2015年04月16日

『ブンヤ暮らし三十六年』を論評する(1/3)


《1》
 永栄潔著『ブンヤ暮らし三十六年  回想の朝日新聞』(草思社刊)は、「面白い」と「不満」の相半ばする思いで読んだ。
 著者は朝日新聞の元記者、OBである。
 小生もいっとき、縁あって朝日新聞の出版局で、フリーの編集者の立場で一緒に仕事をさせてもらった。永栄氏が編集長だった。その当時の編集室の写真が本書の表紙に使われていて、懐かしく拝見した。

 朝日新聞はこんなところという、どちらかというとマイナスの既成観念があったが、仕事で行ってみると、思いがけなく優秀で人柄の良い記者・編集者が多く、驚いたものだった。やりやすい職場だった。
 サヨクの人もいたけれど、みんな温かい人ばかりだった。公平なものの見方をする人がいるし、非常によく勉強していて知識豊富なのには感心した。

 とりわけこの著者である永栄氏の、柔軟で正義感あふれ、一本スジの通った見解を持っているのには、「朝日にもこんな人がいるのか」と正直驚いたのだった。

 彼とは同年代だったせいもあってか、よくお茶や酒席に誘っていただき、本書に書かれている記者経験を聴かせていただいた。
 その話がいつも面白く、ワクワクしながら聴いたものだったが、いつかそういう話を本にまとめればいいのにと願っていた。

 それが漸く300ページを超える浩瀚な本となって実現したことを喜んでいる。氏は多くの方々から本を書きなさいと勧められたそうだが、私と同じ思いだった人がやはり多かったのだ。

 在職中の取材現場での生々しいやりとり、数多くの著名人の意外な素顔とそのエピソード、新聞記者の胸のうちを練達の筆で綴っている。読ませる筆力には感心した。

 昨年夏から騒動に発展した朝日新聞社の「従軍慰安婦」と「福島第一原発の吉田証言」をめぐっての記事訂正と謝罪を期に、メディアのあり方、とりわけ一流報道機関とされていた朝日の姿勢が問われるなか、本書はそうした「おかしな報道」が起きるようになった謎を解く、いくつかのカギを語ろうとしているように思う。

 現在の朝日にいる上層部の人間が、永栄氏の意見を真摯に受け止めてくれることを期待したいが、まず絶望だろう。

 朝日新聞内部、とりわけ上層部がいかに腐敗していたか、ほとんどが実名入りで記されている。世の中の正邪善悪理非を問うべきメディアが、本来の役割を失い、上層部の恣意的判断、それも利権、出世、強欲、派閥抗争、イデオロギーなどで歪められ、抹殺させられていく実態を、永栄氏は淡々と声を荒げることなく書いている。

 歴代の社長や主筆、箱島信一、船橋洋一、富岡隆夫、伊藤裕造、若宮啓文、君和田正夫らの堕落、無責任、傲岸不遜ぶりが描かれる。こういった連中の犯罪行為がもっと暴かれ、朝日新聞を破壊しただけでなく日本を歪め貶めた責任をとらせたいものだ。
 しかし、彼らはしっかりと政治家、官僚、財界、学界、日本の黒幕などと「お仲間」であって、相互浸透かつ相互扶助的集団を形成しているから、傷つくことがない。

 よしんば永栄氏が孤立無援で頑張ったところで、一記者で組織の末端であった氏には限界があった。本書を読みながら無念の思いに浸らされた。
 さはさりながら、氏の意図は、記者の本分とは何か、報道とは何かはもちろん、公としての企業や役所の「純」であるべき姿勢、作家や学者ら言論人の人間性はいかにあるべきなのかなどの問いを投げかけていることは見事である。

 評論家・宮崎正弘氏がメルマガの書評で、この本を激賞していた。
 「この本、朝日新聞記者の『朝日社内風物詩』的な物語、しんみりと滋養があって、やけに面白い読み物だった。」
 「よくも悪くも傲慢な主知主義が充満している朝日新聞社内に、こういう記者もいたことを知ると、朝日新聞の記者等にはジャーナリズムの精神、信念が希薄であるという理由がよく分かった
 おそらく朝日新聞が嫌いな人は、この本を読まないだろう。」

 とお書きになっている。

 私も最近の朝日は嫌いだが、そんな朝日になってしまった背景を知るには絶好の読み物であり、未読の人には勧めたい。
 誰でも気づいているだろうが、朝日の論壇時評や書評、あるいはコメントに保守系の評論家や研究者の著作や発言が取り上げられることはまずない。端的には朝日がサヨクだからで、その社内の空気が本書で明らかにされている。実に幼稚で、「諸君」や「正論」に書く人を知識人とは見ていないという空気がはびこっているからだ。

 しかし永栄氏が編集長をつとめた雑誌媒体は、積極的に保守系の、西尾幹二、小堀桂一郎、藤岡信勝氏らを登場させたところ、売れ行きが伸びたというから傑作である。当然、社内では冷たい目でみられた。

 朝日のなかにもニュートラルな人がいるのだが、社内の空気に負けているのではないか。例えば先の保守系の「文化人」に書かせるのは、きっといけないにちがいない、と自主規制してしまう。降格や左遷が怖いのはサラリーマンなら同情できないではないが。

 永栄氏も「紙面には流れがあり、それに棹さすものは載っても、水を差しかねないものは載せないというのは今ならわかる」と書いている。そこまでしか書けないのであろう。
 
 永栄氏の筆致は、宮崎正弘氏も、「(著名人の)態度や会話の経過を淡々と叙しながら、読者に人物判定の判断をゆだねる。
だから直接に司馬遼太郎も大江健三郎も批判をしないという無言の批判、この筆法は端倪すべかざるものがある」と書かれている。
 
 そう言えないことはないが、私には、追及しようにも、彼が今も著名人らと付き合いがあるためや、古巣への遠慮でか、ほのめかすレベルで終わらざるを得ないのだと思う。残念である。
 朝日を退職して無関係とは言っても、世間はそうはみない。元朝日の記者がこんなことを言っている、となれば、朝日新聞社本体も現役記者も困惑する事態が生じないとは限らない。それゆえ、「読者に人物判定の判断をゆだねる」という書き方になっているのだ。

 ことはそれだけではない。
 全72編の話になっているが、その多くが「え? これで終わりなの」と思わされた。彼としては、みなさんに考えてもらおうとか、結論はあえて出さないのが新聞記者のありようだからとの意図でそうしているのだろうが、せっかくその話を書いたのなら、もっとなぜそうなのか、どうするのが正しいのかまで書くべきではなかったかと思う。

 宮崎正弘氏はそこを「端倪すべかざる筆法」と褒める。そうせざるを得なかった事情はわかるけれど、永栄氏が新聞記事を書くこと36年で培ってしまった習性や、著名人との深い付き合いで相互浸透した論理能力のレベルを感じさせられた。
 正直言って、新聞の記事にしろ著名人の書くモノにしろ、多くは「それでどうなる?」「それは何故なの?」の先が書かれていない。

 くどく書くが、これは「読者に人物判定の判断をゆだねる」姿勢が不満だと言うのではない。そんなことは多少の国語力があれば行間は読み取れる。もっとラディカルな、大仰かもしれないが古今東西の多くの著述家がなし得ていない世界がある、と言っているのである。
 永栄氏がはたして「能ある鷹は爪を隠す」で書いているのか。それとも、彼の文章は論理的なつながりで最後まで書こうとしていても書けないのか、なのである。

 新聞の記事には誰も論理的展開を求めていない。事実と若干の解釈のみである。
 それに、記者たちが仕事で付き合う作家や学者がみんな論理性がわかっていない者ばかりであるし、なまじ論理性をそれら著述家に追及するようなことを尋ねれば、会社から止めろと言われてしまう。そうやって新聞記者は論理能力を失っていくのである。

 みんなが既存の書籍を、そんなものだと思っているから、疑問をもたれることはない世の中であるが、「その先」まで書いている人間が存在する以上は、永栄氏が正義漢あふれる優秀な記者で終わっているのが「惜しい」ことではある。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☔| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする
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