2015年09月02日

国家と憲法の関係に補足


 昨日の国家と憲法の関係記事に少し補足しておきたい。
 国家は観念的実体である。むろん領土や国民、インフラなどの実体もある。これを吉本隆明が言ったように「共同幻想」と見るのはあまりに皮相である。

 国家を「いわば実体」とみれば、憲法など諸法令は機能に相当する。
 例えば手は実体であるが、それが握る、つかむ、なでる、道具を用いるなどが機能である。実体と機能は直接の関係にある。切り離せない。

 サヨク護憲派や法律研究者は、この国家の機能たる法を、それだけ取り出して論じようとするところに大きな過ちがある。
 手でいえば実体を無視して、握る、さわるなどの機能だけを大事にしようというような話である。
 国家という実体を解かずに(説かずに)、機能=法だけを論じ、国家の防衛は憲法が禁じるから違憲だと途方もないバカを言う。

 国家はそれじたいの実体を護る。人間がケガや病気から身を守るように、だ。国家の場合はその防衛を担う実体が軍隊や警察である。実体が(国家が)失われるとは、人間でいえば、死ぬ=肉体(実体)が消滅するということだ。

 サヨクは、絶対に実体つまり国家とは何かから機能を説こうとしない。多くの医者も同様に、人間のカラダという実体(赤ん坊のときから現在までの、それが生じてきた原点)は抜きに、機能たる病気のみで診断しようとする。だから平気でカラダの機能の一部でしかない血液検査の数値ばかりをパソコンで見て診断する愚を冒す。

 「戦争反対」をわめくことは、要するに機能さえ保守できれば実体はどうでもいい、とする愚かすぎる話である。
 安倍首相の提起した法案は、誰でもわかるように国家の安全保障にかかわる。サヨクがわめくように、大学の自治やら学問の自由うんぬんには関係がない。

 国家という実体、国民や領土などの実体をどう護るかの話である。
 しかしサヨクは、この実体と憲法などの機能面をごちゃまぜにしている。区別と連関がまるでわかっていない。だから風呂敷を広げるように、「戦争になる」「学問の自由がなくなる」「ものも言えなくなる」…と度外れのイチャモンをつける。
 
 ごちゃまぜにして平気だから、ものごとの解明にはそれが生じてきたあるいは発展してきた大本、原点に遡って考えていかねばわからないのに、今の現象で見るならまだいいほうで、個人的感情で学問世界の問題をうんぬんしようとしているのがサヨクである。

 国家とは何かは、国家の誕生せざるを得なかった大昔の、人類が樹上生活に別れを告げて地上に降り、ヒトとなっていった過程をひもとかねば解明はできない。
 サルが集団であったように、人類も集団として誕生したのである。

 集団には統括が欠かせない。そのために集団内の規範(掟)ができる。それがやがて集団という実体の機能、すなわち法となっていく。集団は同時に他共同体との対峙が必然としてあり、獲物や領土、異性、川や海の占有権などを巡って奪い合う。
 だから当然軍隊がいるし、統括者がいる。

 それが国家の成り立ちである。この本質は現代に至るも変わらない。「地球市民」なんてことは、一部分のヒトとヒトとの付き合い方でしかない。
 われわれはそうした解明に当たっては、実体と機能、あるいは実体と実体性(まだ実体になっていない鵺的段階)などが、区別と連関でわかる頭脳になっていなければならない。

 しかしサヨクは、戦争反対、死ぬのは嫌だ、だけで、なんらそうした学問が可能な頭脳になっていないのが問題なのである。彼らは原点を問うことをしない。つまりは弁証法がわかっていない、とも言える。

 国家の本質論よりも、憲法に違反しているかいないかが大事などというのは、まさに観念論であって、私に言わせれば唾棄すべきものでしかない。
 サヨクは実際はあわれな観念論者である。

 詳しく述べてみよう。
 これは南郷学派の新刊であるが、悠季真理(ゆうきまこと)著『哲学・論理学研究 (学的論文確立の過程的構造)』第1巻/現代社である。
 ここに「唯物論を自分で創り出していくとはどういうことか」ことの大事性が説かれている。

     *    *    *

 物理というとどうしても、まずは大学までに教わってきたいろいろな数式をアタマに思い浮かべてしまうということである。しかしそういったことなども一つ一つ具体的に挙げてみて、それは観念論なのか、唯物論なのか……と考えてみることである。単に数式一般を取り上げることがダメなのではない。数式をどういう状況の中で、どういう認識で用いていくのかによって、それは唯物論的にも観念論的にもなり得るものなのである、と。

 例えば1+1=2というのも、極めて特殊な条件下で、特殊な物質(ないし物事)の場合について、それらの共通性を取り出して、一般的な関係性としての人間のアタマの中でそのように把握したものにすぎないのである。

 例えば、リンゴが1個あるところにリンゴをもう1個持ってくれば、それらが合計で2個となる。というように、足し合わせてもその実体が変化しない場合などがそうである。

 しかしもし仮に、相互に浸透し合って溶けてしまうような物質の場合には、その関係性は成り立たない。また、1人だけでがんばる場合と、2人で切磋琢磨してがんばる場合とでは、2人でやったほうが成果が10倍にも20倍にもなることもある。単純に2倍ということにはならないのであろう。

 よって1+1=2というのは、かくかくしかじかの条件下で、こういう場合に限りの物体の場合にのみ共通して、(人間のアタマの中で)捉えられる量的関係性である、としっかり意識して用いるのであれば、それは物が観念に先行しているわけだから、唯物論的と言える。

 しかしながら、もしも1+1=2という関係性を、すべての物(ないし物事)の関係性において成り立つものと思って、それが成り立つ条件を顧みずに世界全体に押しつけてしまうのであれば、これは観念を物より先行させてしまっているわけだから、観念論的な考え方となってしまうのである。

 したがって、自分が普段使っている数式などを具体例に挙げていって、それをどういう対象にどのように用いているのか、それは観念論なのか、それとも唯物論と言ってよいのか、あれこれ考えてレポートに書いていき、そうやって自分の扱っている問題で一つ一つの思索を重ねていくことが、「唯物論を自分で創り出していく」ということに繋がっていくのである。

     *    *    *

 弁証法の教科書とされる三浦つとむさんの『弁証法はどういう科学か』には、唯物論とは「世界が物質的に統一されていると捉えることだ」と解説されているが、それを初心者は知識として覚えるのは当然のことながら、それを知識のままにしていたのでは学問的解明はできない、と説かれているのである。
 
 すなわち、「世界観としての唯物論を自分で自らの頭脳の内に創り出していくことが、学問的な頭脳の創り方の第一歩である」と。
 脳細胞が唯物論的にしか考えないような技化がなされなければダメなのである。

 サヨク(に限らないが)は、みんな自称他称で「学者」と肩書きにあるが、こういうお粗末さで、安保法案は違憲だ、とわめく低レベルなのだから、話にならない。
 長く引用した悠季真理氏の文章を、数式などを憲法論として読み替えて理解してもらいたい。

 たとえば条件ぬきで1+1=2は成り立たないのであって、ある特定の法案が審議されるときに、それが憲法という条件に絶対に、条件は考えずに当てはめなければいけないとするなどは、学問のイロハさえわかっていない輩だとなるのである。

 いくら憲法9条を決めて、不磨の大典のごとく崇めてきたって、現実世界の物事の変化発展、あるいは条件の変化が起きる必然にいわば裏切られて、解釈変更でなんとか糊塗するしかない醜態を政府も内閣法制局も、司法や大学の法匪どもも、晒しているのである。

 つまり現実には1+1=2が成り立つのは、特殊な条件下のみであって、現実には1+1=0になることや、1+1=1になることもある。他国を侵略するはずのない共産主義国が実際はソ連や中共に見るごとく、侵略をやらかしてきた。戦争がない世界は夢であって、現実はさまざまな形で共同体の対峙があり、戦争がある。

 そういう唯物論的捉え方でなければ、国家とは何かも、戦争とはも、憲法とはも、解けない。だからサヨクは観念論だというのである。





posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする
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