2015年10月06日

寝る前のコーヒーはなぜ眠れなくなる?


 寝る前には濃いお茶やコーヒーを飲んではいけないと言われる。
 頭がさえて眠れなくなるからだと。
 子供のころから親にそう躾けられてきたのだが、だんだん長ずるに及んで自分でお茶やコーヒーを飲むようになって気付いたことは、必ずしもお茶やコーヒーを寝る直前に飲んだからといって眠れなくなるわけではないということだった。

 眠れなくなる理由は、お茶やコーヒーにはカフェインが含まれているからだ。カフェインが神経を興奮させて眠れなくなると説明されている。
 よしんばそうだとしても、ではなぜ私のように、ちゃんとカフェインが入っているお茶を飲んでも、堂々と眠れるのか。
 友人らにも聞いたことがあるが、へっちゃらだと答えた人はけっこういた。

 カフェインを飲むから眠れなくなるとは、即物実体論であって、弁証法がない、二重構造で解けていない、となる。
 お茶を飲んだら眠れなくなる、には二重構造があるのだ。
 すなわち、お茶にはカフェインが入っているから眠れなくなるという不安、恐怖が生じるからである。つまり認識の介在を考えなければいけない。

 もし実際に床にはいってから、あ、寝る前にお茶を飲んでしまったな、これは眠れなくなるかもしれないぞ、そうなると明日は疲れたまま仕事や学校に行かなければならなくなる、大変だ、と不安が湧き出てくる。
 実際にカフェインが作用することは事実であろうが、そこに不安感がない場合は、コーヒーやお茶ではさしてカフェインが作用することがないのである。

 ひところ、マンガ『おいしんぼ』で、福島に行ったマンガの主人公が、放射能のせいで鼻血が出たというシーンが描かれ、問題になったことがある。
 福島県の原発で放射能の数値がいくらか高くても、全然問題とするには及ばなかったにも関わらず、サヨクが大仰に騒ぎ、当時の民主党政権が、世界にも稀な低過ぎる(厳しい)許容数値決めてしまったものだから、住民がすべて避難する騒ぎになり、農産物や海産物が忌避される事態に及んだ。

 そういう知識がたいていの人には刷り込まれているから、実際に福島に行ったとすると、不安一杯で乗り込むことになる。だから普段自然界で浴びている程度以下の放射能でも、鼻血が出る騒ぎになるのである。
 『おいしんぼ』のマンガ主人公が鼻血をだしたのは、そこにも二重構造があったのだ。(事実とすれば)あれは主として認識の病気である。

 試みに、社員食堂で昼のランチ定食を食べた従業員に、直後に社内放送をして、「食堂で定食を食べた方! あのなかのイモの煮っころがしからボツリヌス菌と大腸菌が発見されました! 食中毒に十分ご注意ください」と(ウソの)連絡をしたとしたら、多くの人がお腹が痛い、吐き気がすると訴え始めるだろう。

 しかし、その社員のなかでも、今夜憧れの異性と初デートする予定だとか、昇進栄転の内示を受けた人なんかは、もうルンルン気分だから、「食中毒」症状なんか出ないのである。
 あるいは、憧れの彼女がつくってくれたケーキを食べたとする。そのケーキはとっくに賞味期限が切れ、半ば腐って糸を引いている状態だったとしても(きっと黴菌がうようよいる)、食中毒になることはまずない。

 こういう風に認識は恐いものなのだ。

 安倍政権が通した安保法案で、戦争になる、人を殺す・殺される、とデマを叫んだおバカどもは、認識の病気である。事実から論理を引き出さずに、自分の感情から対象にそれをおっかぶせる。食べ物が腐っていないのに、腐っている、食中毒になったら大変、と不安になってしまう人と同じであった。

 たかがコーヒーで眠れなくなるという些細な話であっても、なんでも二重構造で考える必要がある、ということだ。
 南ク継正先生の新著『なんごうつぐまさが説く“夢講義”(6)』(現代社刊)のなかに、「恩師滝村隆一に学んだものとは−−−−すべてを二重化して捉える頭脳の働き」(88ページ)がある。そこを引用する。
 
     *    *    *

 分かりやすく説くならば、恩師滝村隆一に学んだのは、「何事かを捉えようとするならば、必ず二つに分けて考えるべし」であり、「何事かを論じるならば、実体の二重性と機能の二重性、すなわち簡単には四重性においてなすべし」という見事な教訓として捉えることを学びとったことだったのです。
 この二重性・二重化を、私は自分の専門分野への指針(コンパス)として学びとっていったのです。

 しかしながら私の恩師は、お二方とも実際の私の質問への解答は全く与えてはくれませんでした。だが私はそれでも、その無言の解答からも諸々のことを、はっきりと学びとっていったのです。
 それは、恩師三浦つとむの弁証法の三法則の学びは、『弁証法はどういう科学か』を超えるきっかけがあったからです。

 それが前記の恩師滝村隆一の「二重化を構造化して、かつ過程かとして把握すべし」の格言−金言なのです。私はこの「二重化すべし」の金言をあろうことか、まもなく恩師三浦つとむの弁証法三法則にもあてはめていくことになるのです。
 そして、それだけに対象もすべて二重化、そして弁証法もすべて二重化となっていくことになったのです。
 

     *    *    *

 私も滝村さんの初期著作『革命とコミューン』『マルクス主義国家論』で、二重権力論とか「広義の国家と狭義の国家」などの概念の新鮮さに眼を瞠る思いだった。
 大学ではバカみたいに教授どもは欧米の誰それはこう言っている、とかの知識をしゃべるばかり。「すべてを二重化して捉える頭脳の働きをなすべし」などという金言はどこにもなかった。

 だから、滝村氏の論文はむずかしいながらも心惹かれた。
 南ク継正先生は、「書物に説いてある事柄の中身に深く深く学ぶ努力をしたのではなく、自分の専門たる武道の世界に関わる森羅万象の出来事を、二重に構造化して、かつ過程として捉える努力」をしていったのだと、ご自身の学びの秘密を解いてくださっている。

 大学ではまさに「書物に説いてある事柄の中身」にだけこだわる講義でしかなかった。
 それが習慣となって、卒業後も読書はいいとしても、やたらに本を読みふけってはそれだけが、物事を分かる、知る、唯一の方法と勘違いしている人が多い。

 そういう人はどうしても南ク継正先生の著作は感情的に反発するのだろう。分からないし、分かりたくない頭脳に固まってしまった哀れ…である。

 先きごろの安保法制審議で、国会前で馬鹿騒ぎをやったサヨクは、あの法案が持つ二重性で捉えることはまったくなく、ひたすらデマでしかない「戦争法案だ!」の偏った視点にこだわったのだ。大学教授、それもサヨク色の強い連中が群れて反対決議をやらかしていたようだが、まさに物事を二重化できない頭脳となり果てたせいであった。

 それなのに媚中副島隆彦は、民青思考で物事を二重化で捉えないアホ学生を褒めちぎる仕儀となった。副島は「国際基準(欧米基準)で考えればいい、それに従っていればいい」と傲慢に言い募る評論家でしかないから、ついに二重化できる頭脳は身につかなかった。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(1) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
病気は気からということですな。ちょっと違うか?
Posted by 歯 at 2015年10月06日 06:58
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