2015年09月05日

佐野研二郎の背後に見えるもの(1/2)


《1》
 東京五輪のエンブレムが撤回された。
 私はあまりオリンピックに関心がない。
 とはいえ、招致してしまった以上は、成功してほしいし恥をさらしてほしくはない。

 佐野研二郎のエンブレムを見たときには、まず不快感を覚えた。実につまらない、デザインのためのデザインと言うべき、見てくれだけのエンブレムだと思った。
 要するに「TOKYO」の「T」を、丸、三角、四角であしらっただけで、招致用のエンブレムのような、日本の心が表現されていない。

 それが盗用疑惑が出て、いっそうの嫌悪感が増幅された。
 あれはまごう方なき「パクリ」である。多くの日本人がそう感じて、これでは恥ずかしいとまともに考えているのに、森喜朗や武藤敏郎らオリンピック組織委員会はごり押ししようとしたから、余計庶民の反発を招いた。国民感情を汲み取れていなかった。

 多くの日本人が、今度の撤回を受けて、招致のときのエンブレムでいいじゃないか、と感想を抱いたのも当然であった。

 宮崎正弘の国際ニュース・早読み (2015年9月4日号)の読者の声に、私がなんとなく感じていた不快感を的確に書かれている投稿を読んで感心した。
 以下引用。

     *    *    *

 東京オリンピックのエンブレムが白紙撤回されました。
 模倣、盗用かどうかはともかく、オリジナリティも温かみも感じられない図案が使われなくなったことは喜ばしいと思っています。オリンピック組織委員会の不備や、今後の後始末を考えると、また税金の無駄遣いか…という気持ちもありますが。

 それはともかく、佐野氏の、この問題当初の会見を改めて見直して、オリジナリティを感じない理由がわかりました。
●TOKYOの「T」に注目した。
●Tという字の欧文書体である、ディビット、ボトニをモチーフにした。

 以後は技術展開で、要は使いやすいアルファベットのTを使ったというだけで、あとはプロならうまくできますよ、といっているにすぎないのです。

 この点も問題なのですが、気になるのは、この人の意識に「日本」が全くないことです。例えば、オリンピック招致で美大生が作ったエンブレムは、桜を全体に使い、大きな円を描いて、日の丸を連想させます。
 他の方が、自分ならこうする、というエンブレム案もいろいろ見ましたが、ほぼすべてに、桜、扇、日の丸など、「日本で行うオリンピックであること」を表す表現が含まれています。なぜ当然の要素である、「日本」が佐野氏のエンブレムになかったのか。

 単に、Tを使えばいくらでも似たサンプルがあるから、ということだけならまだしも佐野氏は韓国にこびているとか、在日、とかいう噂があるのが、ちょっと気になります。オリンピック組織委員会も、もう少し真面目に考えていただきたいものです。日本で行うオリンピックなのですから。
   (NS生 千葉)

     *    *    *

 この千葉NS生さんが指摘するように、佐野には日本の心がない。そこが一番の国民の反発だったと思う。「オリジナリティも温かみも感じられない図案」であった。

 なのに、佐野は撤回に当たっての報道機関への弁明では、俺は悪くない、誹謗中傷を受けた被害者だと開き直っている。ネットの誹謗中傷で家族もスタッフも傷ついた、と。
 あんなことを書けば、いっそう嫌われるのに。
 佐野が在日かどうかは問うまい。そういう問題とは違う観点からこの問題に迫ってみたい。

 私が決定的にもうダメと思ったのは、佐野がサントリーの景品バッグのデザインで模倣、盗用をしておきながら、本人は雲隠れして奥さんに「あれはトレースです」と言わせたことだった。トレースだと言って、責任を逃れようとした。つまりウソをついた。
 だからほかのすべてが信頼されなくなった。

 もう佐野自身が「事実無根です」とおかしな日本語で否定してみせたが、国民のほとんどはもう疑惑の目でみるようになったのである。ああいうときに「事実無根」という言葉は適当ではない。

 佐野の記者会見も不快にさせられた。あのいかにもデザイナーっぽい、パツパツの疑似背広を着てきて、まじめさが感じられない態度を示したうえに、終始眉間に皺をよせて不愉快そうに、俺は被害者だという態度をとった。
 あの服装は逆効果だった。釈明会見場なのに、浮ついた機能性のないデザインだけの格好しやがって、ただの気取り屋じゃないかと、誰もが思った。
 
 広告業界、デザイン業界ではあの服装が「とっぽいじゃん」「かっこいいじゃん」と思われているのはわかるが、一般社会や企業では顰蹙を受ける。

 どんな泥棒だって、警察に逮捕されたときには「おれじゃない」と言うものだ。だから、ボクは一度もパクったことはないと言っても、事実、サントリーやその他で盗用が発覚しているのだから、みんながドッチラケ。
 ベルギーの劇場のエンブレムとはデザインのコンセプトが違うと言ったって、もう誰も味方になってくれなかった。

 話は飛ぶが、東京は千駄木に「いせ辰」という千代紙屋がある。
 「いせ辰」のHPから引用させていただく。

     *    *    *

 江戸千代紙とは華やかな色彩の模様を和紙に木版手摺したものです。
古くは宮中で使われた短歌などを書く紙に模様が施されたのが始まりで、大名に伝わり、江戸文化の開化とともに広く庶民に伝わりました。

 そのモチーフは伝統的な衣装にあるもの、花鳥風月を表したもの、また歌舞伎といった風俗習慣などで、江戸庶民の好みが反映され、粋や洒落が特徴です。浮世絵の発達とともに多色摺りで色彩豊かな千代紙が錦絵屋で多く売られました。
少女達はこの美しい千代紙を集め、姉さま人形を作り、また包み紙や菓子敷きなどに使われ、千代紙は庶民生活の彩りとなりました。千代紙に摺られた模様の一つ一つが日本人の生活の詩的な側面を写し出しています。

     *    *    *

 これは一例であるが、デザイナー志望の人はぜひに、江戸千代紙を買い求めて、よくよく研究すると良いだろう。ネットでも多少は出ているから参考にされたいが、本当は実物を触って、臭いを嗅いで、鶴でも折ってみて、五感器官で感じ取ってほしいものだ。
 どれもまさに温かみがあって、洒落ていて、日本文化への誇りが感じられる千代紙である。

 日本人の豊かな感性は、こうした千代紙で遊ぶことでも育まれたのである。佐野のデザインには、そんな日本人の感性を豊かにするような要素は何もない。トイレの「男/女」の表示レベルで、美が感じられなかった。
 
 江戸千代紙は昨今見かけるところの、温かみも心も感じられないただの格好付けているだけのデザインとは全く違う。佐野のようなただの“格好”はデザイン、温かみのあるのは“図案”とか“意匠”と呼ぶべきではなかろうか。
 彼ら千代紙職人たちは別に世界の何とかゴールドメダル賞を取ったわけでもないが、実に優れている。

 その違いは何か。言い換えればなぜ佐野研二郎は、盗用しないとやっていけないデザイナーになってしまったか、である。
 それはやはり「人間とは何か」の大本から解かねばならない。
 人間とは、赤ん坊のときから実体(脳や感覚器官など)も、その機能たる認識も創り創られて人間になるのである。

 その脳や感覚器官、それに認識をみごとに生育させなければ、藝術家にはなれず、それより落ちるデザイナーにすらなれないと知るべきである。
 江戸時代のいまや無名の図案家たちが創った千代紙が、みごとなのは、当時は脳細胞も実力も感覚器官の実力も、そして認識(感性)の実力も、ことさら鍛えるまでもなく鍛えられていたからである。

 電車もない、クルマもない、どこへ行くにも歩くしかない。食べ物は粗食、住居は電化されていないから何でも自分でやる、必然的に感覚器官が鍛えられた、そのアタマとココロで、とくに美術学校で習わなくても、すばらしい意匠の創造ができたのである。

 江戸時代の常識として、徒弟制度であったから、師匠について千代紙の制作を教わる。おそらくは入門して3年は、炊事洗濯、水汲み、便所掃除といった雑用ばかりやらされ、それが効果があって、感覚器官も感性も一人前になり、そのうえで絵を描いたり、版木を彫ったりすることを教わる。

 ところが今は美術大学に入って、はじめからデザインの見方や創り方を授業で教わる。だから本物の実力が身に付かない。
 毎日新聞9月4日付に、タレントでデザイナーでもある松尾貴史が、7年前に佐野と対談したことがあった、書いている。「印象に残っているのは、デザインは何と何を組み合わせるのかが重要だという趣旨の発言をされた」

 佐野はこんな低度のデザイナーか。機能のことも考えないで、自分が(あるいは他人の?)発想したものをいろいろ組み合わせて、インパクトのあるものを選べばいいということだろう。そういう考えではパクリが生じても不思議はない。

 感覚器官や感性を育てる土壌がもう現代日本には乏しい。美術学校に入る試験でさえ、どうでもいい英語や数学ができなければダメ、だから受験勉強をやらないとダメ、そういう環境では、江戸時代の職人がただの千代紙ですら発揮した圧倒的センスが生まれない。

 佐野のパクリやウソは咎められなければならないけれど、これはおそらく彼だけの悲劇ではないのである。
 1964年の東京オリンピックのエンブレムは亀倉雄策が創ったものだったが、「あれは良かった」とだけ言うのではなく、これは国家的課題として、前回五輪のころによりもなお日本人全体に感性の実力が落ちているということに気付かなければならないのである。

 オリンピック組織委員会の老害や審査の不透明性をマスゴミは問題にしているが、それもあるけれど、佐野に限らず日本人の感性自体がなぜ落ちたかの問題のほうが深刻なのである。

 ついでと言ってはなんだけれど、あの国会前の民青主導の抗議集会でみられるプラカードは、いまやパソコンで作ったものばかり。だから読みやすいというか、整っているというか、要はデザイン的にはちゃんとしている。カラフルでもある。

 私の若いころはプラカードは手書きだった。
 何が違うかといえば、昨今のパソコンで作ったプラカードには心が籠っていないことが見てとれるだろう。手書きのほうが、感情がこもったのである。

 皆さんも年賀状をもらったとき、宛名の名前がパソコンで書かれたものか、1枚ずつ手書きなのかで、印象が全然違うのが見てとれるだろう。
 早い話が佐野のエンブレムは、パソコンでいじったデザインだから、心が籠らなかったという面も大きいのである。
 だからネットの他人のデザインを、コピペしてしまう癖がつい出てしまった。







posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私もあのデザインを見たときに、不快感しか覚えませんでした。ブログ武士さまが書かれている通り、佐野の問題と同時に選考者の低度も問われると思います。
Posted by ストロング温厚 at 2015年09月05日 16:18
ネットには桜をあしらったデザインとか、いろんなオリンピックのエンブレムが提案されています。1964年の東京オリンピックのエンブレムがいいという意見もあります。さののわけのわからないえよりもこれらの自由に提案されたエンブレムのほうがいいです。
Posted by 犬伏正好 at 2015年09月05日 20:02
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