2012年03月20日

『風雅和歌集』論(1)


 ある友人から、実はこの4月から娘が大学の国文科に進学することになった、とメールをもらった。高校時代から和歌が好きで、古典を勉強したり自作する趣味をもっているそうで、大学に行っても和歌を専攻したいと言っている。
 ついては、以前「心に青雲」で風雅和歌集を詳しく解説していたが、あれを娘に読ませてやりたいので、原稿がまだあれば再掲載ないしメールで送ってはもらえまいか、というのであった。

 「旧・心に青雲」が見られなくなったが、あの「風雅和歌集論」を消してしまうのは惜しいから、「新・心に青雲」でもいつでも見られるようにしておいてはどうか、と勧めてくれた。
 「風雅和歌集論」は私としても思い出深い論文だったので、とても嬉しい提案だに感謝して、こちらに再掲載することとした。
 
 13回に及ぶ連載になる。



《1》
 日本文学の古典は、大学文学部の国文科研究者、一部の作家・評論家の手のうちにある。あるいは、彼ら専門家の著作を公にする出版社の手のうちにある。日本文学の古典は比喩的にいえば、中世ギルド制のような閉鎖社会で研究され、その成果が国語の教科書や古典文学全集などを通して、一般人に提供される仕組みである。

 専門家でなければ解明されないことがあるのは、私も否定しないし、有意義な成果もあったであろう。しかしながら彼ら研究者の多くは、一流大学に入る過程で、または大学で研究する過程で、本を読み耽るばかりで、細かな専門的(部分的)知識の量は厖大にはなるが、歴史全体、社会全体からの過程的な視点では作品を捉えることはない。素人を寄せ付けない厖大な知識を踏まえての解釈は盛んに行われるけれども、論理的な解明にはほど遠いのではないだろうか。すなわち受験と「直接」に創った知識的アタマで、古典を解釈している。

 そもそも大学の古典研究者たちには、弁証法もなければ認識学もない。
 文学は優れて作者の感性の所産であるとともに、書かれたその時代の社会的背景の所産でもある。後世のわれわれは、その作品を鑑賞するにあたっては、作者の感性=認識を十分に享受しうる認識レベルを把持していなければならないし、またその作者、作品の社会的背景、思想的な背景といったことも事実的にも論理的にも理解しているべきなのである。だからこそ、人間とは何かの根源的理解が必須になり、それを踏まえるためには、弁証法と認識学が欠かせない。
 
 例えば、『源氏物語』の世界に分け入るには、文学的センス=感性も必須ながら、それと当時の宮廷周辺の知識だけで可能とは思われない。古典文学研究者たちは、譬えていうなら鍾乳洞の研究をするのに、懐中電灯一つで洞内を探索しているようなものである。これは本来、少なくとも地球規模での視点で、生命活動の誕生からそれと地球との相互規定的相互浸透による環境の変化発展の流れを捉えつつ、地殻変動としての鍾乳洞の形成を把握していかなければならない。それと同様に「源氏物語」という言葉の洞窟にだけ分け入っても、歴史や社会の巨大な生成や発展、人間の認識一般から捉え返さないかぎり、本当はいつ、何ゆえ『源氏物語』が誕生し、どのような意味があったかは、捉え得ないはずなのである。

 『源氏物語』をそのようなまともな歴史から捉えれば、11世紀初頭に王朝文学なるものが輩出するのだろうかと疑ってもいい。紫式部や清少納言という書き手がいたのだろうか。しかし尊大で閉鎖的な国文学研究界にはそんな声は存在しない。
 そも紫式部や清少納言が執筆に勤しんでいたとされる時期は、刀伊の入寇があって九州・四国は略奪、簒奪、暴行のほしいままにされ、朝廷は上を下への大騒ぎをしていて、ろくな軍隊もない(放棄してしまった)日本はなすすべなく怖れおののいているばかりだった。そんな時期に悠長に「春はあけぼの…」なんてやっていられようか? 王朝文学に関してはいずれその虚構を暴いてみたいが、今回はあくまで『風雅和歌集』である。

 大学に在籍する研究者は、史料があると事実だと思ってしまう人種である。その史料がデッチアゲ、捏造に満ちていることを考えようともしない。昨年は偽装、偽造が猖獗を極めたことからも分かるように、大昔には偽造が勝手に行われたに決まっている。また、事実と論理の区別、論理と解釈の区別すらついていない。そういう教授に教わって研究者が再生産され、または卒業してマスコミに関わる人間が生産される。教授どもは、あのデタラメなNHKの歴史大河ドラマなんかを監修してよくも平気で名前を出せるものだと寒心する。テレビに名が出るだけで有頂天になるのだろう。

《2》
 さて、今回は日本古典文学の金字塔である『風雅和歌集』に焦点を当ててみたい。『風雅和歌集』は岩波や新潮の日本古典文学全集には収録されていないので、これを知る人はよほどの和歌の好事家か、古典に詳しい人かと思われる。私が知ったのは偶然のことだった。

 『風雅和歌集』は時代的には南北朝時代に編纂された勅撰和歌集である。編者は天皇・光厳院量仁(こうごんいん かずひと)であった。現在、北朝側の最期の天皇にされてしまった。私が史上唯一尊敬する天皇である。『風雅和歌集』の成立を述べるにはまず光厳院とその時代に関して述べておかねばならない。

 新井白石は『読史余論』において、南北朝時代に、後醍醐天皇が逃亡してしまったので、足利尊氏は光厳院の弟である光明院を天皇にたて、共主すなわち前王朝の子孫としたのちは、武家の天下となったと書いた。「建武三年十二月に後醍醐吉野に奔り給ひき、是より吉野殿を南朝といひ、武家の共主を北朝と申せしなり」と。新井白石は、正統たる北朝を滅んだ王朝の子孫と言い切り、権力がはっきり武家に渡ったという見解を示している。天皇の不徳が武家政治へ移行を促したと見た。
 どういうことかといえば、江戸期には、徳川幕府は京都に残る朝廷を前政権の遺物と見ていたという証拠である。それが幕末になって幕府は慌てふためいて、その遺物扱いしていた朝廷にすがる醜態を見せる。

 江戸期、のちに頼山陽は『日本政記』で「そもそも後醍醐、祖宗を念じ、民を斉ふの心、その位を楽しみ、欲を伸ばすの志に勝たず」と、後醍醐院の非徳と強欲が天下大乱の引き金となったことを非難しているのだ。

 新井白石や頼山陽の捉え方こそまともな歴史の見方である。それが長州藩によって孝明天皇と将軍家茂が暗殺され、大室寅之祐を明治天皇にすりかえるイカサマを明治政府が行って、歴史を大偽造したところから、事態はおかしくなったのである。

 だから言っておくが、『風雅和歌集』はれっきとした北朝正統の和歌集なのであって、これが国文学者どもによって無視させられているのは、彼らが和歌の文学性を読みきれないこともさることながら、大きく明治維新での孝明天皇弑逆から大室寅之祐すり替え、南朝正閏説デッチアゲにまでつながっている政治的意図によっているのである。よって、『風雅和歌集』の発掘と復権は、優れて現今のイカサマ歴史とウソの国文学を断罪する契機を含んでいる。

 光厳院こそは、その南北朝の大乱の渦中にもみくちゃにされながらも、誠実に生きようとされた天皇なのである。むろん時代性ゆえに、天皇たる彼には武家政治に移行する流れのなかでは、権力は持ち得ず、なんら自らの政治力を発揮する機会はなかった。
 光厳院は1313年生まれで、亡くなったのは1364年。51歳で生涯を閉じている。その生涯の最後の2年間は一修行僧として過ごしている。光厳院がその2年間を過ごした地が、京都京北町にある常照皇寺である。

 鎌倉幕府が崩壊するとき(1333年)、足利尊氏は京都六波羅探題を撃破する。六波羅探題はときの天皇、上皇らを引き連れて鎌倉へ逃亡しようとして、果たせず、近江番場の蓮華寺で全滅する。このとき光厳院らは惨劇の場から京都へ引き戻されたのちに廃位される。その後に、隠岐に流されていた後醍醐院が戻ってきて重祚(ちょうそ)すなわち再度天皇に返り咲く。ここから建武の中興が実施されるのだ。

 ところが建武の中興は2年半しか続かず、足利尊氏が反乱を起こして後醍醐を放逐する。廃位されていた光厳院は、弟の光明天皇を即位させる(1336年)。光明院は在位12年で次の子どもの崇光院に譲る。ところが1352年になって、光厳院、光明院、崇光院、直仁親王が南朝の捕虜となって、吉野の先の賀名生(あのう)に連れていかれ5年間監禁される。そのあとで光厳院は出家し、常照皇寺に隠棲する。
 北朝の天皇がみんな監禁されたので、足利尊氏は後光厳院を跡継ぎにし、さらに後円融院、後小松院と続いて、ここで南北朝時代が終わるのだ。この間を現今の皇統譜では全部削除して天皇と認めていない。ひどい話である。

 さて、もう一度この歴史を整理してみると、1331年に後醍醐院(大覚寺統)が鎌倉幕府を倒そうとして敗れ、隠岐に流される。このとき鎌倉幕府は三種の神器を後醍醐から取り上げ、光厳院に渡す。2年たって(1333年)尊氏の反乱で鎌倉幕府が倒され、光厳院も廃位され三種の神器も後醍醐に渡る。後醍醐の建武の中興の時代、光厳院の一族(持明院統)は京都の持明院で共同生活(いわば軟禁)を過ごす。

 次に1335年に尊氏が再度の後醍醐を裏切って反乱を起こし、翌年には楠木正成が湊川の戦い(1336年5月)で全滅し、後醍醐は吉野に放逐される。三種の神器は尊氏に返還されるが、後に後醍醐は「あれはレプリカだった」と言って、本物はこっちさとうそぶく。こういう人を騙す卑劣をやったおかげで、今も三種の神器は真贋いずれか不明になった。で、後醍醐は吉野朝をたてて捲土重来を期すわけだが、翌年には死んでしまう。

 後醍醐は死ぬときに、「玉骨ハ縦南山ノ苔ニ埋マルトモ、魂魄ハ常ニ北闕ノ天ヲ望マン」と遺言したとされるが、これは『太平記』の記述であるから、とうてい史実とは言えない。作り話だ。しかし、ウソの遺言ではあるがまさにその言葉どおり、いまだに後醍醐の怨念によって日本が歪められている。いい加減成仏してくれよ。
 そして南朝は存在するものの、少しの間、平和がやってくる。

 その平和も長続きせず、南朝は反撃に出て、楠木正行が四条畷の戦いで敗れ(1348年)、南朝の後村上天皇は奥吉野に逃亡する。その後、足利一族の内訌にからんで、なんと尊氏が寝返って南朝に降伏してしまう(1351年)。これで一時南朝側が京都を占領するが、尊氏がもう一度寝返って南朝に背き、北朝側に立つ。
 このときに南朝側は光厳院以下4人の天皇や親王を捕虜として賀名生に監禁することになる。尊氏は天皇になる人間がいなくなって困ったあげく、僧侶になる予定だった光厳院の子の後光厳院を、院宣と神器抜きで天皇にするのである。

 『風雅和歌集』が編集され完成するのは、1349年である。つまり、南北の対峙は続いているが、光厳院や光明院が一把からげて吉野に監禁される直前のほんのわずかな平和な小康の時期のことなのである。『風雅和歌集』は主として持明院統の歌人(天皇や皇后など)を中心に集めた歌集である。持明院統が、ほんの少しのあいだ、政治に振り回されず、逃げまわらなくていい時期に編まれた勅撰和歌集であった。





posted by 心に青雲 at 09:39| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする
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