義ができない。巾は広いが、その分、純度が低い。これは同じように、「心」に当たる英語のスピリットやマインドやハートと比較してもわかる。
 日本語の「心」は、多義にわたりすぎ、定義は散漫になる。そして、少なくとも「心」には、英語で言うところの「論理的意味」は入っていない。

 しかし、台詞は、どれも論理に裏打ちされている「意味」なのだ。その意味には、その台詞を口にする人物のあらゆる意味、レゾン・デートル(存在理由・存在価値)が含まれている。なぜその人物が登場していて、なぜその他の登場人物と関係を持ち、なぜその台詞を言うのか、という一切の意味が登場人物の、レゾン・デートルなのだ。

 レゾンはフランス語だが、英語のリーズンも同じで、「背後の理由、わけ」のほかに「理性、思考力、推理、分別、道理、理屈、考える、判断する」と、「意味」を意味する「意味」がある。
 だから、私が見た映画の中の演出家のこの英語による叱咤は、「人物の背後を考えろ、論理的に表現しろ、もっと深く台詞の意味を考えろ、自分が何を言っているのかの意味を知れ」と言っていると同じになる。

 ドラマとは、必然の集約である。
 現実の人間の生活は、無意味な「余分要素」に彩られている。一組の男女の恋愛は、実生活に無論あることだが、その実生活の中には、お互いの朝の洗面、排便、食事、通勤電車の中の不快感、上司との諍い、などなど秒刻みの「添加物」がある。その添加物をできる限り取り去り、恋愛という一点、即ちテーマに集約する、それがドラマである。

 当然、集約(つまりコンデンス・濃縮、凝縮)は、言葉の濃縮となり、意味の濃縮となる。
 言葉にもなっていない溜息とか、それに近い最も短い「ああ」といった呟きも、意味の濃縮である。意味のない台詞はひとつもなく、意味のない動作もひとつのないのが演劇であり、そこで「人生の濃縮」、つまり意味の完結が可能になる。

 「意味しろ!」
 と、怒鳴れない日本の演出は、結局日本語の限界を意味し、日本人の人間関係の限界を意味し、日本人の人間性の限界を「意味」している。

     *     *

 まだまだ引用しておきたいが、このあたりで打ち切る。
 私のブログの文章も、論理的・論理性でありたいと願いつつ、いつまで経っても自信が持てないままだ。それは私自身の問題でありつつ、日本社会のせいでもあろうかと思う。

 それでも私がブログで懸命に論理的であろうとして書いたものほど、反響が薄いといつも思わされるのは、どういうわけかと長年不思議だった。
 例えば音楽批評は、「誰それの演奏は素晴らしい」と言うのではなく、なぜ素晴らしいといえるのかを論理的に述べるべきだと書くと、まったく無反応なのである。

 それには触れずに、およそ無関係な自分が言いたいことだけをコメントしてくるのが精一杯である。引用した林さんの文の冒頭にあった文句を使わせていただけば、「支離滅裂」、これである。
 あるいは宇宙人なんかいないということを論理的に解いても、無反応であることが多い、反論は「だって、ボクは見たんだもの」になってしまっていささかも論理で反論は来ない。

 それはここで林さんが解いておられる日本人の性向と同じなのではないかと思わざるを得ない。日本人は思索することができないのではあるまいか。それが言いたくて、長々と引用させてもらった。





posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(1) | エッセイ | 更新情報をチェックする