2015年10月26日

龍安寺石庭の謎を解く(1/5)


《1》
 先日、京都へ旅行していくつか寺社仏閣を巡った。龍安寺は中学の修学旅行で連れていかれて以来だから、ほとんど初見同然だった。紅葉にはまだ少し早く、その分観光客は少ないようだが、それでも大変な人出。支那人があまり来ていなくて(良かった!)、むしろ欧米人が多い印象だった。
 欧米人のほうが、「禅寺」への関心があるからだろう。

 さて、その龍安寺が入場者にくれるリーフレットには、石庭についてこんな説明書きがある。
 「この石庭は、東西25メートル、南北10メートルの空間に白砂を敷き詰め、15個の石を配したものです。極端なまでに象徴化されたこの石庭の意味は謎に包まれており、見る人の自由な解釈に委ねられています。
 室町末期(1500年ごろ)、特芳禅傑などの優れた禅僧によって作庭されたと伝えられています。」


 これでみんな納得させられているようだ。納得できないけれど、しょうがない。禅とはそもそもそんなものらしい…と。
 特芳禅傑(どくほうぜんけつ)を「優れた」と形容しているが、こういう根拠も示さずあたかも客観的評価であるような物言いは、媚中副島隆彦式と言って、よろしくない。

 石庭の意味を、この庭は海を表現している、白砂はおだやかな海、石は島だ、と言う向きもある。私はそんなことは関係ないと思う。
 たしかに創作者の解説書が残っていないのだから、「見る人の自由な解釈に委ねられている」ことになる。

 しかし、人間はそもそも目的意識的存在である。なにか行動するとか、創るとか、表現するとかするときに、何も考えずにやることはあり得ない。はじめから「見る人の解釈に委ねる」ために創るのではない。室町時代の禅僧は、何かの目的意識があって創ったのだが、それが後代においてはわからなくなっただけのことなのである。

 認識が行動を決定する。これに例外はない。自閉症と言えども、2歳児は2歳児なりに認識が外界の反映を拒絶する決定をしたのである。
 「見る人に解釈を委ねる」目的で創作した藝術があるじゃないかと言われるかもしれないが、それすらも「解釈を任せるという目的意識」がある。私が言っているのは、何も考えなくて何かを創ることは絶対にない、ということである。

 龍安寺石庭は、写真や動画で誰もが知っているが、やはり写真でわかったつもりになるのと直に本物を見るのとでは大違いである。
 縁側に座って目の前の白砂を見ていると、ただの石ころが何か人の温もりが感じられる気がしてくる。はじめに創った室町時代の禅僧から、以来、この寺で毎日毎日、白砂を掃除して白砂にスジをつける行為をしてきた人間の思いがそこには詰まっているからである。

 それが見てとれただけでも、龍安寺を見に行ってよかった。直に見たから石庭の謎が解けた。
 もしも創建した当時の禅僧が現代に生き返って、今の枯山水の庭を見たとしたら、彼は仰天するだろう。500年の時がどんな「実果」を生んでいるか、きっと想像もできなかっただろうから。

 そこにあるのは、弁証法で言えば「量質転化」の実際である。500年引き継がれて来た白砂を毎日創りなおす行為。500年前とまったく同じ景色、石、砂(砂は入れ替えたりしているだろうが)なのに「違う!」と、その生き返った禅僧が見たならば、感じ取って仰天するに違いないのである。

 ここにある日本料理の割烹があるとして、そこの主は50年もの修行をしてきた名人であって、料理を食べた人は必ず絶賛する腕だ。で、その割烹で育った弟子が修行3年でも5年でもいいが、それなりに主と同じ形で料理が創れる実力があるとして、魚や野菜も調味料もみんな主と同じ素材で料理を創ったとしたら、その弟子は主と同じ最高の味を出せるだろうか?

 そのように考えてほしい。50年の修業を積んだ主と、わずか5年の弟子では、その量質転化化の重みが全然違うのである。
 必ずそうなる。
 それが龍安寺石庭でも(量質転化が)「ある」と見てとれない人は、「謎」は謎のままなのである。
 ただ日本人なら、文化を肌で知っているから(量質転化しているから)、そうした理屈めいたことには気付かなくても、「なんとなく素晴らしい!」と感じることができよう。

 石庭の岩の配置は、美術で言う「ムーブメント」つまり流動感、躍動感が備わっている。大きさを微妙に変え、岩を置く位置をたくみに取りして、見る者が目をうまく動かすためにそうしたムーブメントは生まれる。

 そのうえ、周知のように、バックの土塀は正面から見て右へいくほどに幅が狭く造ってあって、遠近感を出すような仕掛けにもなっている。
 そういう工夫が、室町時代の昔から考えられていたことに驚く。彼ら僧は美術学校で学んだわけでもないのに。

 そういった現代美術的知識で見ても、インタレストを感じる庭であるけれど、文化風土が違う欧米人がなんぼ石庭に目をこらしたところで、これは見て取れまいし、ましてガサツの極みの支那人には絶対に無理である。
 今回、私が縁側に座って石庭を見ていると、隣りに白人の年配の婦人が座ったが、1分ほどで立ち去った。

 日本人なら何十分でも眺めていて飽きないのに、外人ではなぜそんなに長い間座って見ていられるかわかるまい。たぶん「砂で表現した海原なのか…」と思って、わかったつもりになるほかあるまい。
 別に外人をバカにしているのではなくて、石庭の意味がわかるかどうかは、国の文化風土の量質転化があると言いたいだけである。

 「藝術とは、自らの世界観、人生観を研鑽して、把持して、対象を描いて、心象風景として鑑賞に耐え得るレベルで外化したもの」とわが流派では教えてもらえる。
 しかも「鑑賞に耐える」には二重構造があって、作品そのもののレベルの高さだけでなく、鑑賞者のココロのレベルの高さが要求されるのである。

 ド素人を感動させるのは藝術ではなく、鑑賞し得るレベルのココロを持っている人でなければ感動できない、そういう高度な世界の営為なのである。端的には、自分を文化人として研鑽してきていない人には、どんな素晴らしい藝術作品を鑑賞しても、わかりはしないのである。
 石庭の鑑賞にもそれが当てはまる。

 龍安寺のリーフレットに「石庭の意味は謎に包まれている」との文言があると紹介したところから本稿を始めた。一般の観光で来た人たちにとって「謎」なのは、禅の不可思議性があるわけだが、鑑賞者のレベルの問題との二重構造なのである。

 一般の人たちは子供の頃から、学校教育で個性大事でチヤホヤされ、その学びも楽しいありかたが主流になっている。テストで間違ったからとて教師にビンタを喰らうことはない。廊下に立たされることもない。子供が興味を持ってくれる工夫に満ち、楽しい授業にドップリ漬かるから、登校拒否の子ができる。「耐える」「辛抱する」脳細胞が育たない。

 そういう教育環境で育った日本人に、「耐える・辛抱する」の際たる厳しい修行であった龍安寺の坊主の、日常も思想性も理解及ばざる世界なのである。
 龍安寺に限らず、本来的には寺の修行僧は日の出前には起床して、朝の清浄な空気のなかで修行をはじめる。
 今のたいていの若者は、深夜まで起きて勉強して遊んで、脳が疲れ果てたなかでグズグズになっているのだから、とうてい修行僧のレベルに達し得ない。

 龍安寺が創建された時代、仏教は今日のように堕落していなかった。人生そのもの、あるいは人の生き死に関して、仏教ほどの優位性をもって道を説いた観念はなかったのである。
 それが仏教の思想性の高み、誇りであった。
 そうした思想性や誇り、志が、龍安寺を創らせ、石庭を創らせ維持させたのである。

 われわれの空手では、空手は放っておけば殺し合いの術でしかないものであるが、日本文化の高峰に昇れたのは技を思想性高く、誇り高く創りかつ学んできたからである。
 バレエがレベル高くあるのは、思想性の高みゆえである。ジャズダンスではバレエのような思想性は獲得できない。バレエの思想性の高みは、クラシック音楽だからである。それも歴史に残る名曲に合わせての舞踏だから、相互浸透して高みを誇れる。

 ちなみに日本舞踊は、思想性や誇りでバレエに遠く及ばない。日本舞踊は認識の表出としてどんなに見事であっても、誇り高きにはならない。
 内輪の話だが、われわれの空手の新年会の酒席で、日舞を披露した方がいた。ご本人は良かれと思ってのことだったろうが、世界に冠たるを誇るわれわれ組織としては、はなはだふさわしくない行為であった。

 能は、世阿弥以降江戸期までは、思想性の高みはなかった。それが藝術とまで言える高みに到ったのは、明治時代になって梅若実が再創造したからであり、完成の域に達したのは昭和時代のことである。謡を思想性高く捉え返したからだった。

 バレエが、昔は卑猥なダンスであったものを、アンナ・パブロワやマイヤ・プリセツカヤらが、高みに引き上げたのと似ている。

 龍安寺の石庭の高みは、当時の最高レベルの文化だった仏教の思想性の高みがあったからである。
 むろん、現在では京都の仏教はその面影は無く、なんと祗園や宮川町の花街の客で最も多いのは坊主なのである。拝観料で稼いだカネで舞妓を呼んで豪遊している、だからもう、石庭の意味は彼らにはわからなくなったのだ。

 往時の特芳禅傑が「優れていた」と言うからには、これだけの根拠を説かねば、容易く言ってはならないのである。
 
 





posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする
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