2012年11月15日

「像で考える」(1/5)


 以前(2010年11月ころに)『「像で考える」「言葉で考える」』と題して、「像で考える」とはどういうことか、「言葉で考える」とはどういうことかについて、長々と説いてみたことがあった。
 最近また像で考えることに関して考えさせられることがあったので、当時の論文を再録してみたいと思った。

 その考えさせられる事とは、ある方からのメールで、『夢講義』第一巻で受験秀才の看護学生の例と「弁証法を学んだ鈍才学生」の例として紹介されていた2人の学生の感想文があるが、自分は初読のときには“よく書けているのにどうしていけないの?”と思い腑に落ちなかったというのだ。
 逆に良い例の心理学科学生の話は“なにやら鈍重そうな人だ”と正直なところ感じたともいう。

 この件に関して、詳しく(?)本ブログで説いたことを思い出し、若干、内容を変えつつ復刻してみることにした。

《1》
 文章というものは、「頭の中の具体の像(認識)を浮かべたままに文字にして綴っていくもの」である。ところがそうではなくて、頭に浮かべた像がないのに言葉だけで文章が書けてしまう人がいる、という話なのである。

 本ブログで何度か書いてきたが、この「像の展開」と「言葉の展開」との違いはなんだろうかと考えていきたい。
 像ではなく、言葉で考えるのはダメである。言葉で考えて、それを言語として表出しているとまともな文章は書けないということだ。

 たとえば流行歌手には、像で歌っている歌手と文字を歌っている歌手がいる。
 田端義夫の「かえり船」を聴いてみれば、彼の終戦直後の辛かった像が歌声に滲んでいることがわかると思う。「かえり船」とは復員船のことである。以下のサイトは、歌とともに本人の解説が聴ける。
http://www.youtube.com/watch?v=DLP6-JMQh2s

 これと美空ひばりの「柔」を聴き比べていただけると面白いと思う。ひばりは歌い方はうまいが、柔道の像がなくて歌っていることがわかるはずだ。
http://www.youtube.com/watch?v=0_W7-HcBIPA

 私は今の歌手はあまり知らないが、スマップやAKB48などは像を歌っていないと思う。以前取り上げたが亀井静香氏のホームページで、氏自身がいきなり「おかあさん」の歌を歌う。あれはむちゃくちゃ下手だが、像は歌っているのである。
http://www.kamei-shizuka.net/

 「像」を、わかりやすい例として歌謡曲でとってみた。
 こうして田端義夫と美空ひばりを聴き比べていただいた方は、「像で歌う」と「文字で歌う」の、像が描けたはずである。これが「像で考える」なのだ。
 ところがメディアの評価(?)に騙されて、美空ひばりは歌がうまい、天才だと信じ込むのは、像でとらえているのではなく、言葉でとらえているのである。

 さて、「像で考える」はわかったような気がするが「言葉で考える」「文字で考える」のほうが今イチわからない、像が描けないと思う方もおられよう。
 文字で考えるとは、自分がわからないことを作文しているのだ。
 たとえば「羊頭狗肉」という言葉は、どんな像だろうか? これを文字で考えるとは、「ヒツジの頭に、狗(いぬ)の肉」と考えてしまう場合が、文字で考えることだ。
 本来的には、羊頭狗肉という事実で考えるべきである。インチキ商売の事実の像があって、それを羊頭狗肉と表現するのだ。
 これを「対象の事実で考える」と称する。

 歌謡曲でいえば、田端義夫には復員船の事実、その像があるが、美空ひばりには「柔道」の事実の像がない。だから美空ひばりの柔道の像は「 ヒツジの頭に、狗(いぬ)の肉」みたいな捉え方の像であろう。
 多くの人は受験国語の能力で、言葉で「弁証法」を覚えてしまう。だから「弁証法は正反合だ」などと言ってしまうことにもなる。「正反合」は作文である。

 『なんごうつぐまさが説く看護学科・心理学科学生への“夢”講義(1)』の終わりのほうにある、受験国語を駆使する看護学生の文章(手紙)と、弁証法の実力をものにした心理学科学生の文章(手紙)が比較して紹介されていた。

 前者の「 “夢”講義の内容を大学受験の実力でまじめに読みきっている」看護学生の文章は全文を読むとよいのだが、一部だけを取り上げてみよう。

 「さて、今回の “夢”講義のテーマは、まさにズバリそのもの『夢とは何か』でした。看護の事例の問題《痛みを訴える(大きくは実体の問題)、夢にうなされる(大きくは認識の問題)》これらの問題は、人間がかかえている問題であり、『人間は認識と実体の統一体である』ということから、まずは、認識とはなんであるのかを押さえてから、その認識そのものであるというより、認識のありかたの一つそのものである『夢とは何か』という流れで、 “夢”講義が展開されていったのではないか、と思っています。」


 と、こういう文章なのである。いかがですか、理解できましたか? これが受験国語力、すなわち言葉で理解し、言葉で展開している秀才の見本ではなかろうか。
 事実の像がどこにもない。
 同書では、一般的に頭のよい人は事実からの反映より書物からの反映を大事にし、それを自分の実力にしているのだという。受験勉強の弊害である。

 その結果、現実をみる実力、すなわち像をいきいきと頭に描く実力が大きく低下して育っている。そうなると現実をみる機会をなるべく避けて頭のなかに出来事を創りだすのだという。そのほうが慣れているだけに楽だからだ。長ずるにしたがって、いよいよ現実をみるよりも書物やビデオですませがちになっていく。
 
 それに対して心理学科学生のほうは、三流大学の心理学科の鈍才であったが、受験で頭が歪まされていないだけに、わずか2年半で大学教授よりも上位の心理学の実力をつけてしまった。その女子大生の文章が以下である。

 「弁証法を学ぶことと、それから一流の学者になるために大切な『思想性を高くもつ』ことを御指導いただいて、学びました。毎日、『一流の学者になるんだ!』という意識をもち、そのために今までの自分を全部捨て、生まれ変わる努力をしました。食事を変え、服装を変え、聴く音楽、見るテレビ、読む本を変え、歩き方や話し方も変え、友達との認識の『相互浸透』のありかたをよくみて、それによって私自身がどのように『量質転化』していくのかを考えました。

 といいますのは、大学に通っている以上、友達とまったくつきあいを絶つことは無理なので、友達とまったくつきあわないことを否定して、自分自身のレベルを相手のレベルに落とすのではなく、常に学問的に相手とつきあうことにし、でも結果としては相手につきあわない、しかも学問的に相手につきあうことで、自分自身のさらなる学問的な勉強となる、という『否定の否定』もみえてきたりしました。」


 これは読むと像が描けるでしょう? この心理学科学生が「像で考えている」ことが良くわかったと思う。


posted by 心に青雲 at 07:04| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする
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