2015年10月29日

龍安寺石庭の謎を解く(4/5)


《4》
 さらに幸いなことに、京都旅行では次の日に宇治の平等院に行くことができた。平等院は平安時代のまっただなか、藤原氏の最盛期に建てられている。道長の別荘を息子の頼通が寺院に改修して創建したものだ。極楽浄土を現世にイメージしたと伝わる。つまりは貴族たちが死を恐れ、それを安心してお迎えが来てくれるよう願った施設である。

 貴族本人の死への恐怖もあったろうが、基本は国家にとって大事な貴族階級が死ねば、国家の大事に至るから、死者が無事に極楽浄土に行ってくれて、決して怨霊なんぞにならないようにとの配慮が、平等院建立の目的であったろう。

 一見、平等院は朱色に塗られ、黄金が飾られて華やぎがあるようだが、それは一部の貴族だけの世界で、時代としては暗い。
 貴族以外の平民はとんでもない苦しい世界に落とされていた。
 大量の賤民=被差別民がつくられ、山奥に押しこめられていた。

 それが平家、源氏、北条氏らの元は賤民と考えられる種族が台頭して、平安貴族の支配から自らを解放したのである。だからこその「中世の華やぎ」がこの時代に感じられるようになる。

 平安時代は仏教は個人の問題よりも貴族のため、国家のための奉仕が第一であった。それが当たり前の人々の認識だった。僧や武家の個人レベルの修行や心の安寧が許されていたわけではない。
 それが鎌倉時代から徐々に解禁されていく。だから中世の華やぎになっていく。
 そしてまた江戸時代になると仏教は、庶民を抑圧する側に戻っていくのであるが…。

 こうした時代(古代)を切り開いた先駆者が、源義経であったと思う。彼が志を把持しつつ、峻険な鞍馬山での運動で、平安時代の人間にはなかった隔絶した脳細胞の機能を手に入れたことで、平安時代のまだ続きであった平家の政権を打倒したのであり、時代の空気を激変させたのであった。
 
 その輝ける記憶は、今日まで地下水のように日本民族の魂として伝承されている。だからその民族的記憶ゆえに、今も義経をみんな大好きなのだ。彼こそ日本最大の英雄である。彼自身はまだ古代の人間であったろうが、古代社会を終わらせる先陣を切ったのである。

 古代社会を終わらせたから、鎌倉、室町になって個人の心のありようを真摯に問える仏教が隆盛を見せるようになっていく、それが禅の流行であったり、庶民レベルでは日蓮宗や浄土宗、浄土真宗などが登場してきたりする環境が整う。

 そうした心の自由自在が、中世の華やぎの本質となる。
 禅僧たちは、不立文字(ふりゅうもんじ)などと言いつつ、せっせと漢詩を詠んだ。漢詩が詠めると出世も早かったとか。いまだに鎌倉など五山の寺には整理しきれない漢詩が山のようにあるとか。
 不立文字とは、禅宗の教義を表す言葉で、悟りや教義の伝承は、文字や言葉によらずに、師から弟子へ体験によって伝えるものこそ真髄であるとする。

 だから当然に龍安寺石庭も言葉で意味・意義を伝承するものではなかったのだ。毎日毎日、白砂を掃除して庭を造り直すことの繰り返し自体に、その不立文字を捉えさせようとしたのであろう。
 したがって、龍安寺の石庭を、そのものとして眺めることはたいして意味もないことなのである。

 藝術の論理構造を説くならば、として以前、わが師の解くところを紹介したことがある。
 それはこうだった。
 普通は相手の書いた文章の、文章の像だけがある。音楽ならば、たいていは聴いた音楽で像ができる。たいていはこれで鑑賞したつもりである。
 しかし本当は、相手が書いた文章の、その後ろにある現実が見えなければいけない。音楽を聴いたらその音楽の向こう側の世界が見えることだ。

 作者がこんなものを見て小説を書いただろうとか、作曲しただろう、作詞しただろうという向こう側の世界を見て取るのである。
 これが本当の論理構造なのだ。
 論理構造には二重構造がある。対象の論理構造(実在)と、それを頭の中にいれた認識の論理構造とである。
 ほとんどの人は、この頭の中の論理構造で文章を書く。

 けれども、本来あるべきは、頭の中に反映したその実体(実態)の論理構造を書く(捉える)のだ。…というのである。
 これを龍安寺の枯山水にあてはめるとどうなるか。

 見えている石庭を、海みたいだなとか、飾りを極限まで省いた庭だなとか、ムーブメントがあるとかは、対象そのものを見て、それで感動しているレベルである。だが作者たる禅僧が何を見て、何を意図して作庭したのか、そして延々500年、同じものを日々造り続けたのは何を意図してかを見て取ること、観念的に二重化すること、それは至難の技である。

 それゆえ、例えば五山文学の境地とか、『風雅和歌集』とか、光厳天皇が隠居してつくった常照皇寺とかに共通するスピリットはなんなのかを探るのが一つの道である。観念的二重化の指針になる。
 わが高校時代の恩師はその共通するものを「中世の華やぎ」と捉えたのであった。

 相手が書いた文章の後ろにある現実、音楽を聴いたらその音楽の向こう側の世界を見てとる、その第一は禅そのものの理解なくしては不可能であり、また、その時代の特性を、飛鳥、平安と続いて来た日本社会やココロの過程的構造をも見てとって、やっと石庭の理解の端緒につけるのである。

 しかもやっかいなのは、当の禅僧たちはあろうことか、論理構造そのものを否定してかかるご仁たちなのである。それについては既に縷々述べてきた。対象の構造を解き明かすことで安心を得るのではなく、問題を問題としない己れを手にいれるために境地に没入しようというのだから、言葉は悪いが手のこんだ詐欺を見抜かなければならないようなものである。

 ここに、禅が、人の生きざまを説き、一大文化遺産となりながら、大きな欠陥を抱えこまざるを得なかった宿痾がある。
 不立文字(ふりゅうもんじ)などと格好をつけたことが間違いであったことである。

 不立文字とか以心伝心では、ある達人レベルで悟りの境地に達したとしても、あるいは「生死一如を極めた」としても、その人間だけの話になる。どこにも教育論・指導論がないままである。
 教育とは何かと言えば、わが流派の合宿等で説かれるのは「教育とは文化遺産の学びと、学び方を教えることである」と。

 文化遺産の自己化と、その習得法の二重構造が教育論の根幹である。だが、禅には譬え立派な生死一如を極めた高僧がいても、後進の者がそこに到る方法は教えてもらえない。その二重性がないから、禅家には「禅とは何か」が解けないテイタラクが続く。

 これは弁証法にも言えたことで、三浦つとむさんは、弁証法はどういう科学かは説いてくれたが、その修得法、学び方は説かなかった。そこまでを説き(解き)切ったのは南ク継正先生が世界初だった。
 五山文学にしろ、龍安寺石庭にしろ、ある認識の境地は表出し得たが、その高峰に昇る道(学び方)は、何もできなかった。

 ところで。
 藝術の話になったので、禅に関連して山水画と頂相(ちんぞう)についても述べておく。
 五山の詩は絵画的であるが、その理由のひとつは山水画の上に讃を書く。讃は詩だから、五山詩は山水画に書かれたものが多かったはずである。

 頂相(ちんぞう)とは、禅僧の肖像画である(あるいは彫刻)。高僧が弟子に印可を与えるときに自分の肖像画を下さる。肖像の上に「偈文(げぶん)」という漢詩の形を取った説法をしたため、これをいわば卒業証書とした。
 教科書にも出てくる源頼朝や平重盛の「似絵」は、この頂相の技法の流れである。頼朝と重盛の像は藤原隆信という下級公卿が描いたとされる。

 頂相は、対象の人物をそっくりそこに居るように描かねばならないが、ただ似顔絵を描くのではなく、その人の精神を絵に描くのである。技法は支那から入ってくるが、これで日本の肖像画のレベルが格段に上がった。頂相は禅が支那から入ってくるのと同時だった。

 禅寺では、開祖の肖像画や木像を安置して、そこに毎日一人前の食事をお供えする。生きておられるかのように。だからいつも開山が睨んでいる、見張っている、という感じになる。
 その緊張感があって、例えば石庭の掃除や手入れもあだや疎かにはできない認識になる。

 室町時代のこの頂相が、能面の誕生につながる。能面の精神性の高さは、こうした伝統に支えられている。




 

posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
更新を毎日楽しみにしております。
禅のことはむずかしいですが、よく分かりやすく説いて下さって、感謝いたします。なんでもよくご存知で驚きます。
五山文学も初めてその内容を知り、感動しております。
わたくしも龍安寺には行きました。石庭が「中世の華やぎ」と言われると、なるほどと納得できるものがあります。すばらしい言葉ですね。
Posted by 白井奈津子 at 2015年10月29日 15:40
白井奈津子様

激励ありがとうございます。
でも私なんぞ知識は乏しいです。
Posted by 白井奈津子様へ(ブログ筆者です) at 2015年10月31日 07:46
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