2017年03月03日

お知らせ

このところ体調が優れず、ブログを書く気力が衰えており、申し訳ありませんが、しばらく休養させてください。体調が良い日があれば、原稿を書いて不定期にアップできると思います。
posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(12) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2017年03月02日

弁証法的な運転の仕方(2/2)


《2》
 例えば、高速道路を走っているとして、このとき時速100キロなら100キロを、1000キロにわたって続けることである。それはコンピューターに時速をインプットさせてやらせることではむろん、ない。自分のアクセル操作、ブレーキ操作だけで神経を駆使して同じ速度を保つ。
 こんなことは脳細胞はやらない。やりたくない。だがあえてそれをやる。これが修行になる。

 ある方に聞いたが、運転の上手な人に乗せていただくと、いつ発車したのか、いつ停車したのかわからないほどだった、という。急ブレーキほどでなくとも、車を停車するときは若干前のめりになる。へたな運転だと、ブレーキ、アクセルのたびにつんのめったり、のけぞったりさせられるが、そういう動揺がいっさいないそうだ。

 天皇を乗せるお召し自動車もかくや、という運転だそうだ。こうやって車という対象と見事なる相互浸透を果たしていくことである。
 実際はよほどの足先などの神経をつかってアクセル操作しているのだ。
 あるドラマで、大企業の社長お抱えの運転手がこう言う場面があった。社長を乗せる運転手は、車のダッシュボード上に水を入れたコップを乗せ、その水が一滴もこぼれないように運転するものだ、と。これが誇りというものの、いわば初級レベルである。

 それから。
 運転中についていえば、自分の運転する車の周囲を運動しているものと見、また、いわば過程の複合体的に見ることであろうか。季節、天候、曜日、時刻(朝か深夜かのように)、道路状況を踏まえる。そして自分の前後左右の車がどんな車なのか、その運転者がどんな認識で運転しているのか(営業車なら仕事で急いでいるとか、家族で乗っていて談笑しながら運転しているから、やや注意力散漫になっているとかを瞬時に見極めるものだ)、初心者かベテランか女性かを見極め、信号や標識を判断し、この先にどんな信号や踏切があり、駐車中の車がいるか、右折車、左折車がいるか、歩行者が飛び出してこないか、警官はいないか、などなどを刻々と反映し予測しつつ運転するものである。

 これがいわば弁証法的な運転だ。
 運転する自分の車や周囲の対象(道路や信号機や前後左右の車など)との実体的関わりで相互浸透し、量質転化させることだ。すなわち、弁証法を実践によって発見し、創ることである。
 しかし以前にも書いたが女性ドライバーは得てしてこういう弁証法的運転はしない。前方は見ているが、後ろから来る車はまったく考慮のほかであるとか、自分が左斜線に入りたければ、周囲がどんな走行をしていようがお構いなくウインカーも出さずに入ってくるとか…、そういう運転をなさる。

 だから前後左右に女性ドライバーがいたら、それなりに注意しなければいけない。車間をあけるとか、先に行かせるとかを実施しなければ危ない。しかし車間を開けすぎると、今度は別の焦っている車が強引に割り込んで来かねないから、そこをどう判断して適切な車間をとるか、とか。
 
 こういう認識の流れを楽しまない人は運転がうまくならないだろうし、弁証法的運転の実践はできまい。要は自分が運転している現在の道路状況に、自分を合わせつつ、対立物の統一として自分の思ったような快適で安全な運転をやるのだ。道路状況に合わせることと、自分のやりたい運転をすることの統一、すなわちこれは矛盾であるが、それを刻々と「非敵対的矛盾」として刻々と流れるように創出していくものである。

 『自動車の選び方』で「躍動感」の話を紹介したけれど、端的に言えば弁証法は躍動感である。だから認識も実体も躍動感を帯びていなければ弁証法はわからないのである。
 弁証法とはこれまた端的には運動である。運転を見れば、まさに運動であって、刻一刻と状況が変わり、自分の認識も変化していく。その変化するなかで、誇り高く、志高く、を把持して運転していくのだ。

 と言われたところで、やったことがなければわからない。わからないからこそ工夫である。私の場合はこれという音楽を聴きながら運転をした。例えば軍歌や寮歌であり、ベートーヴェンの「運命」や「英雄」であった。それと相互浸透させながら、誇り高く運転するとはどういうことかを探った。
 これは同時に感性を磨くための運転にもなる。

 弁証法とは、対象を運動形態において把握するための一般教養なのだから、車の運転とは、自分の車との関わりもさることながら、運転中の躍動感や周囲の状況に的確にあわせた運転などを追及しつつ、その対象を変化発展として捉えていくことであろう。

 むろん自分勝手な運転をするヤカラもいるけれど、運転する人間は、これまで述べてきたごとく、社会関係に認識を置くのでなければならず、そうでない女性ドライバーは大変な迷惑なのである。そしてこうした社会関係に認識を置くからこそ発展があるのだ。
 例えば、より良い車に乗って、そのより良い車からより良い認識をもらう、というように発展させるのである。

 これまで、私の知り合いのなかには弁証法を勉強したい、認識論をわかりたい、と志望する人間はいた。その人に必ずアドバイスしてきたことは、できるだけクルマの免許をとって運転するべきだということだった。しかし、たいていの人は勉強するとは、本を読むことだと刷り込まれている、その思いが抜きがたいのだ。クルマなんか関係ないと思ってしまう。クルマなんか運転するより、ヘーゲルの本を理解しなければ…となってしまう。

 クルマに乗らなければ弁証法がわかる頭にならない、というわけではもちろんないけれど…。空手に役立つような運転を、弁証法の修得に役立つ運転を、なのであって、なにごとによらず目的意識的にやればいいのだ。
 
 例えば、われわれの空手でいえば、突きがまずければ、なぜそうなのか、そうなってきたのかを被指導者に(弁証法を踏まえて)説かねばならない。そして上達させなければならない。

 それが空手と弁証法を同じものとして教えることであり、それを世界で初めて実践されて、史上最高の頭脳を創られたのが南ク継正先生であった。つまり、やっていることを弁証法として人に教えなければ実力にはならないのである。
 自動車の選び方も、そして運転のあり方も、なぜそうなのか、なぜうまく運転できなかったのか、誇り高く運転するとはいかなることか、などを実体たる外界(対象)と関わることで学ぶこと、あるいは弁証法として学ぶことにほかならない。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2017年03月01日

弁証法的な運転の仕方(1/2)


 クルマの選び方に続いて、これは2008年6月に書いた乗り方の話。

《1》
 本ブログを読んでくださっている方から先の「自動車の選び方」の感想をメールでいただいた。この方は、車の免許は学生時代にとったが、ペーパードライバーの時期が長く続き、現在は車の運転はあまり得意ではないそうだ。そして、社会性をもった運転ができるよう訓練していきたいとおっしゃったあとで、「機会がありましたら、運転を弁証法的に行なう方法についてご教示いただけましたら幸いです」とあった。

 そこで、弁証法的に車の運転をするとはいかなることかについて今日は説いてみたい。
 
 これはまず大きくは、対象を弁証法的に捉え返すとはいかなることかを問うべきである。すなわち人間の認識は問いかけ的反映であること、この大前提から考えていかねばならない。
 問いかけるもの(そのレベルや思想性)で、対象は反映する。だから志をもって問いかければ、志をもって反映するし、誇りをもって反映すれば誇りをもって反映する。また情熱をもって問いかければ、情熱をもって反映する。

 ところで、当時よくコメントをくださっていた松島様からは以下のコメントを頂戴した。
 「自動車の選び方には、個人の価値観、考え方等が最も顕著に反映されるものであるから、車選びには、職業とかステータスの問題よりも個々の抱えるTPOや価値観、そのプライオリティが大きく関係してくるし、個々のセンスの問題もある。張りぼての評価よりも中身を正しく見極めたく、自らの考え方を一貫して主張できる人間に大きな魅力を感じます。」

 松島様は、私のお勧めの車選びは「張りぼての評価」でしかないのではないか、とおっしゃるようだが、私が言わんとしている「認識は対象の問いかけ的反映である」という原則を理解していただいていない。
 また、「自らの考え方を一貫して主張できる人間」といったって、レベルがあるのである。それでいいなら、児童相談所の不逞の輩だって、自己主張を一貫している(強情だ)。

 松島様の反論は、結局のところ私には、社会を見ないで自分を見てしまっている。社会で見れば、たしかに見ようによっては「見栄」とか「張りぼてだ」とかに見えるかもしれないが、私が勧めたのは、見るなら将来のあらまほしき自分から見て車を選ぶべきだと言ったのである。

  話を戻すが、例えばあなたが、トヨタのクラウンを買ったとして、それを誇りを持って眺めれば「まんざらでもない車だな、うん」となるのだ。しかしいくら誇りを持って対象を見ても、軽自動車の三菱EKワゴンでは、チト無理がある。車はそれなりにメーカーとその技術者が技術の粋を結集した、魂のこもったものでないと、誇りや志を持ってみることはむずかしい。軽自動車には誇りや志はこめられない。
 軽自動車はしょせん下駄代わりと割り切るしかない。

 誇りのない人間が対象を見れば、誇りないものとしてしか反映しない。先のクラウンでいえば、誇りなきものとして反映させれば「それがどうした」でおしまいである。
 私はこれまでブログで述べてきた例えば体罰の問題にしても、DVの問題にしても、かかるごとく対象を大志や誇りや情熱として捉えて、至上のテーマとして反映させてきたのだ。
 児童相談所の木っ端役人どもや多くの小学校教諭どもは誇りも大志もないから、体罰を誇りも大志もないものとしか反映できない。それを批判してきたのである。
 
 われわれがやっている空手も同じくである。通常の人は空手を空手としてだけ見て、蹴ったり突いたりして、街中でも「オス!」などと言う野蛮な連中、としか見ないであろう。しかしわれわれの流派はそうではない。拳ひとつ握ることすら、世界最高の文化の創造として、人類の文化遺産の発展的継承として見るのである。つまり空手という対象を、どう問いかけたかといえば、史上最高レベルでの大志と誇りと情熱で捉えて(問いかけて)研鑽を積んできた。だから他のいかなる学者、学派の追随を許さぬ世界に冠たる学的成果を披瀝できるまでになった。
 これは事実である。

 松島様がおっしゃるとおり、今私が身分不相応に最高グレードのベンツを買ったとすれば、いかにも「張りぼて」であろう。「似合ってないよ」と笑われるにちがいない。だが、それでもあえてベンツを志や誇りをもって捉え返し、自分がベンツに相応しい人間になっていけば良いことである。志や誇り、あるいはステータスとして車を捉えなければ、それはむろん「張りぼて」でしかあるまい。

 私が『自動車の選び方』で述べたかったことは、優れた対象に自分を合わせること、これである。その基準で選び、かつ運転することとして車を勧めた。
 よくわが流派の最高指導者がおっしゃることであるが、三浦つとむ氏は、対象に弁証法を当てはめたのだ、と。それに対して最高指導者は対象的事実の中に弁証法を発見した、あるいは創った、のであった。

 どういうことかと言えば、対照的事実を例えば量質転化させることこそが、対象に弁証法を発見することだ。
 三浦さんは、それは自己の二重化だとか、そこに矛盾がある、というレベルであった。しかしだから、弁証法とは何かの教科書として良いのだ。最初から対象に弁証法を発見しろと言ったって、できるはずがないからである。

 したがって、車を弁証法的に運転するとは、車と言う対象の中に弁証法を発見すべく、あるいは創るべく運転することにほかならない。
 では具体的にはどういうことか。それは明日に。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする