2013年12月20日

『生者へ』の生きざま(1/2)


《1》
 今週は、「三島由紀夫や あわれ」と題して、丸山健二氏の三島批判を紹介しつつ、私見を述べた。
 今回は稿を改めて、丸山健二氏の『生者へ』から彼の文学論を紹介しておく。
 『生者へ』は丸山健二氏の「自伝的エッセイ」となっていて、2000年10月に刊行されている。

 彼自身の自伝には興味はなかったが、文学論や生きざまには共感するところもあり、また物足りなさを感じた点もあった。

    *      *

 活字離れがここまで来てしまった原因を大別すれば、ふたつくらいあるだろう。ひとつは、映像文化に馴れてしまっていちいち文字を追うことが面倒になったこと。ひとつは、現実から逃げたくて、現実に興味がなさ過ぎて、書いてあることならば何でもかんでも鵜呑みにするおめでたい読者に書き手が調子を合わせ過ぎたために、只でさえ低い文学の質がもっと低くなり、遂にはそれでもまだ何かあるのではないかと期待していた真っ当な読み手までが去ってしまったこと。

 どうやら音楽の世界でも似たような現象が起きているらしい。世界的に流行している、現代の呪文ともいうべき〈癒し〉や〈救済〉に波長を合わせ過ぎたために、現代作曲家たちの多くは分かり易さを過剰に取り込み、その結果、偉大な古典との差がますます開くことになってしまった。

 それは確かに商業主義には則した路線であるかもしれないが、しかし、本来在るべき芸術の精神には著しく反している。言うまでもないことであるが、芸術は万人のために存在するのではない。それを理解しない者にとっては紙屑同然でしかないという常識を承知の上で携わる強い姿勢こそが芸術の精神なのである。

 しかも、群れ集うことや、馴れ合いや、年功序列や、社会的な出世や、大御所の地位といった価値観とは一切無縁であらねばならない。
 安定した時代が長くつづくことに異議を唱えるつもりはない。戦争の時代でなければどんな時代でも甘んじて受け入れよう。だが、過度な安定は精神を腐らせ、その腐敗は魂にまで及んでゆく。

 どこまでも逃げることが可能な幸福で喜劇的な時代に生まれて育った人々は、感情の大きな振幅に揺さぶられながら煩悶し、煩悶を重ねながら人間的な幅を広げ、人間らしい人間へ、生きていることの意味を激しく己に問いかけ、不正を正そうとする真の生者へと向かう大切な機会を逸してしまった。

 現代の呪文ともいうべき〈癒し〉や〈救済〉に波長を合わせ。どこまでも淡く、どこまでも優しく、どこまでも綺麗事の、胸ぐらをつかまれて「おまえはそれでも生きているつもりなのか」などと絶対に迫ったりしない、毒にも薬にもならない作品にしか接することができなくなった。

 あるいは、ひと目で詐欺師とわかるようなむさ苦しいオヤジを教祖などと崇め奉って人生の全てを預けてしまい、あるいはまた、危険な薬物がもたらしてくれるところの一時の快楽に命を委ねてしまい、自ら破滅を呼び込むようになった。

 文学の核をなす大きな要因とは、怒りと悲しみと喜びの三つである。それ抜きで成り立つ文学はない。そのうちのひとつが欠けてもいけない。悲しみだけでも、怒りだけでも、喜びだけでもいけない。相互に関連し合ってこそ本物の生者を描いたと言えるからである。
 
 感情の度合いは深いほどいい。悲しみと怒りと喜びが渾然一体となって発する輝きこそが、単なる感情の昂りを思想や哲学へと導き、遂には芸術の領域にまで引き上げてくれる踏み台になり得る、そしてその堅固な足場に立つことによって初めて、この世を生きてよかった、もしくは、この世は生きるに値しなかった、さもなければ、この世でしか悟れないことが確かに在ったというような、真の生者としての本物の感想を発することができるのである。


   *     *

 まだ引用を続けるが、今日のところはここまで。

 「音楽の世界でも似たような現象が起きているらしい」と丸山氏は書いている。それに関しては、丸山氏と見解は異なるかもしれないが、ブログ「VINLY JUNKY」を主宰しているMICKEY氏にも共通した思想を感じ取ることができる。
http://blog.livedoor.jp/e86013/

 MICKEY氏も音楽における思想性の高みの堅持、そして「本来在るべき芸術の精神」を追及せんとする志はすばらしいと思う。

 論の全体に関しては同感ではあるが、「文学の核をなす大きな要因とは、怒りと悲しみと喜びの三つ」と丸山氏は言うのは、いささか単純化しすぎではなかろうか。私は文学の核とはそのようなものではなく、ひとことでいえば「人生、如何に生きるべきか」を厳しく問うものであると思う。

 丸山氏が日本人の活字離れが加速したことについて、「ひとつは、現実から逃げたくて、現実に興味がなさ過ぎて、書いてあることならば何でもかんでも鵜呑みにする」と解いてみせている。
 これは間違いではないだろうが、現象論であろう。そもそもなんで昨今の若者が「現実から逃げる」「現実に興味がない」状態になってきたかの構造論を解明しなければなるまい。

 それは端的にはすべての子供が受験勉強を強いられ、とりわけ幼少期から思春期にかけて現実と向き合い、自然や社会を手で触れるような形で脳細胞を育てないからである。さらには電子ゲームのやり過ぎが致命的である。あれらはすべてバーチャルであるから、空想のなかで遊ぶことで現実の厳しい環境に対応するいわば胆力が育っていかない。

 そういう世界に身をおいて脳細胞を創ってしまうから、「現代の呪文ともいうべき〈癒し〉や〈救済〉に波長を合わせ」るしかなくなるのだ。
 中学生以上ともなれば、流行の「ゆるキャラ」なんかに「かわいい!」なんぞと浮かれるわけもなく、むしろ目を背けるはずが、いい歳こいた大人までが笑いかける。

 それを恥ずかしいことだと言う大人はもういない。





posted by 心に青雲 at 06:59| 東京 ☔| Comment(1) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
一カ所だけに反応して申し訳ないですが、私も「癒し」と言う言葉が大嫌いです。
ものすごい傲慢な感じを受けます。

たとえば、音楽、たとえば香り、たとえば、景色、それらが誰をも彼をも「癒す」と、なぜ決めつけることができるのか?

さらに「癒される」ことの価値観も、何か間違っている気がします。
ハングリーだから成し遂げる事。
傷によって学ぶこと。
そういう影の部分を抹殺して「ひなた」だけで行こうとする、安易さがたまらなく嫌です。

いつのまにか平和が続きすぎて、こうなってしまったのでしょうか・・・

ペットのお葬式が本気で挙行され、喪服を着た弔問客が訪れ、人と同じように火葬して墓地に埋葬する・・・こういうのも、気持ちが悪いです。同じ感覚をうけます。
もう、私は過去の人になってしまったのかもですね。
Posted by 神戸だいすき at 2013年12月20日 07:28
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