2013年10月05日

アル中からの脱却の要諦


 9月24日のブログで、デンゼル・ワシントン主演の『フライト』(2012年)を取り上げた。
 今回はそのなかでデンゼル・ワシントン演じる主人公「ウィトカー機長」がアルコール中毒だったことについて触れたが、そのことを考えてみたい。もう一度ストーリーを簡単に述べておく。

 ウィトカー機長は墜落寸前の旅客機を奇跡的操縦で不時着に成功し、多くの命を救う。一躍英雄となったウィトカー機長だったが、彼の血液中からアルコールとコカインが検出され、事故の原因は彼にあるのではと疑われる。
 この映画で知ったことだが、いかに泥酔していても、コカインとかヘロインとかを吸うと、一発でシャキッとするらしい。だからアル中であっても、コカインをやれば操縦ができる。むろん許される行為ではない。
 
 彼は重度のアルコール中毒で、フライト中も飲酒しながら操縦していたのだった。彼はその疑惑のため全てを失い、終身刑にされる危機に直面する。
 機長は弁護士と組んで無罪を勝ち取るべく、さまざまなウソが作られて行く。 
 公聴会が開かれ機長に質問があびせられる。いずれものらりくらり、覚えていないとか、酒は飲んでいないとか、ウソばかり。
 だが最後に、機内のゴミ箱から、酒ビンが発見され、飲んだのは誰かと問われる。

 事故直後、血中からアルコールが検出されたのは乗員2名であり、1人は機長、もう1人は恋仲だったCAだった。そのCAもアル中だったことが暴露される。だから機長がフライト中に自分は飲んでいない、隠れて酒を飲んだのはそのCAだろうと答えさえすれば彼は無罪放免されるはずだった。
 しかし機長は、亡くなったCAに罪をかぶせることをついに潔しとしなかった。
 フライト中に飲んだのは自分であり、アル中であることを告白する。
 そして刑務所にいれられる。

 彼は刑務所のなかで、受刑者たちに体験を語る。仕事も家族もなにもかも失ったが、今の自分は「自由がある」と。そして、アル中からも解放されたのだ。
 
 アル中を克服するのは大変むずかしいらしい。大沢在昌の『心では重すぎる』は、アル中ではないが薬物中毒の更正施設(民間)の話が出てくる。それを読んでつくづくこういうものから離脱する困難さが理解できた。

 『心では重すぎる』の薬物中毒更正施設では、カウンセラーがいて指導するわけではなくて、中毒者が同じ釜の飯を食いながら、互いに自分の体験をできるだけ正直に語ることとともに、仲間の苦悩を知ることで、仲間も頑張っているから自分にもできそうだと前向きになることを狙っているようであった。
 アル中の更正施設でもたぶん同じようなものかと思う。指導者がちゃんといるはずだが。
 これは集団力で治そうというのである。
 
 それについて否定的に見る気はないが、なにか迂遠な方法にも見えるし、決め手ではないように感じられる。
 人間はなかなか傷をさらけだしたくないものだし、ええ格好しいだし、反省しても一時的に終わり、娑婆に出てもまた何かのきっかけで逆戻りして酒に溺れてしまう、そういうものではないか。
 更生施設でアル中の仲間に告白する、更正を誓うのは、いかにも集団力、つまりあの人が頑張っているなら自分だってできる、負けていられないという気にさせる点では有効な方法ではあるが、おそらく悪くすると傷の舐め合いになるのではないか。

 だが、『フライト』のウィトカー機長の場合は、いわば一発で治った。刑務所に入ることを選択してアルコールを断つのだ。判決が情状酌量となってムショに入らずに済んでいたら、またアル中に戻ってしまったかもしれないが、一応離脱には成功している。映画の中の話だけれど。

 なぜ、彼は更生施設のようなところで、仲間に向けて告白するのではなく、自力で決断ができたのは何故だろうか。

 飛行機の機長は、大変プライドが高い職業である。狭き門であるばかりではなく、日常の健康管理、命懸けの重圧、そしてそれに見合った高給。いやがおうでも、責任感は培われ、職業に人一倍の誇りをもつ。
 フライト中の飲酒を問われ、職を失うことへの恐怖があっただろうが、最後はこのプライドが、ウソをつくことを潔しとしなかったのではないかと思う。
 まして彼の操縦技量は抜群で、機体が次々に壊れていくなか、不時着を成し遂げられた力量への誇りもあっただろう。

 また同僚で恋仲のCAが亡くなりはしたが、飛行機がダッチロールを起こしているなかで、座席から投げ出された乗客の少年を決死の覚悟で救出していた。その崇高な行為に泥を塗るような、死人に口なしで罪を着せてしまうことは、やはりプライドが許せなかったのであろう。

 すなわち、自分を立ち直らせたもの…、アル中からと、人に罪を着せてしらばっくれる卑怯からと、その二つがまさに「直接」の関係で(切り離せない関係で)一体となって、彼の認識をシャキッとさせたのである。

 よく言われることらしいが、主婦がキッチンドランカーになると、立ち直るのが非常に困難らしい。酒がいつも台所にあるという環境に加えて、主婦には何もプライドが育っていないからである。
 家事以外にやることはなく、友達とのおしゃべりかせいぜい趣味。帰宅した夫に愚痴をこぼすしかない。ぐうたら生活に溺れている。

 プライドがその人間の言動を規制する(疎外する)ことがないのである。

 それに、アル中とはアルコールがもはや食べものに量質転化したのである。われわれが食事を食べないわけにいかないように、そのレベルでアルコールを「食べずにはいられない」状態になる。だから本人は好きで飲んでいるだけで、いつでもやめられると高をくくっていても、体が酒を食べ物として要求するから、やめられないらしい。

 アル中の更正施設で、集団力で立ち直らせようとする試みに欠けていると思われるのは、このプライドを持たせることではないのか。
 要するに、更生施設あたりで、反省させれば、また自分の過去を見つめさせれば、過ちに気づいて改めるだろうとするやり方は、さほど有効ではないのではないかと思う。

 端的に言えば、人間はプライドである。これをなくせば終わりだ。だから主婦がアル中になるとプライドを梯子にして泥沼から這い上がることができない。
 指導者が患者に、反省がたりない、もっと反省しろと言いつづけても、患者はいかようにもごまかすことができる。指導者をごまかし、自分をごまかす。

 べテランのカウンセラーにもなれば、患者のウソやごまかしは見破るだろうが、自分の心の弱さを克服するには人間としての誇りしかないと気づかせられなければ成果はあがるまい。
 普段の生活のなかでの立ち居振る舞い、食事ありよう、会話のしかた、服装、そういったいわば愚にもつかぬあらゆる事どもに、人間のプライドを貫徹させるべきである。

 カウンセラーとしては、患者の歩き方ひとつに、プライドある生きざまが貫かれ表現されているように、そこを指導しないで、いくら言葉を連ねて反省させてみても、たかが知れている。

 私の経験では、あるとき空手の後輩がズンだれた歩き方をしていたので、呼び寄せ、プライドのある歩き方と、そうでない歩き方を演じてみせ、こういうふうにみっともないんだと解らせたら、以後、彼の認識が格段にシャキッとしてきたものであった。これは歩き方を媒介にして、認識を直させたのである。

 何度も言うが映画のウィトカー機長は、人間はプライドであることに気づいたのである。ウソをつき罪を死人に押し付ければ、機長のままでいられただろうに、それでは自分の人間としての誇りの喪失に耐えられなかったのだ。
 だからアル中から離脱できた。

 映画では最後に、息子が刑務所の父親(機長)に面会に来る。離婚して何年も会えなかった息子がやってきて、今度大学受験のために、レポートを提出しなければならないと告げる。そのテーマは「僕の最高の人」だという。それは父親だと。
 それでいろいろ聞きたいのだという。父親が「任せろ」と答えると、息子はカセットレコーダーを向けて「あなたは何者なんですか?」と問う。
 それを聞いた父親は、にっこり笑って「それはいい質問だ」と答える。
 そこで映画は終わる。

 最後の「いい質問だ」と答えるときにデンゼル・ワシントンの表情が実にいい。名優だ。
 映画では彼が答えずに、観るものに考えさせる形で終わっているが、私が彼に代わって答えるならば、「何者か? それは人間はプライドなのだということに尽きる」と言うであろう。






posted by 心に青雲 at 05:49| 東京 🌁| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
言うてやり、やつてみす、やらしてみて、褒めてやらねば、人はうごかん
確か、後藤新平の 言葉でしたね。

プライドと自信、それと誰か愛する人のため、誰かを喜ばせ誰かに応えるためでなければ、超えることは、不可能だと思います。

人は自分のためだけには、生きられますん。

人間は、人の間とかくではありませんか?
Posted by 神戸だいすき at 2013年10月05日 18:38
『やってみせ、いって聞かせて、させてみて、褒めてやらねば人は動かじ』
これは私の記憶では、山本五十六ではないでしょうか?
Posted by 神戸だいすき様へ(ブログ筆者です) at 2013年10月07日 16:46
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