2017年03月01日

弁証法的な運転の仕方(1/2)


 クルマの選び方に続いて、これは2008年6月に書いた乗り方の話。

《1》
 本ブログを読んでくださっている方から先の「自動車の選び方」の感想をメールでいただいた。この方は、車の免許は学生時代にとったが、ペーパードライバーの時期が長く続き、現在は車の運転はあまり得意ではないそうだ。そして、社会性をもった運転ができるよう訓練していきたいとおっしゃったあとで、「機会がありましたら、運転を弁証法的に行なう方法についてご教示いただけましたら幸いです」とあった。

 そこで、弁証法的に車の運転をするとはいかなることかについて今日は説いてみたい。
 
 これはまず大きくは、対象を弁証法的に捉え返すとはいかなることかを問うべきである。すなわち人間の認識は問いかけ的反映であること、この大前提から考えていかねばならない。
 問いかけるもの(そのレベルや思想性)で、対象は反映する。だから志をもって問いかければ、志をもって反映するし、誇りをもって反映すれば誇りをもって反映する。また情熱をもって問いかければ、情熱をもって反映する。

 ところで、当時よくコメントをくださっていた松島様からは以下のコメントを頂戴した。
 「自動車の選び方には、個人の価値観、考え方等が最も顕著に反映されるものであるから、車選びには、職業とかステータスの問題よりも個々の抱えるTPOや価値観、そのプライオリティが大きく関係してくるし、個々のセンスの問題もある。張りぼての評価よりも中身を正しく見極めたく、自らの考え方を一貫して主張できる人間に大きな魅力を感じます。」

 松島様は、私のお勧めの車選びは「張りぼての評価」でしかないのではないか、とおっしゃるようだが、私が言わんとしている「認識は対象の問いかけ的反映である」という原則を理解していただいていない。
 また、「自らの考え方を一貫して主張できる人間」といったって、レベルがあるのである。それでいいなら、児童相談所の不逞の輩だって、自己主張を一貫している(強情だ)。

 松島様の反論は、結局のところ私には、社会を見ないで自分を見てしまっている。社会で見れば、たしかに見ようによっては「見栄」とか「張りぼてだ」とかに見えるかもしれないが、私が勧めたのは、見るなら将来のあらまほしき自分から見て車を選ぶべきだと言ったのである。

  話を戻すが、例えばあなたが、トヨタのクラウンを買ったとして、それを誇りを持って眺めれば「まんざらでもない車だな、うん」となるのだ。しかしいくら誇りを持って対象を見ても、軽自動車の三菱EKワゴンでは、チト無理がある。車はそれなりにメーカーとその技術者が技術の粋を結集した、魂のこもったものでないと、誇りや志を持ってみることはむずかしい。軽自動車には誇りや志はこめられない。
 軽自動車はしょせん下駄代わりと割り切るしかない。

 誇りのない人間が対象を見れば、誇りないものとしてしか反映しない。先のクラウンでいえば、誇りなきものとして反映させれば「それがどうした」でおしまいである。
 私はこれまでブログで述べてきた例えば体罰の問題にしても、DVの問題にしても、かかるごとく対象を大志や誇りや情熱として捉えて、至上のテーマとして反映させてきたのだ。
 児童相談所の木っ端役人どもや多くの小学校教諭どもは誇りも大志もないから、体罰を誇りも大志もないものとしか反映できない。それを批判してきたのである。
 
 われわれがやっている空手も同じくである。通常の人は空手を空手としてだけ見て、蹴ったり突いたりして、街中でも「オス!」などと言う野蛮な連中、としか見ないであろう。しかしわれわれの流派はそうではない。拳ひとつ握ることすら、世界最高の文化の創造として、人類の文化遺産の発展的継承として見るのである。つまり空手という対象を、どう問いかけたかといえば、史上最高レベルでの大志と誇りと情熱で捉えて(問いかけて)研鑽を積んできた。だから他のいかなる学者、学派の追随を許さぬ世界に冠たる学的成果を披瀝できるまでになった。
 これは事実である。

 松島様がおっしゃるとおり、今私が身分不相応に最高グレードのベンツを買ったとすれば、いかにも「張りぼて」であろう。「似合ってないよ」と笑われるにちがいない。だが、それでもあえてベンツを志や誇りをもって捉え返し、自分がベンツに相応しい人間になっていけば良いことである。志や誇り、あるいはステータスとして車を捉えなければ、それはむろん「張りぼて」でしかあるまい。

 私が『自動車の選び方』で述べたかったことは、優れた対象に自分を合わせること、これである。その基準で選び、かつ運転することとして車を勧めた。
 よくわが流派の最高指導者がおっしゃることであるが、三浦つとむ氏は、対象に弁証法を当てはめたのだ、と。それに対して最高指導者は対象的事実の中に弁証法を発見した、あるいは創った、のであった。

 どういうことかと言えば、対照的事実を例えば量質転化させることこそが、対象に弁証法を発見することだ。
 三浦さんは、それは自己の二重化だとか、そこに矛盾がある、というレベルであった。しかしだから、弁証法とは何かの教科書として良いのだ。最初から対象に弁証法を発見しろと言ったって、できるはずがないからである。

 したがって、車を弁証法的に運転するとは、車と言う対象の中に弁証法を発見すべく、あるいは創るべく運転することにほかならない。
 では具体的にはどういうことか。それは明日に。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする