2015年02月16日

松蔭のような秀才はいかに創られるか(1/2)


《1》
 先週、サイードを批判した記事で、サイードや大江健三郎は秀才の典型だと述べた。
 そのときに、秀才とは「対象の反映なくして反映できる者」であると、紹介しておいた。対象の反映なしとは、実体に関わること抜きで、言葉だけで考えたり、覚えたりできるということである。

 例えば、みなさんは小学生のときに「鶴亀算」をやっただろうが、あれは、鶴や亀を見たことも触ったこともないのに、計算できちゃうでしょう? 鶴や亀は写真や動物園で見たことはあっても、足の数を目の前で数えたわけでもないのに、いうなれば屁理屈こねて計算できる。あれが対象(鶴や亀)を反映せずに、空想で反映できちゃった、という例である。

 副島隆彦が、劇画のなかで「国学がやがて尊王攘夷思想に昇華した」などともっともらしく書いていたことを批判したが、あの文章がすなわち、「対象の反映なくして反映できる者」の文章なのである。

 あるいはグレン・グールドが「音楽とはシステマティックな思考の純粋に人工的な構築の産物」と書いているそうだが、こんな文言が書け、読んで理解できるアタマってのは宇宙人である。

 そこで今回は、以前にも説いたものだが、秀才はいかに創られるかを書いてみる。
 本来人間は、対象を実体とからめてこそ覚えられる。例えば稲の栽培方法とか、家畜の飼い方とかがそうであった。ところが秀才は実体抜きで言葉だけで覚えることが、技化できちゃったのである。

 それは外界の対象と関わることなしに、受験勉強に集中したからであった。本に書いてあることを、効率よく記憶出来るように励んだ結果の量質転化。

 なかには小学校にあがる前の幼稚園でそういう技を習得する。あるいは小学生、中学生で突然勉強に目覚める子どもがそうなのだ。幼稚園でいえば、ウサギさんとウサギさんがいっしょになって2つになる、なんてことが実物のウサギを見たこともないのに、わかって(?)しまう。そういう学習をさせた結果、秀才的頭になる。

 秀才になると、例えばブータンという国がどこにあって、人口がいくらで、特産品は何か、年間降水量はどうか、などということが覚えられる。見たことも、住んだこともないブータンが分かっているという恐ろしい(?)事態。これを称して実体抜きの知識が反映している、という。

 人間は成長して、実体抜きの知識を覚えなければ生活していけない、そうした能力も必要であるが、秀才というのはそればっかりが得意になって、生の反映を避け、苦手とするようになるからまずいのだ。

 まともに考えれば、舐めると塩辛い味がする「塩」は実体を反映しているのだが、「Nacl」などが反映できるのが不思議なのだ。
 歴史の勉強でも、小説なら実体的に像を描かせてくれるから、司馬遼太郎や津本陽らが嘘を書いていたとしても、その意味では役に立つ。

 秀才は実体抜きの反映が記憶できる者であるが、そうなるように技化するのは大変である。ふつうの生命体としては異常だからである。トリでもサカナでも、みんな実体を反映しているのであって、それにみあった体になり、認識になる。サカナが見たこともない世界を空想することはない。

 幼児のころから、英語を習わせるのも、実体抜きで覚えさせるのだから、秀才をつくりたければ有効であろう。
 秀才になりそこねた子どもは、ガキのころから野山を駆け巡り、ムシだの魚だのを追って日がな遊んでいるから、もうまともに実体を反映することが技化してくる。そういう子は鈍才となるから、実体の反映が強い。そうなるように子どものときから創ってきたからである。そういう子どもは受験勉強が苦手になる。

 実体のない反映は記憶することができなくなる。鈍才は、実体抜きの反映を記憶するのがむずかしいので、数学なんかは大の不得意科目になる。
 秀才が思春期になり、青春期になると、実体としての人間が反映してこない。親友ができない。冷めた友人関係になる。あげくは恋人をどう扱っていいかわからない。「情熱って何ですか?」なんて人に真顔で尋ねることにもなる。

 あらまほしきは、中学2〜3年までは受験はないほうがよい。ここまでは生の反映をする時期だからなのと、そこまでにかなりの感情が豊かになる脳細胞を育てなければいけないからである。
 昔は軍事教練でも生の反映だった。17〜18歳のころからなら受験はよい。このころになれば、知識と実体関係が推測できるようなるから狂うことはない。

 たまたまブログ「株式日記と経済展望」を見ていたら、「部屋数を多くすると、子育てに支障を来す。
子供がひきこもってしまったり、キレやすくなったりする原因となる」と書かれていた。
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/bea68850ad9e88c9855e53132b46254a
 内閣府の調査によると、日本では120万人が引きこもっているそうだ。中学生、高校生の話ではなく、いい大人も含まれる。

 いまや家族が集まって団欒できるリビングには、ひと気がなく、子供たちはみんな個室に引きこもってしまう。そこで子供はネット三昧やゲーム三昧。だからやがて引きこもりになると述べている。

 子供部屋の見解は少しは正しいが現象論である。人間とは何か、人間はどう創り創られて人間になるかの本質論が欠けている。
 引きこもりが生じるのは、端的には社会がそれを許すからだ。親も許しているが、親が厳格でも社会が許してしまうと、子供は好き勝手に走る。

 だから子供個室を作らない家の子供は子供部屋のある友だちの家とか保健室、図書館、公園にたむろすることになるだろう。

 しかしながら、秀才へと舵を切った子供にとっては個室があるのは大変好都合で、勉強に集中出来る。親が見ているテレビの音にじゃまされることなく、存分に勉強に耽ることができて、いよいよ秀才への道を疾駆してゆく。

 すなわち、受験秀才へと見事に量質転化し、やがては東大、早稲田、慶応…と勝利者の階段を上がっていける。それだけに恐ろしいことに、外界の反映なしに本だけ、知識だけを反映できる人間になり果てる。
 アタマの悪い人間になりおおせる。

 それが霞ヶ関の官僚どもである。あるいは大学教授、マスゴミ記者…と相なるのだ。
 一流大学に収まらない人間は大丈夫かといえば、たまたま受験で落ちただけで、やっぱり懸命になって秀才たらんとした青春時代がある以上同じことである。

 その弊害をできるだけなくすには、従来から述べてきたように、せめて徴兵制にして、若者を男も女も軍隊で集団生活をさせることが良い。
 これは軍国主義教育なんぞとは話が別である。
 軍隊的共同生活は逆らえない、わがままは通らない。厳然と掟がある。それが共同体なのである。

 日本は日教組や文科省のアホ官僚どものせいで、きちんと統括されている小社会が少なくなった。昔はどこも共同体然としていたのに、今はただの群集ばかり。奴隷の群集。
 個性教育のせいで群集に成り果てた。
 秀才とは、その群集のなかの一粒の塵でしかない。
 



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
正論だと思いますが、実際の世の中は、私どもの年代が予期さえしなかった「超非人間的な」方向に進んでいるようですよ。

オール電化の家の子は「炎」を見たことがない。「火」を知らないのだそうです。
自然から切り離されてしまっています。

私は、つくづくうちの孫がどんなふうに育っているのか心配になりましたよ。

私は、せめてマッチで火を付けられる子には育てましたが、たぶん、孫はマッチは知らないでしょう。100円ライターがあるし。

集団生活に関しては、最近の子はみんな保育所だから、集団で育っていますよ。
でも、自分の親が「どれ」かという認識や親子の睦まじさを知らないのではないでしょうか?

なんでも、ひきこもりや自閉症児が多発しだしたのは「幼児への予防接種」からだそうです。はっきりグラフに出ているとか。恐ろしいことです。

国家が国民の敵なのならば、どうやって被害から身を守ればいいのでしょう・・・
Posted by 神戸だいすき at 2015年02月16日 14:20
神戸だいすき様

今は100円ライターではなく、100数十円ライターでしょうね。しかしあんなもの使えなくなりました。
チャイルドレジスタンス機能になって、年寄りや女性では着火できません。ひどいものです。

今回の私のテーマは「秀才」です。あなたのお考えは「子供の育児一般」です。
Posted by 神戸だいすき 様へ(ブログ筆者です) at 2015年02月16日 21:21
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