2015年08月20日

人間は「良い顔」に創らねば(1/3)


《1》
 又吉直樹という三流お笑い芸人が、文芸春秋社主催の芥川賞を授賞したとかでマスゴミが騒いでいる。
 芥川賞は、もう完全に時代遅れで価値もなくなっているのに、いまだマスゴミがさわぐので命脈をかろうじて保っている。

 私はこんな受賞作を読むほど物好きではない。本ブログでも最近の、金原ひとみ、西村賢太、田中慎弥らを俎上にあげて酷評してきた。又吉の小説も同列にある。

 私が過去の芥川賞で驚いたのは、尾辻克彦(赤瀬川原平)の授賞だった(1981年)。
 当時、この顔は…ちょっとここでは書けない…最低の顔だと思ったものだった。
 きわめつきに顔に品が無く、薄ら笑いを浮かべている。

 赤瀬川原平の名でマンガを発表していた男だったが、どういうつもりか小説を書き、なんと芥川賞をとった。漫画家なら、別に顔つきうんぬんを言う気はなかったが、文学の椅子に座るのは耐え難い思いにさせられた。漫画家だって手塚治虫氏は良い顔をしていた。

 マンガはしょせんサブカルチャーだから我慢するが、文学は国の文化の高峰に位置づけられるべきものである。
 顔つきと文学は関係ないじゃないか、専門家が授賞に値すると認めた小説なんだから、それは偉いんだと言う人が当時いた。文芸誌の編集をやっていた男だったが。
 多くの人がそれに賛同するのだろうが…。

 で、今度の又吉の顔つきである。正視に耐えない。漫才師だから、個性的な、おもしろい顔をしていればどうと言うことはないが、漫才師にしても、実にねくらでつまらない顔をしている。目が死んでいる。
 かつての漫才師は、「ヤスキヨ」「オール阪神巨人」「大助花子」にしても人を笑わしてやろうとするエネルギッシュさを感じとれたものだった。「タカ&トシ」でも、芸で笑わそうという意気込みがある。

 又吉の「ピース」は、テレビ局の指示で周囲が大仰に手をうって、笑ってくれる仕掛けに甘え、支えられているだけではないか。ザイニチ芸能界の手ゴマでしかない。

 われわれの流派では、こう教えられる。「空手家だからといって恐い顔をするのではない、良い顔をしろ」と。その金言をいただいている身としては、良い顔になろうと努力する気のない又吉には触れたくもない対象なのである。

 又吉がどんなものをやっているのか、見るまでもなかったが、一応YouTubeで見ると、やっている芸もまったく面白くない。よくあんな何の芸もないコンビがテレビに出てこられるものだ。

 それに、文学をもし志しているとしたら、テレビの下劣なバカ番組に出てこられるわけがない。テレビのバラエティだかお笑いだかは、ザイニチどもが徘徊する最低のステージである。正視できない世界である。あんなものに関わる人間は、人としての誇りがない、思想性の高みもない。だから人間じゃない。

 だから小説を読まなくても、顔だけでそのレベルが察せられる。下品な芸人をやってテレビで稼いでいるだけで、作品のレベルもわかるのである。漫才と俺の文学は別だ、とは言えない。生き方も、顔つきも、話し方も、その人物の作品であり、常に評価の対象になっているからだ。

 この大事性が、昨今の世相では重視されなくなっている。絶望的な気分にさせられる。そこに気付かない人には文化を語る資格はないと言うべきである。

 ものごとを考え、表現する場合、それを事柄として表出するのではなく、表現者の精神の高さ、美しさが同時に問われる。
 例えば、ロートレックはアル中でどうしようもない男ではあったが、娼婦を描いても品格は失わなわなかった。彼が貴族だったからだ。その精神性の高みが彼の絵を藝術たらしめている。

 ついでに言うと、パブロ・ピカソの絵はどことなく品がない。ピカソはスペインの田舎の村の出身で、父親が美術教師だった。その影響で幼いころから絵を描いて画家になることに成功したけれど、貴族の良き文化、思想性や気品は身につけられなかったのである。

 この大事性は文学でも音楽でも言えることである。
 昔は当然のこととして、文学の世界では表現者のいわば倫理的課題というか、精神性の高み、心根の美しさ、品格などが読者の読解の課題として意識されていたのだ。
 このことが、近年ますます蔑ろにされるようになった。

 井原西鶴の小説は『一代男』ただ一つしかない。その他の、大学の国文科に巣食う者どもが「あれもこれも」と西鶴作品にしているのは、全部ウソである。
 『一代男』もエロスは一つのテーマになっているが、あれは『源氏物語』を下敷きにした日本でもトップクラスの気品あふれる文藝作品である。

 その他、『好色五人女』だとか『好色一代女』は、気品のかけらもない大衆小説である。
 いうなれば、夕刊紙とか週刊誌に書かれるポルノだ。西鶴が書いたとはとうてい考えられない。
 そのことを精緻に検証した森銑三氏の業績を、国文学界も出版界も無視しつづけている。

 森氏は明治28年生まれで、貧しくて高等教育を受けられなかった。図書館臨時職員、代用教員、雑誌社勤務など様々な職につきながら、独学で文学・国史の研究に専心した方である。
 東大を頂点とする国文学界は、要するに森氏が東大を出ていないというだけでバカにして、相手にしないのである。

 そういう国文学研究者どもが、精神性の高みを把持することはありえない。「自称学者」だがクズである。
 文学は、そんな学歴や学界の徒弟制度や出版社のコネなどを後生大事にする俗世界とは隔絶した高みにある。それをとぼけて精神性の高みをうんぬんできるはずがなかろう。

 いつの間にかわが国は、表現者が書いているテーマ自体はそれぞれでどうでもいいが、表現者の気品や魅力がにじみ出なくなった。それらが感じとれなければ、読むには値しないのである。
 新聞の巻頭コラム「天声人語」とか「余録」とかを見ればわかるように、あの筆者達は世間では知られていない知識を冒頭の「まくら」にもってきて(ドヤ顔して)、無理スジで主題につなげてみせる。主題の中身は大学生でも書けるものばかり。

 精神性の高みや気品といったことより、知識の多寡や情報の出所、どれだけ暴露しているかばかりが決め手になっている。

 それにあの下品な副島隆彦を見ればあきらかである。仮に彼がどれほど世に中の裏側を暴露したとしても、文体ににじみ出る下品さは隠しようがない。聴くところによると、彼の熱海の自宅はピンク色の目を背けたくなる下品な家だそうで、それはそうだろうなとわかる。

 彼が原作者になったマンガ『属国日本史 幕末篇』は、最後のほうで副島は自分が風俗で遊ぶさまを描かせている。彼が風俗で遊ぶのは勝手だが、なんで本のテーマと無関係な風俗遊びのマンガを入れて、わざわざ下品にするのか理解不能である。

 副島の無惨はともかくとしても、私たちが日ごろ読んでいる(読まされている)新聞や雑誌の記事やエッセイの文章が、ほとんど気品は精神性の高さを感じさせない。

 私の高校時代の恩師は、学徒動員で兵隊にとられた人だった。兵隊に行く前、戦争の激しいさなかに、朝日新聞に当時連載されていた永井荷風の『濹東奇譚』を読むのだけが楽しみだったと聞かされたことがある。
 あの小説は、要するに荷風その人らしい人物が、隅田川の東側の遊郭(玉ノ井)に通う落ちぶれた話である。扇情的なところはなにもない。

 今読むと、どうってことない小説のように見えるけれど、わが恩師はあれが軍部へのプロテストだったのだと語っていた。
 荷風は戦時中に、人々が大事なココロを失っていくことに対して、軍部にはわからないようにしながら、気品や精神性の高みのある文章を書いていたのである。あえて遊郭を舞台にしながら、卑しくならない、という筆力で。

 昨今はそんな芸当のできる作家はいないのではないか。表現者の精神の価値の下落が著しい。どぎついテーマならいい、おもしろい話題ならいい、読み手にショックを与えればいい、等身大の飾らない自分と共感できればいい……そういう文章ばかり。

 ベンジャミン・フルフォードとか、リチャード・コシミズを称讃する人がいるが、彼らがもし本当に世界の陰謀を暴露しているとしても、あの語り口の下品さを見るだけで、大きな「?」が付くはずなのだ。

 日本の文学や評論の萎凋の原因は、日本語とその基盤たる認識の、日本語ならではの優位性から解かねばなるまい。日本語は主語、述語、目的語などの配列の言語構造が、世界に類を見ない独自性があって、そのうえ「てにをは」で微妙な認識の揺れが表現できる。オノマトペも豊富で多彩な認識の表現に適している。

 観念的二重化とか、感性を磨くとか、論理的記述などに適している優れた言語である。
 だからこそ、これまで述べてきたように、日本語は精神性の高さをしっかりと包摂できる言語であった。
 なのに、英語の影響もあってか、言語は実用の視点でしか見なくていいとする風潮が現れた。

 人間の品格と直接の文章の品格とか精神性の高さは、受験勉強ではおよそ関係がない。「もののあはれ」の意味を言われたとおりに覚えれば良くて、実際に体感レベルで「もののあはれ」とはこういうことだな〜としみじみ味わう認識の実力は、受験では問われない。問われないどころか邪魔にされる。

 そういう世界が戦後教育界でつくられ、それでつくられた人間ばかりが世に送り出されてくるから、芥川賞作家の質がガタ落ちになったのである。又吉の小説が何十万部も売れたそうで、つまりは読者層もその低度になったのである。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(4) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
わたしも又吉の顔はいやしいと思います。あの長い髪がふんどしのように見えます。

西鶴の作品は『好色一代男』だけとは驚きです。森氏の本を読んでみたく存じます。

管理人様が気品を重んじておられることは、ひごろのブログの文体で承知しておりました。
安保法制反対をわめくサヨクの、品のなさは、気品をないがしろにする韓国人ザイニチが主導しているからなのですね。
Posted by 白井奈津子 at 2015年08月20日 08:06
ベンジャミン・フルフォード氏はSTAP細胞はあるが陰謀で潰されたと本に書いています。インターネットテレビで事件屋の朝堂院大覚と怪しげな対談しています。

リチャード・コシミズの講演はYouTubeで見ましたが語り口に品がない。
Posted by 犬伏正好 at 2015年08月20日 12:26
白井奈津子様

コメントありがとうございます。
又吉の髪を「ふんどし」とは、笑いました。そういう感じですね。

朝鮮人や支那人には、言動に気品はありません。意味さえ知らないでしょう。
その彼らが反日活動をやれば、おのずと下品になりますね。彼らといっしょうになって、反日をやり、安保法案に反対しているサヨクも、だから下品になります。

Posted by 白井奈津子様へ(ブログ筆者です) at 2015年08月20日 15:50
犬伏正好様

おっしゃるとおり、ベンジャミンもマスゴミ相手にされないからといって、あんな怪しげな番組に出るとは、品性のかけらもない。
アメリカは内乱状態だというけれど、そんな事実はどこにもない。
Posted by 犬伏正好様へ(ブログ筆者です) at 2015年08月20日 15:53
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