2015年10月19日

脳細胞の真の実力をつけるとは(1/2)


《1》
 先日、わが空手流派の秋期大会があった。
 武道と自称する団体やスポーツ団体は、競技会などを開催するときには、大組織ならテレビ放映を企画する(放映権を売る)し、協賛、後援などとの名目で企業や行政からカネを集める。
 進んでひも付きになるわけだ。あるいはテレビ局や企業にたかる。

 しかるにわが流派では、派手に東京武道館なんかでは大会をやらない(武道館でやるなら莫大なカネがかかる。企業にカネをたからないと開催できない)けれど、どこのひも付きにもならず、たかりもしないで、自分たちで大会をやってきた。
 それが誇りである。

 マラソン大会なんかでは、参加者はゼッケンに企業のロゴなんかを入れて走っているが、まあ互いに持ちつ持たれつだからいいようなものだが、一抹の羞恥心くらいは持ってはどうか。あれは「企業様にたかりました」と言いふらしながら走っているのである。

 ついでに言うと、市民ランナーとか言って自慢している連中だが、街中で交通を止めて大イベントをやらかすのはどうかしている。もっと田舎のたいして市民生活に迷惑がかからない道路でやりなさいよ。熊しか通らない高速道路とかで。
 交通整理にあたる警官だって、国民の税金で公共のための奉仕が建前なんだから、マラソン団体が私物化していいとは言えまい。

 さて、と。話を戻そう。
 われらが大会で、後輩の試合や後輩の係員の様子を見ていて感じたことがいくつかあった。終わってから少々先輩としてアドバイスをしておいたことである。

 組手試合(防具をつけて実際に闘う)に初めて出場した後輩には、技術的なこと以外に、認識に関して若干注意をした。
 組手が初めてだから、下手でよくやり方がわかっていないことはしょうがない。私もデビュー戦のときにそうだったが、とにかく相手に当てたい一心になってしまう。

 それで負けて勉強するわけだが、後輩に足りないものは、まずは闘魂であり、そして認識の躍動感であると思えた。
 空手をやるのは、いざ暴力をふるわれたときに対応できるためではあるが、同時に自分の精神を鍛えることにある。
 精神を鍛えるといっても、一般の人には漠然としてわからないだろうが、さまざまある。

 後輩は試合で広いコートを存分に使わずに、畳一畳のなかで闘っていた。コートを駆け回ればいいというほど単純ではないが、あまりに組手に躍動感がなかった。
 彼は年齢が31歳だから、空手デビューにしては年齢がいっている。
 これから年をとるほどに躍動感が薄れていく。それを意識して創らないと、おとなしい組手になっていきかねない。

 組手ばかりか、自分の人生や仕事に躍動感がなくなっていく。

 もっと荒ぶる魂が発揮できるよう、日ごろから意識して認識に躍動感を持たせる訓練をしたほうがいいと注意した。例えばクルマを運転して高速道路をぶっ飛ばすとか、台風のさなかに出かけていって、海の波打ち際で駆け回ったり大声を叫んだりとか…なにかの方法で、どうしたら躍動する認識が身に付いていくかを考えたほうがいい。

 以前藝術論でも書いたが、画家は狭いアトリエでだけキャンバスに描いていては、躍動感が薄れる。広い校庭なんかで棒や箒でもって目一杯大きな絵を全身を使って描くことが大事である。

 初心者は上級者のような上手な組手ができるわけがないが、結果を恐れず突っ込まなければいけない。どうせ下手なんだからカウンターをくらうに決まっているけれど、それをも跳ねとばす勢いで闘う認識が必要である。

 この後輩は天寿堂・稲村さんの弁証法ゼミで、一時期勉強のほうで指導したことがあった。彼にはゼミでバカにされてもいいから積極的に発言しろ、論争を挑めと言ったが、なかなかできなかった。どうしていいかわからない、という状態だったと思う。初めてのゼミだからやむを得ないが。

 それから稲村さんの指導でどう成長したかは知らないが、大会の組手を見るかぎり、まだ自分が大事というか殻を破れていないような気がしたのである。
 勉強でとか仕事でとかで、正解を得る、成功させる、という実果を得たいのは当たり前のようだが、それ以上に大事なことは、一言で言って躍動感、能動性、闘魂、情熱、である。

 そういう精神性が養成できれば、よしんば目の前の仕事や入試、恋なんかで失敗したとしても、きっと挽回できるチャンスは得られる。次は初回の失敗を糧に勝てる。
 しばしば世間では、学校時代に勉強の虫で、秀才街道をまっしぐらに歩いてきた人間はいかにも超一流校に入学するが、異性に持てず異性に挑めず、何をやるにも覇気がなく、仕事も研究に没頭するならいいが、対人関係をからめると全く無能、となる人間が多い。

 しかし小学校のときから成績は二の次で、ガキ大将、あらゆる悪戯をやりまくった…なんて人間は、どんな二流三流の大学を出ていようとも、仕事はちゃんとやれるし、恋愛も盛んで、人に好かれる、となる。
 つまり子供のころに遊んでいるようでも、そこで躍動感、能動性、闘魂、情熱を養ったればこそ、そういう脳細胞に仕上がっていればこそ、社会に出て人間らしい活躍ができるのである。

 受験秀才が貯め込むような知識は、あとからでも学ぶことはできるし、今やインターネットを駆使すると、一発で知識は得られる。
 武道空手はベストだが、縦横に動き回るスポーツならいいだろう。サッカー、テニス、バスケットなどは良い。卓球やバドミントンは足の動きが少ない。

 それで骨や筋肉を鍛えるだけでなく、躍動する脳細胞にすることが最も重要である。

 だから今度の安倍総理の改造内閣でも、東大出の閣僚の少ないこと。昭和時代の内閣はほとんどが東大卒で、まれに京大や早稲田がいる程度だった。
 むろんその一例だけで語るわけにはいかないが、どうして東大がこうまで萎凋したかは、大きな教育の失敗があるのである。
 政治家以前に、受験秀才は人間的魅力が欠落してしまう。

 われわれの流派とは無縁に、関西のほうで弁証法の勉強会を真面目にやっている会に出向いて、いっとき話をしたことがあった。秀才揃いで、彼らのゼミの様子を聞くと、まあ大学の一般的なゼミのごとく、誰かが調べてきたことを報告し、他の者がそれに意見を言うということで、言葉は悪いが淡々と進めているのだった。

 例えば三浦つとむさんの『弁証法はどういう科学か』をテキストにして勉強会をやるにしても、ここで三浦さんは何を言おうとしているのか…と話し合うこと自体は必要だし、それが第一の目的のように思えるであろうが、それではダメなのである。

 私はそのとき「ゼミでは俺がこの場を支配するんだ」という魂が必要だと説いた。支配するとは、むろん怒鳴って他人にしゃべらせないなんてことではない。気魄、情熱、能動性、それに論理で場の主役になろうと、それぞれが立ち向かうことなのである。黙って人の話を聞いているだけでは成長できない。

 ゼミは空手に譬えれば組手だ。
 明日詳述するつもりだが、弁証法や認識論は、普段身についていない、また幼児のときから習得してこないものの考え方である。非弁証法的考え方が圧倒的に日常になっているだけに、よほどの「質」でもって、「量」に負けないようにしなければ、弁証法や認識論が自家薬籠中のものになっていかない。

 その「質」を獲得するため、あるいは「質」で勝負を賭けるしか、出遅れ、脳が形而上学的かつ常識的になじんでしまったテイタラクの己を変えるすべはないからだ。
 だから気魄、情熱、能動性を前面にあらわにして、ゼミのチャンスを生かさなければいけない。




 

posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする
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