2017年05月23日

誰も言わないタバコの害


 私はタバコは一度も吸ったことがない。
 高校では多くの級友が隠れて吸っていただろうし、大学ではほとんどが吸っていたが、私はまったく興味が湧かなかったし、嫌悪を抱いていた。

 タバコがカラダに悪いからでもあるし、ただ大人のマネをしたいだけで背伸びしてタバコを吸うような愚かなことはしたくなかった。
 大人になるということは決してタバコを吸うことではないという信念があった。煙を吸わされると、ひどい悪臭でしかない。喫煙者がトイレに入ってウンコをしたあとは、鼻がひんまがるような強烈な悪臭充満であるのに、喫煙者はよく平気でいられるものだ。自分じゃ気が付かないんだろうねえ。

 自分は快適だからといって、他人の不快、迷惑を一切無視するその態度にはいつも怒りを覚える。
 最近、厚労省が飲食店を全面禁煙化しようと企てていて、それに自民党議員が抵抗しているやに聞く。
 私は小さな酒場まで法律でしばって禁煙にしようというのは、やりすぎではないかと思わないでもない。

 しかし、これまで喫煙者はさんざんタバコを吸っては非喫煙者を苦しめて平然としてやってきたのだから、これは報いである。本当にいい世の中になったものだ。

 タバコが嫌なら小さな居酒屋やバーに行かなければいいだけの話で、酒を飲みながらどうしても紫煙を楽しみたい向きには、勝手にしろというところだが、さりとてこれまでの人生で、喫煙者にさんざん嫌な目にあわされてきた私の感情からは、いい気味だとも思うのである。

 酒場を禁煙にするのに反対しているのは、国会議員ではあるが、表に出て来ないが本当に反対なのは財務省である。タバコを吸う奴が減って税収が減るのが財務省は嫌なのである。
 厚労省がタバコはカラダに悪いですよ、とキャンペーンをやりパンフレットを配ろうとすると、激しく妨害に出るのが財務省であった。厚労省への予算を減らすぞと脅すのである。

 タバコの箱に、アメリカ辺りでは毒です、健康が損なわれますとはっきり書かれているようだが、日本ではあいまいな表現にさせられているのは、財務省の横やりのせいである。
 財務省のクズどもは、日本人同胞の健康より、税収の減るのが許せないのだ。だから、今度の小さな酒場まで禁煙にしようという厚労省のチャレンジは、裏で自民党議員をつかって抵抗しているはずである。

 日本にどうしてもカジノを解禁させたいのも、財務省だろうと私は睨んでいる。タバコの税収が落ちて来たから、代わりに博打で税金を巻き上げようとする魂胆だろう。
 財務省に巣食う東大出の秀才は、かくのごとく薄情になれる。

 タバコには微量の阿片が含まれている。政府は、国民に覚醒剤はダメ、大麻はダメ、ヘロインはダメと言いながら、害にしかならないタバコにはこっそり阿片を仕込んで、習慣化させる狙いなのだ。

 以下は、2006年にブログに書いた「タバコの害について」である。
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 「たばこの害について」というチェーホフの短編小説があって、ある著名人がたばこの害についての講演をしようと壇上に立ったが、話し始めたら女房のグチばかり言って終わりになった、という愉快な話であった。
 しかし、今回は正真正銘「たばこの害」について把羅剔抉(はらてっけつ)を試みる。
 たばこが循環器などに害があるのは周知のことなので、それについてはことさら述べない。巷間、あまり言われていないことについて述べてみたい。

 それは喫煙者の認識に関わることである。
 昔とちがって、今は飛行機や新幹線でも禁煙スペースが広がり、喫煙者にはたぶん苦しい環境になっているかと思う。この「昔とちがって」がキーワードになる。
 昔は、喫煙者はところ構わずたばこを吸って、害煙をまき散らしていた。その環境下では、体の害は問題にはなっても、とくに認識の問題は生じなかったといってよい。ところが、今は公共の場でたばこを吸うと(自宅でもだろうが)、周囲の冷たい視線を浴びることになる。ここが大きな問題として出来したのだ。

 自分ではおいしく気分よくタバコを吸いたいのだろう。だが、周囲の冷たい目はある。それを気分よくたばこを嗜むためには、周囲の視線を気にしない必要がある。たばこに火をつける→周囲の冷たい視線が突きささる→周囲の目をシャッターを降ろすように見ないことにする→それで落ち着いておいしくタバコがのめる、と、こうなるのである。

 周囲の視線を気にしていたら、たばこがまずくなるものねえ。
 つまり昔はなかった、「周囲のきつい視線」と「シャッターを降ろす」という段階が生じた。これが認識にいかなる変化をもたらしたか、だ。周囲の非難の視線がきつくなればなるほど、必然、自分の心のなかでのシャッターは厚くしていかなければならない。
 もっと見ないふり、さらに聞こえないふりをしなければならない。

 この認識の動きが、ことタバコに関してだけに留まるなら障害は軽微であろうが、そうは問屋が卸さない。たばこを吸うたび、そのつど、周囲の視線を無視することが毎日、数十回も繰り返しのうえに繰り返されるのである。当然これは量質転化化を引き起こす。

 つまりたばこを嫌う人の視線を感じるか、それを一瞬心のなかで気にしたとたんに、ただちにその反映を打ち消そうとすることになる。これが技化するのだ。嫌なことだけ見たくない(反映したくない)というぜいたくは許されない。端的には反映はすべて打ち消そうとする傾向が強くなってしまう。
 当然ながら、たばこは体に悪い、という事実や医者の忠告にも目をつぶろう、気にしないようにしよう、という認識を形成していく。この面でも、事態は悪化する。

 まさに、衆口(しゅうこう)金を鑠(と)かし、積毀(せっき)骨を銷(け)す、である。
 山寺にこもって修行する坊主のような、反映の拒否、像形成の鈍さを招く。坊主の悟りとは、反映の鈍化であり、感性の摩滅=ボケだという論理展開をされているのは、南ク継正師範である。平たく言えば、坊主も、喫煙者も「対象を感じなくする」という技化をせっせとやっていることになる。げに恐ろしき技化をなさむにや。

 あるいは、気に食わない教師の授業は耳に入ってこないよう技化した落ちこぼれ生徒が、ますます成績が落ちるのと同じ構造である(若ボケ)。
 さらには、長年女房のグチを聞かされてうんざりした亭主が(女房の話をすべて聞こえないよう処理したあげく)定年以降、ボケていくのと同じ構造である。
 もっといえば、カルト宗教にはまった人間が、他人の忠告をいっさい聞かなくなり、教祖さまのいうことだけ信じるという反映の仕方を技化すれば、それもまたボケの形態なのだ、ということである。

 タバコを吸いながら、ボケない手段はない。あらゆるところでたばこを非難する人の視線が集まるからだ。どうしてもたばこを吸いたければ、たばこを大歓迎という人と結婚するとか、勤務中にたばこを全員が吸っている会社にでも勤めるしかない。
 事態はこれだけでは終わらない。「俺は吸いたいのに、規制があって吸えないし、みんなが禁煙禁煙を騒ぐから吸いにくい」という思いは、自分だけボケていくなら、周囲への被害は少ない。しかし往々にして、こういう仕打ちをされた喫煙者は、人を恨むようになる。で、「畜生、吸ってやる。公道で吸って、煙をまき散らして、たばこを吸わないと言っている嫌煙主義者を困らせてやる」という報復の感情すら芽生えかねない。心が荒む。

 まだある。
 こうしてたばこを頑張って吸うとボケると説いたが、そのボケた認識は、機能が歪むうちはまだよい。「ひねくれ」などは機能の歪みレベルだ。だが量質転化して脳細胞という認識を統括している実体までもが本格的にボケてしまう。そうなると、脳細胞は認識を司ると直接に、生理機能をも統括しているので、紫煙に含まれるニコチンやアヘンが体に悪影響を及ぼすのとは別の問題でもって、生理機能までもおかしくしていく。例えば「無気力」が認識だけでなく、体の統括までもが無気力になっていくのである。生理機能の瑞々しさや躍動感はこうして失われる。まさに「病は気から」は、ここでも真実である。

 こうしてたばこは、二重三重の構造で肉体とともに心をも蝕むのである。




posted by 心に青雲 at 08:10| 東京 ☀| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする