2014年03月31日

数学が得意な教師の矛盾


 私の小学校の6年間は、ちょっと悲劇的だった。
 1年生から3年生までと、4年生から6年生までの、2人の担任に教わった。前半の3年間はシベリア抑留帰りの教師で真っ赤か。ずいぶん洗脳された。後半の3年間は女の教師で算数が得意な人だった。

 どっちも欠点はあったが、今になって思うとどちらが悪かったかというと、女の教師のほうだった。そのわけを説いてみたい。
 小学校のときは理科が好きで、卒業のときに表彰されたほどだったのに、中学、高校へ行くに連れて、理科系が苦手になっていった。

 勉強しなかった奴が悪いと言われればそれはそうだが、問題は教師の質である。
 小学校の算数が得意な女教師もそうだったが、中学・高校で物理や化学の教師になっている人は、その教科が得意だから教師になったのである。物理が好きで得意だから、物理の教師になったわけだ。普通はそうである。

 物理なり数学なりが得意な先生に教わればいいことじゃないか、それの何がまずい? と言われるだろうが、まずいことはあるのである。
 何の教科でも同じだが、ここでは算数・数学を例にする。算数が得意な人は子供に算数を教えるのが不得手になる。
 数学が苦手で苦労して勉強して、やがて得意になった人なら概ね良い教師になれるのだが、すんなりとあることが出来てしまった人間は、往々にしてなぜすんなり出来たかを考えない。

 だから出来ないで苦労している子供、数学がわからない子供の気持ちが理解出来ない。なんでこんな簡単な問題が解けないのか、馬鹿じゃないか、となる。
 どこでつまずくか、どこで苦しむか、自分はすんなり突破できたから、わからないことになる。数学で苦労した人が数学(算数)の教師になるならまだいい。

 端的には秀才ほど、初心者に教えるのは苦手になる。野球でも名選手かならずしも名監督、名コーチになれないと言われるであろう。スーパースターだった長嶋茂雄が監督としては凡庸だったではないか。
 画家でも作曲家でも、有名になった人ほど、弟子から自分を超えていくような芸術家を育てることがない。ベートーヴェンもモーツアルトも弟子は育てられなかった。天才肌の人ほど、教育者、指導者になれない。と言えば、了解してもらえるだろうか。

 例えば自分のある性格とか、クセとか、得意なこと、好きなこととか、絶対に受け付けないこととか、もろもろは、どういう過程で創られたかを、しっかりと総括的に捉えている人は少ないのである。
 たいていは観念論的に、いわく才能、いわく生まれつき、としてしまう。

 数学が嫌いなアタマ、逆に数学が得意になったアタマ、あるいは好きとか嫌いとかの認識、これらがどのようにして創られてきたか、言い換えれば自分で自分を育ててしまったか、の、結果だということを自覚しているかどうか。
 だれでも本来的にはそうでなければいけないが、とりわけ教師になる人、指導者になる人は、そこが出来る人間でなければ、教わるほうは悲劇である。

 あるアタマ、ある認識は、自分を自分が好きで(あるいは嫌いなために)育ててしまった結果である。
 人間はその人が思ったように反映する。それが認識である。人間の感覚はカメラのように無感情に対象を写し取るわけではない。感情的に反映し、それがくり返されることで量質転化してもはや抜きがたい性格に変化して行く。

 そして、その創りあげられた結果(性格とか好悪とか)がこれからどういう方向へ発展するか、あるいは悪化して行くのかを考えなければならないし、それを考えられるアタマの実力をこそ、培っておくのが大事な教育の根幹なのである。

 だから、大学時代にわたしの周囲の友人達は、授業をさぼってせっせと麻雀にうつつを抜かしていたが、彼らはそれをただの息抜きとか小遣い銭稼ぎとか、面白いから…とて夢中になっていたのだろうが、それをすることがどういうアタマを創りつつあるのかを、いささかも反省しなかった。

 これを同じくに、子供のころから数学が好きで、得意になって、めでたくそれを生かして数学の教師になったはいいが、その過程に内在した「問題」を反省することなく、「教えられるから先生なのだ」と傲然としていくのである。
 もちろん、子供のころから東大一直線で「受験マシーン」となって、合格することだけに集中し、めでたく東大に入るまでは良かろう。人生、それがゴールならば、だ。

 しかし本当の人生はそこから始まるのではないか?
 恋もすれば、結婚して一緒の生活を築き、子供を育てて幸せにしてやり、仕事も大過なくこなして出世して、後輩からも上司からも信頼され、「あの人は人望がある」と言われる人間になっていく必要がある。
 だが、秀才ほど、これらに失敗する傾向が強い。
 多くの官僚は秀才だから、国家の舵取りに失敗する。アメリカや支那の言いなりになるしか能がない。日本を「取り戻す」というのなら、まず東大出は国家公務員にしない規則にすることだ。

 例えば「人の気持ちがわからない」「得手勝手」「家族や後輩を虫けらのように扱う」「芸術がわからない」「美しい風景を楽しめない」「傲慢不遜」「情緒不安定」こうした鼻つまみ者になっていきかねない。
 あなたの周囲になんぼでもいるでしょう?

 例えば子供に、コップというものを教える場合。
 ただコップとして教えるのが、理科系の秀才先生なのである。コップを文化的なものとして、水を飲む道具だとか、花を生ける器だとか、江戸切り子の風情はどうだとか、コップを作る人の苦労はどうだとか、たくさんのことを反映させつつ教えないと、子供にとってのコップは生きてこない。生きた現実に対応した生きた認識になっていかない。

 ところが数学は、そういうコップならコップにまつわる知識なり感情なりを捨象して、「1」とか「足す」とかの数字、計算にしてしまう。またそう出なければ学習できないことも確かであるが、それだけに終始して計算さえできればいいとしてしまうのが問題である。

 知識を覚えるときには、感情も覚えさせなければならない。ところが数学が得意になった教師は、知識だけのアタマになっている。そしてそれを子供に押し付ける。教師自身が数学を得意になって、問題ばかり解いてきたゆえに、感情薄い人間になっているのである。
 感情豊かな幼い子供にとって、そんな感情の薄く育った教師に教育されることほど辛いことはない。

 数学の得意な教師ほど、数学しか扱えないことになっている。予備校の教師ならそれもいいだろうが、小・中・高校の教師はそれではダメである。因数分解を教えながら、それが落語でも聞くような面白さならいいのであるが…。
 
 人間は本来、世界を無限に描くほどの、夢を描く実力、夢に向かって努力する実力を持っているのに、それを数字だけに、計算式だけにしては、子供の感性が枯渇していく。だから友達をいじめて平然とする子供が育つのだ。
 感性を捨象するから、結果として教える教師も児童も情緒不安定になる。

 小学校の先生になる人は、概ね数学(算数)が得意な人である。小学校は全教科教えなければならないからだ。つまり小・中・高校・大学と、数学で挫折せずに済んだから、小学校教師になれたのはご同慶の至りではあるが、それはつまり、多くの小学生が算数に苦労することになっているのである。

 小学校の算数の先生になるのであれば、高校や大学での数学の学習は不要である。微分積分、二次方程式なんかを小学生に教えるわけではないからだ。 
 そんなことよりも、子供に無限の世界を描かせてやれる教師としても実力を、高校や大学でしっかり養うことではないのか。
 小学校教師になるには大学出の資格が必要で、だから数2、数3、高等数学までやれ、というのは考え直すべきであろう。





posted by 心に青雲 at 06:55| 東京 ☀| Comment(9) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私も算数は苦手でしたが、原因ははっきりしていました。鶴亀算とか、植木算を、解法を教えないで試験に出されたので混乱したのです。クラスに2,3人いた灘中レベルの受験生のためだけのテストでした。教師も、当時は、そういうこと平気だったから。その子たちの家庭教師もアルバイトでしていたそうです。

そこで、論理的思考を習い損ねたのは痛手でした。結局高校の高等数学で躓く原因はそこにあったみたいです。

ところで、いますよね。いかにも東大って、いかにも、機械でできているような人。

反対に、むしろ、それを自覚してコンプレックスになっている人もいるみたいだし、東大に行くしか能が無くて、社会に出れない落ちこぼれもいるようですよ。

勉強だけが優劣の基準ではないですが、最近になって頭の良し悪しってあるなぁ~と思うようになりました。

けど、頭が良ければOKと言うほど甘くないですね。
Posted by 神戸だいすき at 2014年03月31日 07:57
 エジソンは1+1を粘土でやって、なんで2になるかが理解できなかったようです。所謂エリートは、所詮常識や既成学説の枠でしか物事を考えられないのではないでしょうか。
 私の子供は今度小3になります。これでいいのかどうかはわかりませんが、学校の勉強よりも表で遊ぶとこを薦めています。そして人と競いあうことを教えません。成績は気にしなくていいといっています。周りの目を気にして、自分のことを周囲の評価に依存しないと生きていけなくなってほしくないからです。
 折り紙と粘土がすきで、思う存分やらせてます。こないだ、一枚の紙を真ん中に切れ目をいれて1枚で2つ続きの鶴を折りました。誰からも学んでないのに。
 五感を通して自然から感性を学び、自分のオリジナルをおもいっきし楽しむ。これでいいんだと思います。
 
Posted by 麻の中の蓬 at 2014年03月31日 13:27
小学校教師は体育大学卒が多い。体育大学卒を特別に採用する枠がある。
岡山市の体育大学環太平洋大学の学生が全然勉強していないのに小学校教師に採用された。算数がわかるのだろうか。小学校教師退職した人で三角錐の展開図は三角形だとまちがったことを言っている人がいた。扇形が正しい。
くだんの環太平洋大学卒で小学校教師になった人は大学生時代、倉敷市の川崎医療福祉大学看護学科の女子学生とやりまくり、できちゃった婚した。こんなのを教師にしていいのか。
Posted by 犬伏正好 at 2014年03月31日 15:41
三角錐は円錐のまちがいでした。
Posted by 犬伏正好 at 2014年03月31日 20:36
一流の数学者は情緒も哲学もある。岡潔とか。
学校の教師にしかなれない中途半端な学校秀才がいけない。出来ない生徒の気持ちがわからない。
Posted by 犬伏正好 at 2014年03月31日 21:09
麻の中の蓬 様

コメントありがとうございます。

エジソンの場合は、本人と教師が悪いのですね。
Posted by 麻の中の蓬 様へ(ブログ筆者です) at 2014年04月01日 14:14
犬伏様

岡潔ですか?
彼に哲学はないですよ。哲学というからには、すべての個別科学を掌に乗せる実力がないとダメです。
彼は数学をやっただけ。
しかも数学者からは数学の新発見は不可能です。

彼はせいぜい、説教を垂れた、のレベル。
Posted by 犬伏正好様へ(ブログ筆者です) at 2014年04月01日 14:19
数学の世界をご存じないようなので教えて差し上げますね
小中高の数学教師に数学ができる人間などいませんよ
Posted by とn at 2017年07月14日 19:41
済みませんが公立高校で数学教員をしています。
仰せのとおり、私は数学ができません。
先端の数学は凡人の及ぶところではありません。

でも数学が「できる」と「小中高レベルを生徒に
教えられる」と「好き」は、違うような気が
いたします。

古くは曽野綾子の因数分解?以降は社会出て
からいらねえだの、高石ともやのサインコサイン
なんになるだの、最近では鹿児島県知事の女に
数学はどうのこうのだのと恩恵受けて生活して
いながらよく言います。

一方で街を行く髪染娘の中にも、数学脳や博士も
おいででしょうが果たして・・。
それ程までに数学は、難しい。
私にはその入り口をかみ砕いて「あなるほどね」
と言わせるのが精々で、また喜びにもなっています。

それにしても、できる生徒は少ない。寝てしまう。
教材を工夫しながら、笑わせながら私は楽しいです。
Posted by 門前小僧 at 2017年07月15日 04:30
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