2015年02月06日

テロリストが創った国家、日本(4/5)


《4》
 われわれが学校教育で教わる“官許歴史”では、幕末争乱の時代に登場した薩長側の人物は、「勤王の志士」と呼ばれ、日本を封建時代から救い、近代国家へと進化させたと英雄的に脚色されている。
 その脚色捏造の度合いが著しいのが、坂本龍馬であり、吉田松陰であり、高杉晋作であり、西郷隆盛であり…となる。

 そういう虚像をこしらえた司馬遼太郎ら、作家や映画監督らは大罪である。NHK『花燃ゆ』の脚本を書いた大島里美、宮村優子は、恥を知れ。

 本稿冒頭にしるしたように、今年は愚劣のNHKが大河ドラマで吉田松陰を主人公にするので、その松陰の脚色される大嘘をかなわぬながらも暴いていかねばと思う次第である。

 松陰の本性はただの無法者である。現代人ならさしずめ暴走族か、「誰でもいいから人を殺してみたかった」で殺人を犯す若者といったところか。当時、バイクがあったら暴走族になって「一家」を率いたようなものだ。
 松蔭の幼少期や思春期がどうであったかが分かれば、彼の認識があれほどに身勝手で過激になったかの謎が解けるのだが、今のところ難しい。

 松陰といえば松下村塾と一体化されて語られるが、そもそも松下村塾とは、松陰の叔父の玉木文之進が開いていた私塾である。玉木が甥の幼い寅之助を寺子屋代わりに引き取っただけのことだ。松蔭が主宰したわけでもない。

 『明治維新という過ち』の原田伊織氏は、松陰をこう評している。

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 「ひと言でいえば、松陰とは単なる、乱暴者の多い長州人の中でも特に過激な若者の1人に過ぎない。若造といえばいいだろうか。今風にいえば、東京から遠く離れた地方都市の悪ガキといったところで、何度注意しても暴走族を止めないのでしょっ引かれただけの男である。

 ただ仲間うちでは知恵のまわるところがあって、リーダーを気取っていた。といっても、思想家、教育者などとはほど遠く、それは明治が成立してから山縣有朋などがでっち上げた虚像である。
 長州藩自身がこの男にはほとほと手を焼き、遂には士籍を剥奪、家禄を没収している。つまり武士の資格がないとみられたはみ出し者であった。

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 ところがNHKドラマでは、幼いころから長州藩きっての秀才と認められ、得難い宝として描かれている。だからペリーの黒船に乗り込んで無銭乗船でアメリカに連れて行けと傲慢無礼を働いた松陰を、藩中でなんとか救ってやらねばと奔走する様子が放送された。
 バッカじゃないの。

 松蔭は21歳のときに長州藩を脱藩している。勝手に水戸から秋田、津軽まで旅して歩いた。翌年長州に戻ったが、脱藩したから士籍を剥奪され家禄も没収、実家の杉家に保護観察付き居候にされた。

 その処分の2年後、長州藩足軽・金子重輔と長崎に行って停泊中のロシア軍艦に乗り込もうとしたが、クリミア戦争のあおりでロシア艦が早くに出航してしまって果たせなかった。お祖末の一件。

 さらに翌年、松蔭24歳のときに再び金子を連れて、来航中のペリー艦に乗り込み、密航を企てた。
 ロシア艦と米艦ではいずれも、プチャーチンとペリーを暗殺しようとしたとする説がある。
 激情家で世間知らずの松蔭ならやりかねなかった。

 松蔭がそこまで思い詰めたのは、幕府が国家の危機に鈍感で、諸外国からの開国要請に打つ手が見出せないほど無能だったから、松蔭を筆頭に「尊王攘夷」の若者が起ったのだと“官許歴史”では説かれるが、大嘘である。
 幕府はちゃんと国際社会を分析し、有能な人物を登用して着々と外交交渉の実績も積み、国家の統括を行なっていたのだ。

 多くの小説や今回のNHK大河ドラマでも、黒船に近づいていった松蔭は、正直に地元の漁師に頼み込んで小舟を借りたかのように描くが、嘘である。
 松蔭と金子は漁師の船を盗んだのである。その小舟が漁師一家の生計を支えていたはずで、それを盗めばどれほど漁師家族を困らせるか、この二人は身勝手で考えず、現代の松蔭信奉者たちも不問に付すのはアホである。

 アメリカのポーハタン号には乗船を拒否されている。当然だ。氏素性のわからぬ馬鹿者を密航させるわけにはいかない。その交渉中に盗んだ舟が流されてしまった。当時、米軍艦が停泊中の下田は幕府の警備体制が厳重に敷かれていたから、すぐに盗まれた小舟が発見され、遺留品から足がついた。

 やむなく松蔭は逃れられないと知って自首したのであって、もし小舟が露見しなければ、自首はせずに逃げるつもりだった。
 だから、NHKの『花燃ゆ』でも、誠実な松陰は企てが失敗すると堂々自首したと描かれているが、嘘なのである。

 こうやって、後世の小説家や脚本家は勝手に松陰を英雄仕立てにデッチあげ、おもしろおかしくする。彼らはむろん軽薄なうえに大衆に売れれば良いから脚色するし、官許歴史がそうなっているからと、鵜呑みにするのであろう。
 忠臣蔵にしても何にしても、語り部が脚色したものが歴史の真実にされてしまう。

 松陰は密航を企てたので処刑されるところを、なぜか老中阿部正弘が反対し、赦免されて長州に戻される。またも実家預かりの身となる。
 再び原田伊織氏の『明治維新という過ち』より松陰の最期までを引用する。

     *    *    *

 そのような境遇下で、叔父であり師でもある玉木文之進の「松下村塾」を借りるような形で久坂玄瑞や吉田稔麿、前原一誠たちと交わる。これは、僅か三年で閉じられるが、世にいう吉田松陰=松下村塾という維新のシンボルともいえる言葉は、この時期のことを指している。

 公教育では、久坂や前原以外に、木戸孝允や高杉晋作、品川弥二郎、伊藤博文、山縣有朋等が門下生として教えを受け、維新の英傑を輩出したことになっているが、このことも大いに史実と異なる。

 木戸は明らかに門下生でも塾生でもなく、高杉晋作も“門下生”というより“ダチ”といった方が近い。そもそも松陰の松下村塾とは、師が何かを講義して教育するという場ではなく、よくいって仲間が談論風発、『尊王攘夷』論で大いに盛り上がるという場であったようだ。

 そういう仲間のリーダー格が松陰であり、いろいろな縁で山縣有朋のようなどこにも教えを受ける場のない境遇の者も集まるようになり、後輩も生まれてきたということのようである。(尤も松陰は、山縣のことをほとんど知らない)

 安政五(1858)年、日米修好通商条約が締結されると、松陰は老中間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺を計画、藩は再び松陰を捕縛、投獄した。
 翌安政六(1859)年、幕府は松陰の江戸への送致を命令、松陰は伝馬町の獄舎にて斬首刑。満二十九歳。享年三十であった。

 松陰は、大老井伊直弼の暗殺も主張していた。また、幕府転覆を堂々と主張し、藩に対して大砲を始めとする武器の支給を願い出たりしている。とにかく、惨殺、暗殺と喚く。これがまた、久坂や前原といった松陰同様の“跳ね上がり”には受けたようだ。

     *    *    *

 松陰は最下層の武士(?)であり、多少陽明学をかじったかの玉木文之進あたりに教えられたにしても、20歳からの10年間は旅か獄中か、の生活をしていた馬鹿者だったから、私塾で後進の者に教えることなど何もなかったであろう。

 今日、松陰像なる絵が残っているが、ひどく老成した顔に見える。そんな馬鹿な。今より多少老けるのが早かったにしても、もしくは獄中生活が長くてやつれたにしても、わずか29歳の男が、まるで50か60かの智慧者みたいに描かれたことこそ、薩長官許歴史学のインチキを示している。

 松陰を処刑と決めたのは大老井伊直弼であり、安政の大獄の一貫とされるが、これも嘘である。幕府も、さんざん手を焼いた長州も、松陰など歯牙にもかけなかった。ただの不逞の輩として処刑したにすぎない。
 
 それをこうまで松蔭を英雄に仕立てたのは、“明治の元勲”山縣有朋である。長州のテロリストが松蔭を「師」として崇め出したのは、明治以降の長州閥の元凶で帝国陸軍の祖を大村益次郎から引き継いだ山縣有朋だった。

 山縣有朋は幼名は辰之助、通称は小助、のち小輔、さらに狂介と改名。長州藩の中間の子だった。中間とは足軽以下で、武士の小間使である。それが幕末の混乱で長州奇兵隊に入り、スパイや暗殺を手がけて頭角をあらわし、あろう事か新政府で栄進を続けて帝国陸軍のトップに上り詰める。

 卑しい出自を恥じていたろうし、ゆえに拠り所と箔を付けねばならなかったから、山縣有朋は故郷の松蔭を「師」と持ち上げて、自分はその弟子として薫陶を受けたんだとでっち上げた。

 余談ながら、剣道界では「活人剣」などと言う言葉がある。柳生宗矩が提唱したとされる考えで、沢庵和尚の「剣禅一如」とともに、要は人殺しの手段だった剣や刀の武術を、人間としての高みを目指すものとするものだ。

 こんなものはそれまでさんざん人を殺した人間が、老いてきて今度は自分が殺されたくないものだから、卑怯にもそういう愚劣なことをまことしやかに言うのだ。
 山縣有朋もその口で、テメエがさんざん悪をやってきたから崇高な理想家の松蔭先生をデッチアゲ、自分はその弟子だと図々しいことを言ったまでである。

 原田伊織氏はこう言う。
 「権力欲の強い男は、己を引き上げるためにこういうことをよくやる。自分に自信のない権力者ほど、その傾向が強い。現代でいえば、学歴、学閥に異常に執着する政治家や官僚、大企業幹部や一部の学者と同様である。

 これによって、吉田松陰=松下村塾は一気に陽の当たる場所へ踊り出た。あとは、長州閥の勢力膨張に歩調を合わせて、即ち日本の軍国主義化に乗って、雪だるまが坂道を転がるようなもので、気がつけば松蔭は「神様」になっていたのである。」






posted by 心に青雲 at 06:30| 東京 🌁| Comment(5) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
吉田松陰は聖人君子ではなくゴロツキのような男だったのですね。他の維新の元勲もテロリスト。
Posted by 犬伏正好 at 2015年02月06日 16:40
時代の変革期にその時代を変えていく者達はすべてその時代の為政者にとってはテロリストである。大化の改新しかり、戦国の世もしかり、豊臣から天下を奪った徳川家康しかりだと思う。時代の変革と言うものはそのような激烈な衝動に促されて、思想と力が合体したときになされるものではないであろうか。

だから民主主義と言う思想の元で育った現在の日本はそのようなテロリストが生れる余地も無く、天下を奪取するたびに首都移転をしてきた歴史的事実さえ行うことも出来ずに茹で蛙の用に衰退していくので有ろうか。

(全く別の話)
「南郷氏の著作に不満を持つ友人へ」
私の友人に「南郷氏の著作は何時も同じことばかり書いてあって答えがなかなか出てこず、あまりに長くてどこが答えなのかすらわからなくなってしまう」と感想を漏らされた。
実は私も初めのころはそのような感慨を持っていたものである。

しかし南郷氏では無いが[命の歴史の物語]を読み初めにはやはりそのような感慨が有ったものである。しかし10回、20回、ついに100回と読み進める内にそのような感慨は全くなくなったのである。これは南郷氏の著作にも全く同じ事がいえるのであるが、何かというとなかなか答えが見つからないように一見見えるのはとても良いことであると言うことであったのである。

なぜならあくまでもそれぞれの著作に少しずつ、少しずつ助けられての事ではあるが、ある日突然にそれまで全く理解の外で有ったことがまるで観念的には自分の力で独力で発見したかのように又は理解できたと言うことである。すなわちただ答えを教えてもらうのでは無く、その答えに至る過程をまさに自力で辿ったかのように思えるほどに、過程的理解に辿り着くことが出来ると言うことである。

だからこそその理解は他の場面にも少しの努力で適応していくことが可能になるので有ると思う。と私は友人に諭した事である。
Posted by 暇な人 at 2015年02月06日 16:58
坂本龍馬もそうでしょう。勝海舟も。
司馬の大嘘つきは、酷すぎるとしか、いいようがない。
ところで、意図的に幕府側の優れた人物であった小栗上野介に、作家達が誰も触れないのはな何故か?都合が悪過ぎるからだろう。
靖国神社の遊就館にある、靖献遺言にはたくさんの中国の英雄が乗っていて、幕末の志士達がバイブルにしていた。何のことはない。日本の保守思想の根源は中国のものだ。戦前、忠君愛国の象徴として信奉されていた楠木正成を発掘したのも、明極楚俊という明から亡命してきた僧侶だ。これも、単なる中国嫌いの偽保守にとっては都合が悪い話だろう。明治維新は英国から金もらって、その資金で傀儡政権を作りました。でなきゃ、何で若造が時の幕府政権倒して政権を握れる?彼ら、一応明治時代に自主憲法を作ったことにしなっていますが、それは嘘で、実際には、彼らの権力維持に賛同する海外勢力の助言によるもので、単なる押し付けであって、実態は断じて国民の手による憲法ではない。ん?今どうなっているかって?それは昔も今も変わらない。米国と体制に与する作家や政治家、メディアの情報だけが正当とされるのだ。
Posted by 鈴木 at 2015年02月06日 22:45
暇な人様

南郷継正先生の著作は、ある意味「問題集」なんですよ。
Posted by 暇な人 様へ(ブログ筆者です) at 2015年02月07日 11:29
鈴木 様

コメントありがとうございます。
司馬遼太郎もだんだん評価は下り、化けの皮が剥がれてきつつありますね、いいことです。

Posted by 鈴木 様へ(ブログ筆者です) at 2015年02月07日 14:29
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